04-72 コネクテッド(仮) その④
*
シャニの名前を噛まずに言えた。そんなことはできて当たり前の前提にすぎなかった。シャニが仲間になった。そのことでヘルメスとシャニは大いにはしゃいだが、ヘルメスはシャニを仲間にした後のことを考えておくべきだった。
シャニが仲間になった時点でできるようになったことが、たくさんあった。例えばシャニが張った空間転移を阻む結界の解除。これを実行すれば諸国連合攻略隊やクーやヘビ男たち、さらにオネストをこの場に呼ぶことができた。ファムの戦力も合わせれば、ガレキの城を打倒することができたかもしれなかったのだが、ヘルメスはそのことに気が付かなかった。貴重な機会をヘルメスは棒立ちで見送ってしまった。
だがもっとも重大な見落としは『バアルに名づけをさせてはいけなかった』。これに尽きる。ヘルメスはシャニを仲間にした時点で、バアルに名づけの機会を与えることなく、ステラとシャニを連れてすぐさまダンジョンへと帰るべきだったのだ。
ヘルメスはバアルに名づけをさせてはいけなかったと後悔する。
*
「やった! やった!」
とはしゃぎ合うヘルメスとシャニの合間に、『パチン』という指パッチンの音が響いた。
デリートという究極の暴力を引き起こすその音にヘルメスは冷静さを取り戻した。が、シャニはまだはしゃいでいた。
「ん? どぅしたの?」
とヘルメスに遅れてシャニが首をかしげたとき、ヘルメスは『やられた』とつぶやいた。床に設置されていた転移魔方陣がきれいさっぱり消滅していたからだ。
バアルはガレキの城のダンジョンマスターである。モンスターだけでなく自分のダンジョンの設備も自由にデリートすることができる。
おそらくシャニの転移回線を操作する力は転移魔方陣がなくては効果を発揮することができないだろう。バアルは転移魔方陣をデリートすることでシャニの能力を封じたのだった。
「ぁぁぁ! 魔方陣が消ぇてる!」
転移魔方陣の消滅を知ったシャニは大いに動揺した。
「シャニ、この状態からおれたちが帰れるか」
とヘルメスが一応聞いてみると、シャニは首を横に振った。
「転移結界の解除も、ダンジョンへの空間転移も転移魔方陣がなぃとどぅにもできなぃょ……」
「そうか」
つまりヘルメスたちはダンジョンに帰る術を失った。
「ちくしょう」
ちくしょうで済むレベルの失態ではなかった。名づけが上手くいったからと言ってはしゃいでいる場合ではなかった。いやよく考えれば、バアルが天井から落ちてきた時も冷静に名付けを済ませ、帰る準備を進めてさっさと帰還すればよかったのだ。
状況に流されて、バアルのゲームに付き合って、シャニの名づけに成功してはしゃいでいるうちに、結局帰る術を封じられてしまった。帰る機会はいくらでもあったのに……バアルはシャニのデリートをちらつかせることでヘルメスの思考を狭め、名づけのゲームに持ち込んだのだった。ヘルメスはバアルの雰囲気に飲まれ、正常な判断ができなくなっていた。
これがバアル。
ヘルメスが敗北感とともにバアルを睨みつけたとき、視界にバアルと見つめ合うステラの姿が映った。バアルによるステラへの名づけが始まっていた。
「あ」
床の上でちょこんと座るステラの瞳を、立膝をついた姿勢のバアルが覗き込んでいる。美男美女が見つめ合う姿は絢爛な絵画のごときで神々しささえ感じられた。
ステラの表情は虚ろで、いつもの気勢が感じられない。これまでの戦いで蓄積した疲労もあるしリコリスから受けたという〈眷属化〉のスキルの影響もあるのだろう。にしても敵の首魁を前にしてステラは声を上げることすらしていない。おとなしすぎた。まるで魔術にかかったかのようだった。
魔術――そうか、暗示、洗脳、催眠……ステラに名前を受け入れさせる術などいくらでもあったのだ。名前を受け入れてもらうために必ずしも心を通わせる必要はない。名づけによる魔物の取り合いでは、暗示や洗脳で魔物の心を殺すのは『アリ』なのだ。心を通わせるよりも、そのほうが効率がいいくらいだった。
バアルに名付けの機会を与えてはいけなかった。名づけのゲームをそもそも受けてはいけなかったのだ。
「ス、ステラァァーッ」
後悔とともにヘルメスは可能な限りの大きな声で叫んだ。しかしステラにはヘルメスの叫びなど耳に入っていないというようで、虚ろな表情でバアルと目を合わせ続けていた。
こうなったらバアルをぶん殴って名づけを止めるしかない。ヘルメスは再び駆け出したのだが、またもや例の魔術的な壁に阻まれた。幾何学的な魔術の模様にヘルメスの前進は止まる。ヘルメスはステラの名を叫びながら壁を何度も殴ったがびくともしなかった。
「君の
「……」
バアルが言うとステラはうつむき目を伏せた。そしてその目から一筋の涙がこぼれた。
「主人に裏切られて悲しいんだね。僕が君のマスターならそんな思いさせないのに」
「……」
と言って、バアルはステラのほほに手を伸ばした。ほほをなぞりながら顎をクイッとあげる。
