04-49 修羅の駆け引き その③
*
動きも、息使いも、心臓の鼓動でさえも。何もかもが静止した世界――。ここではあらゆるパワーもスピードも意味を成さない。周囲のあらゆるエネルギーをゼロに帰結し、自分の体および意識は無限大に加速する。
それがリコリスの『見切り』だった。 簡単に言ってしまえば、リコリスの『見切り』は時間停止能力――に限りなく近い能力である。数ある
リコリスはるんるんと軽やかなステップでミノタウロス(♀)に近づき、にこやかに話しかけた。彼女の手には、ステラが落とした刀が握られている。抜き身の刀がギラギラと妖しく光っていた。
「気分はどうですカ?」
当然、答えは返って来ない。ミノタウロス(♀)は、アフロの少年を床に叩きつける体勢のまま微動だにしない。
「……ですよネ」
それが普通だ。全てが静止している『見切り』の世界で、意識を保っていられた者はほとんどいない。まして、リコリスと意識を交感した者(ちなみにリコリスはこの意識の交感を『おしゃべり』と呼んでいる)など、今までに7人しか出会ったことが無い。
そのうち3名はガレキの城に住まうボスモンスターたち。『ドド』、『シンロン』、そして今は亡き『アナト』。 残り4名はリコリスと敵対した者たち。『お父さん』、『師匠』、『オネスト・ホーネスト』、そして『ステラ』。
『おしゃべり』の相手を見つける。リコリスにとってそれはダンジョンマスターの命令よりも優先される。『見切り』の世界での『おしゃべり』ほど楽しいものはない。互いの意識と意識が混じり合い、ひとつになる感覚――生きているということを強く実感させてくれるあの瞬間!
リコリスはそれを味わうことを生きがいとしていた。『おしゃべり』相手に敵も味方もない。リコリスにとおって彼らはかけがえのない存在であり、友達だった。
このミノタウロスはリコリスの『おしゃべり』相手を殺そうとしたのだ。下等な獣の分際で『殺すな』というバアルの命令も『傷つけたら許さない』というリコリスの注文も無視して。
「……許せませんよネ」
リコリスは「にやあ」と笑いながら、無造作に刀を振る。斬り上げの斬撃。ミノタウロスの腕に朱色の線がつうっと刻まれる。リコリスはそのままダン! と踏み込み、刀を振り下ろす。ミノタウロスの胴体に袈裟がけの斬撃一閃。しかし胸に直線が刻まれるだけで血飛沫1つ上がらない。
「ふう、刀ってけっこう重たいですネ」
リコリスは刀を無造作にポイっと投げ捨てた。刀がクルクル回転しながら床に落ちて行く。リコリスは手をぶらぶらさせながら、
「やっぱり素手が一番ですかネ。では、さようなら」
カラン、カラン、カラン。と音を立てて刀が床に転がった。同時にミノタウロスの腕と胴体から大量の血飛沫があがる。斬られた腕がボトリと床に落ち(落ちた腕の先にはヘルメスが握られている)、ミノタウロスは胸から血と臓物をまき散らしながら、膝から崩れ落ちて行く。
「モゥ(あれ?)」
事態を把握できていないミノタウロス(♀)が首を傾げ――そしてそのまま横転し床に倒れ込んだ。ズン……。と部屋全体が震えた。
「モウ……(おかしいな。こんなはずじゃなかったのに……どうして私が死ぬんだろう。私は、どこで間違ってしまったんだろう……。ああ、最後に、あの人に、会いたい)」
蚊が泣くような声で呟くと、ミノタウロスは動かなくなった。
「ふふん、いい声で鳴けましたネ……何言ってるかはわかりませんでしたが」
リコリスは満足そうに笑った。大きな得物を仕留めるというのは、生まれ持った狩猟本能が満たされる感じがしてなかなか気分がいい。と、その時、
「てめえがあの子をやったのか。仲間を――」
ミノタウロスの拘束から解放されたアフロの少年が、立ち上がった。
「ボスとして当然のことをしたまでです。結果的にあなたたちを助けることになりましたが……お礼には及びませんヨ」
少年の問いにリコリスは笑顔で答えた。
*
自分の身に何が起こったのかをヘルメスはすぐに理解することはできなかった。気がついたら床の上で尻もちをついていた。床の上? いや、その表現は正確ではない――ヘルメスが尻もちをついていたのは、血だまりの上だった。
つんと鼻につく血のにおい。掌に付着した血のべったりとした感触。視界いっぱいに広がる赤。それらがヘルメスに否応なく死を連想させる。間違いない、誰かが死んだのだ。――と思い至りヘルメスの背筋は凍った。
ステラ……なのか?
