05-9 鼠の鳴き声。あるいは液体を啜る音




 メイたちと別れたヘルメスは、重い足取りで指令室に向かう。指令室のドアがひとりでに開き、そこからヴィクターが出てきた。にらみつけるような鋭い眼光と鉢合わせになり、ヘルメスは何を言うかしばし逡巡したのち、「ステラは大丈夫か」と聞いた。


「ああ。いろいろ調べさせてもらった。体のダメージはどうにか治療できたから、ずいぶんよくなったはずだ。心臓に関しては呪いが複雑に絡まって俺だけじゃ手に負えん。医術ではどうしょうもない魔術的な……魂の領域の治療が必要なんだ。そこはトシャに任せるしかない」


 ヴィクターがまったく表情を変えずに言った。エロいこと要素など微塵も感じさせない言い回しにヘルメスはひとまず安堵した。同時にステラの容態が思っていたよりも重かったことがわかり、心配にもなった。


「俺はトシャと話をしてくる。あんたはステラと話してくれ。気丈に振舞っているがあの子は不安なんだ。安心させてやってくれ。ステラの心のケアは、たぶん、あんたにしかできない」


「わかった。ひきつづきステラを頼む」

 

 ヴィクターはぶっきらぼうに「ああ、任せろ」と言うとヘルメスの横を通り過ぎて行った。


 森を抜けて、人間たちの国へ行く……メイの計画に乗るのは今は無理だなとヘルメスは思った。今のステラは過酷な旅についてこれない。ステラを置いていくなどヘルメスには考えられない。せめてステラが回復してからでないと。


 指令室に入ると、ベッドに腰かけたまま顔が隠れるほどうつむいたステラの姿があった。ただならぬステラの様子にヘルメスの不安は高まった。


「ステラ」


 ヘルメスの声にステラは顔を上げた。涙のたまった瞳でヘルメスを見ると、口元だけ微笑みを浮かべた。


「あらマスター、おかえりなさい」


 目を指でぬぐいながらステラは言った。


「た、ただいま」

 

 ヘルメスはおずおずと言った。

 

「こっちに来て。わたしの隣に座って」


「……うん」


 腰を下ろすとどこか遠くを見ているようなステラの横顔がある。沈黙が気まずい。ヘルメスはとりあえずいつものように何があったかを報告することにした。


「さっきさ。ジンリンのとこに行ってきたよ。トシャも連れて行きたかったけど、結局ひとりで行ったよ。考えてみたらクーもトシャもヘビ男たちも、誰もジンリンのこと知らないんだよな。さびしいけど、時間は前に進んでるんだな」


「……」


「トシャがみんなに馴染めるか心配だったけど、大丈夫そうだった。きっとクーがトシャをフォローしてくれたんだ。そういえばジンリンが死んで、すっかり忘れてたけど、もともと第3階層はジンリンとクーに任せるつもりだったんだよな。あいつらいいコンビになるかもしれないよ」


「マスター」 


 ステラはそういうと上半身を傾け、ヘルメスの肩にもたれかかってきた。ステラの体重と体温、鼓動と息づかいが触れた部分から直に伝わってくる。落ち着こうと慌てて深呼吸をしたら、ステラのフェロモン混じりの甘い匂いを胸いっぱいに吸い込んでしまった。落ち着くどころではなくなったところにステラの腕がヘルメスの腕に絡みついた。柔らかい感触が押しつけられ、ヘルメスは軽いパニック状態になった。

 

「ステラ……!?」


「……しゃべらないで。少しだけこうさせて」


 ヘルメスは口をつぐみ、心臓をバクバク鳴らしながら沈黙を耐えた。やがてステラは上体を起こし、今度はヘルメスの両肩を掴んだ。ベッドの端で、隣同士腰かけながら、ヘルメスはステラと向き合った。