「あの主人は君の価値に気づいていない。『神属』を手に入れた意味を理解していない。『ステラ』――君に新しい名前をあげよう……君にふさわしい『神の名前』をね」
「……」
バアルはそこで一度目を閉じた。
「君に授けるのは『愛と戦いの神』の名……僕にとって最も大切な名前だ。愚かな僕のせいで死んでしまった妹の……君にはその名を継いでほしいんだ」
「……」
ヘルメスは魔術の壁を力強く何度も叩き『ステラ』の名を呼び続けた。ステラはそれに反応することなく、バアルの言葉に聞きいっているように見えた。
バアルが目を開いた。バアルの目は妖艶な光で赤く染まっていた。ステラの瞳にバアルの赤い瞳が映り込んだ。赤い光がステラの瞳をじわじわと侵食していくようだった。バアルの術が、ステラを蝕んでいく。
「君の新しい名前は――」
ヘルメスは魔術の壁を激しくたたきながら『ステラ』の名を叫び続けた。ヘルメスの拳の皮が破れ血が流れたが、それでもヘルメスは叫ぶのを止めなかった。
バアルが口を開いた。そこから紡がれる名は――
「――”アばぶひぇッ”」
名づけの途中でバアルの顔がひしゃげた。バアルの左頬にはステラの右拳が突き刺さっていた。錐揉み回転が加えられたステラの拳はドリルのようにバアルの美しい顔面を抉り、時計回りに歪ませた。ボグシャアという痛々しい打撃音とともに拳が振り抜かれると、バアルは後方へ吹っ飛んだ。バアルはスクリュー回転しながら宙を舞い顔面から鼻血や吐血を撒き散らし、「あばっ」、「ぼへっ」うめき声をあげながら床に2回バウンドすると、壁に頭をぶつけてゴンという鈍い音を響かせた。そしてドサリと床に落ち、糸が切れた操り人形のような不自然な体勢のまま動かなくなった。
ステラの会心の一撃が炸裂したのだった。
ステラはパンパンと右拳を払いながら「ああ、すっきりした」と言った。それからバアルに向かって、
「“アばぶひぇッ”!? ……死んだ方がマシの穢らわしい汚い気持ち悪い名前です。ステラの方がずっとずーっといい名前です」
とバアルに向かってべーっと舌を出した。悪意の発露と可愛らしさを両立する淑女の悪態作法であった。
「ステラ! お前さすがだな」
ステラに駆け寄りながらヘルメスは言った。
「マスター聞いてください! 気がついたら知らない男の人が顎クイしてて、魅了の魔眼を使いながら、私に妹になれって! きっと私にお兄ちゃんとか呼ばせるつもりだったんですよ! とんでもない変態です! 私、気持ち悪くて!」
ヘルメスはステラに手を差し伸べた。ステラはその手をとった。そして「よっこいせ」と言いながらゆっくりと立ち上がった。ステラの脚どりにはふらつきが残っており、ヘルメスはステラの肩を抱いて倒れないように支えた。
シャニの方をみると、目を見開いたままあんぐりと口を開けていた。ステラがバアルをぶっ飛ばしたことにド肝を抜かれてしまったようだった。
ヘルメスからすればこんなことは日常茶飯事なのだが……。
「そういえばマスター、なんだかとっても楽しそうでしたね……そのかわいい女の子は誰? どういう関係なんですか……私が大切だったんじゃないんですか」
ヘルメスはぎくりとしたが、勢いでごまかすことにした。
「この子はシャニだぜ! ガレキの城の魔物だったけど、何度もおれたちを助けてくれて、さっきおれたちの仲間になったんだぜ! な! シャニ!」
「ぇ、ぁ、はぃ! ぁたしシャニです! ステラさん、ょろしくね!」
「よろしくね、シャニちゃん」
ステラはにこりともせずに言うと、ジロジロとシャニを眺めた。
「ひ、ひぃ……へ、ヘルメスなんだか、ぁたし怖ぃょ」
「ステラ、睨むのはやめろよ。シャニが怖がってるぞ」
ヘルメスが言うとステラは「ニコ……」と微笑みをシャニに向けた。目が笑っていなくてむしろ怖い。
「ごめんねシャニちゃん。怖がらせるつもりはなかったの。マスターが浮気したのがどんな子か気になって……」
「う、浮気!? 人聞きの悪いことを言うなよ。シャニはおれの友達だよ。な、シャニ!」
「そぅです、ぁたしたち友達ですょ……」
「友達? ふーん? 本当に? それだけ?」
ステラが疑念をこめた視線をヘルメスとシャニに交互に向ける。浮気を追及される現場みたいな雰囲気になってきたので、ヘルメスは話題を逸らすことにした。
「ステラ、そんなことより大変なんだ! あとちょっとで帰れそうだったのにバアルに転送魔方陣をデリートされちまって帰れなくなっちまったんだ!」
「ああ……それだったら解決法を提案できます」
ステラはピクピク痙攣しているバアルに向かって手を伸ばした。
「この変態をぶっ殺せばガレキの城は滅びます。危険を排除してからゆっくり帰ればいいんですよ」
そしてステラは巨大な火球をバアルに向かって放ったのだった。
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