この血は……。 ミノタウロスは床に横たわるステラの上にヘルメスを思い切り叩きつけたはずだ。ミノタウロスの腕力で叩きつけられたら、ヘルメスとステラの体などひとたまりもない。2人まとめてぐちゃぐちゃの肉片になって死に、しばらくしてヘルメスだけが【四の死(デッドフォア)】で復活する――潰れたステラの死体の上で。
ありえないことではない。むしろそうなってしかるべき状況だった。まさか……。
が、それは懸念だった。ステラは、ヘルメスのすぐ隣で横たわっていた。血だまりの上で、「すう、すう」と穏やかな寝息をたてていた。
よかった。と心から思った。その直後、心配させやがってとイライラした。でもよかった。生きている。おれたちはまだ生きている。
さてと。
ヘルメスはまず状況を把握することにした。どうやら自分とステラの命は助かったらしい。それはいい。それはいいが、ではこの大量の血は誰のものなのか。おれたちの身に一体何が起こったのか。それを確かめるためにヘルメスは振り返った。
「!」
そこには血にまみれた腕が――『腕だけ』が転がっていた。丸太のように太い腕だ。人間のものではない。さらに首を回すと、胴体を斜めに斬り裂かれ、血をまき散らしながら倒れてゆくミノタウロスの姿があった。耳を澄ませば、モゥ……モゥと蚊の鳴くような声が聞こえてくる。
死に際の言葉だ、と理解したヘルメスの脳裏にジンリンの姿がフラッシュバックした。死にゆくものに対する、無条件の敬意のようなものが反射的に沸き上がっていた。
「モウ(どこで、間違ってしまったんだろう……最後に、あの人に、あいたい)」
そう言い残して、ミノタウロスは動かなくなった。何を言っていたのかは正確には聞き取れなかったが、彼女が死に際に愛する人を想って逝ったことはわかった。その瞬間ヘルメスの胸がきりきりと痛んだ。たぶん彼女の想い人を殺したのはおれなんだろうな。と、直感的に思ったからだ。彼女に殺されそうになったことへの怒りは感じず、むしろ罪悪感がつのっていた。
おれが殺したから、だから彼女は怒ったのだ。おれが殺したから、だから彼女は殺そうとしたのだ。
殺らなければ殺られる。しかし殺れば、殺り返される。
報復の連鎖。殺戮の螺旋。終わることの無い殺しの循環に、ヘルメスは身も心もどっぷり浸かってしまった。もう引き返すことはできない――それを自覚したヘルメスは身震いをした。全身が血に染まった気がした。
「ふふん、いい声で鳴けましたネ……モウモウって。何言ってるかはわかりませんでしたが」
打ちひしがれるようにうなだれたヘルメスの耳朶を、涼やかな声が打った。その声の主に視線を移す――黒羽の美女が恍惚の表情を浮かべている。思わずゾッとするような残酷な笑顔だ。ステラもたまにそういう表情をするときがあるが、この女のそれはステラのものよりも何倍も濃厚な狂気を漂わせている。
こいつがあの子を殺したんだ。ヘルメスは直感した。同時に正体不明の怒りが沸き上がって来る。
彼女のすぐ近くで、カラン、カラン、カラン……と刀が床を転がっている。ヘルメスは立ち上がった。
「てめえがあの子をやったのか。仲間を――」
女はその残酷な笑顔を浮かべたまま、答えた。
「ボスとして当然のことをしたまでです。結果的にあなたたちを助けることになりましたが……お礼には及びませんヨ」
その一言で、ヘルメスの怒りは爆発した。