「ヴィクターがね」


 とステラが話し始めた。ヘルメスは喉をならした。ステラの様子がおかしいのは、ヴィクターになにかされたからなのか。


「トシャちゃんにわたしの体を見てもらった方がいいって」


「うん」


 ヴィクターに何かされたわけではなさそうだ。ならなぜステラはこんな落ち込んでいるのだろう。


「見てもらったらいいじゃないか。魔術的な治療はトシャがやるんだし」 


「でもね、トシャちゃんの診察って独特らしくて」


「どんなだ」


「水になってわたしの体の中に入るんだって」


 ヘルメスはトシャの初登場の場面を想起した。ムスヒの口から大量にぶちまけられた吐しゃ物。あれの逆をステラがやるのか。


「それは……きついかもな」


「トシャちゃん、わたしの口から中に入るみたいで」


「おお」


 ヘルメスはトシャが口の中から入る様子を想像した。イメージだけで腹がパンパンになりそうだ……


「マスター、どう思いますか?」


「どうって、治療だから仕方ないだろ」 


 ステラは不満そうに口を尖らせた。

 

「わからないんですか。このままだとわたしのはじめては、トシャちゃんに奪われてしまうんですよ」


 ステラが少し唇をすぼめ、つきだした。ステラの、わずかに開いた口唇の隙間からぴっと音がした。


「……はじめてはマスターがいいなって」

 

「ステラが何を言っているかわからないよ」


 ステラは「本当にわからないんですか?」と上目遣いにヘルメスを見た。

 

「問題。鼠の鳴き声。あるいは液体をすする音とはいかに?」

 

 ヘルメスは考える素振りをしながら目だけを逸らし「……ちゅう?」と、答えた。視線をステラに戻すと、ステラの顔がすぐ近くにある。


「好きですよ」


 ステラの返事がヘルメスの鼓膜を震わせた。ステラの口の周りにある柔らかいひだのどちらかが、ヘルメスのそれに触れた。それは1秒にも満たない、つかのまの接触だった。だがそれで十分だった。それだけでふたりのなにもかもが繋がった気がした。



 




「最近ずっと、ステラの様子変だなって思ってたんだ」


「うん」


「リコリスの呪いで変わっちゃったのかもって心配してたんだ」


「ううん。ちがうよ。あれが本当のわたし」


「そうなの?」


「わたし、強い女だったでしょ。ずっと」


「うん。そりゃあもう」

 

「でもほんとのわたしは戦うの怖いし……ガレキの城でも全然役に立てなかった。リコリスに負けて、マスターに守ってもらって。ほんとのわたしはやっぱり弱いんだなって思った」


「そんなことないよ。ステラはバアルを半殺しにするし、おれなんか何度殺されかけたかわからないほどだよ」 


「……だから、帰ってからはリコリスの呪いのせいにしてマスターに甘えてた。マスターに守ってもらう、弱くて、うす汚い、本当のわたしでいさせてもらったの」


「そうだったのか」


「でも、弱さを認めたわたしは、ほんとのわたしなのに、全然わたしらしくなくて。やっぱりわたし、強くありたいって思った」


「おれはどっちでもいいけどな。ステラはステラだ」


「呪い、絶対解かなきゃね。守ってもらうだけじゃない、あなたを守れる、強いわたしであるために」


「うん」


「だから。今だけは……弱いわたしでいさせてね」


「……ああ」






 

 ヘルメスとステラは少しの間眠った。


 ヘルメスが目を覚ますと、ステラはいつもの見慣れた白いドレスに着替えていた。ちょうど腰に刀を差しているところだった。少し前まで着ていた黒いキャミソールは丁寧にたたまれ、ベッドのそばのカゴの中にしまわれていた。


「おはようございます、マスター」

 

「おはよう。なんかよく寝ちゃったな。その……」


「たまにはいいんじゃないですか。その……寝るのも」


 ステラが頬を紅潮させはにかむ。ヘルメスは「そうだな」と照れくささをごまかすように頭を掻いた。



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