ヘルメスは女に向かってドタドタと走り出した。頭の中は真っ白だった。なんで自分が怒っているのかすらよくわかっていなかった。この女は許せないその思いだけで動いていた。しかし自分が弱いと言うことは忘れてしまっていた。
「てめえ!」
ヘルメスは拳を思い切り振りかぶり、女の顔面に向かってパンチをくりだした。
「はあ……」
女はため息をはいた。
ヘルメスはこの女のことを――リコリスの強さを知らなかった。
ヘルメスの攻撃に対して、リコリスは身構えすらしなかった。立ち位置から一歩も動かず首を傾けるだでヘルメスの拳を回避したリコリスは、瞬間、伸びきったヘルメスの腕を片手で掴み、手首と肘の関節を極め、逆方向にねじりあげた。
「痛ッ」
とヘルメスが悲鳴を上げている間に、彼の背後に回り込む。もう片方の腕の関節も極める。リコリスはこれでヘルメスの体のコントロール権を握った。みるみるうちににヘルメスの膝の力が抜けていく。自分の体なのに自分の思いどおりに動ことが出来ない、力が入らない。次第に立っていられなくなり、へなへなと膝をついた。立ち上がろうにも体に力が入らない。腕をねじり上げられているだけのはずなのに全身が痛い。どうすることもできない。
以上、戦闘終了。
「はあ……」
リコリスはまたしてもため息を吐いた。
「ステラのマスターというから少しだけ期待したのですが、残念。やはりあなたとても弱いですネ」
「う」
それに関してはヘルメスは返す言葉もない。この女がこんなに強いとは思わなかったし、自分がこんなに弱いとは思わなかった。
「あなたがこんなに弱いなら、部下に任せたりせず、わらわが直接捕まえればよかったですワ……」
「く」
くそ、情けなすぎて泣けてくる。ああ。冷静に考えればわかることだった。ヘルメスが戦闘で勝てるわけがなかったのだ。さっきたくさんの魔物を騙したときみたいに、もっと頭を使って勝つためのやり方を考えなければならなかった。
「くそっ」
「ホホホ、一人前に口惜しがって。しかし――わらわも
瞬間女が力を込めてヘルメスの腕を捻った。ボギィッと音がした。それはヘルメスのひじ関節が折れた音だった。
「いってえなっ」
折られた骨は【四の死(デッドフォア)】がすぐに無効化する――とはいえ、痛いものは痛かった。
「ああ……そうでした。あなたダメージを無効化できるんでしたネ。ンー、とっても便利なスキル。ですが際限なく無効化できるわけではないのでしょう? ねえ?」
リコリスはそういうと、またヘルメスの関節をボキっと折った。
「痛っ」
まあすぐに治るわけだが、まずい。この女がヘルメスを拘束したまま〈
「ふふふ、うふふふふふふ」
リコリスは獰猛に笑った。
「スキルの効力が切れるまで、たっぷり
無論、そんな拷問はできるわけないのだ。ダメージを受けた次の瞬間にはヘルメスの傷は治っているのだから。それはわかっているがこの女の言葉はヘルメスの心にするりするりと侵入して、奥底にある恐怖心を刺激してくる。そして、さあ、悲鳴を上げろ! 懇願しろ! 命ごいをしろ! とヘルメスの強者を恐れる本能に訴えて来るのだ。
「たのしいワ、たのしいワ」
笑いながら、リコリスはボキボキとヘルメスの腕の骨を折った。まるで暇つぶしに落ちていた小枝を折るみたいな気軽さで、ヘルメスの骨を何度も何度も折った。骨が折れるたびに、ヘルメスは「あが」、だとか「ひぐ」といった短い悲鳴を上げた。 その後、30分ほどそうやってヘルメスを痛めつけると、
「飽きましたワ」
と、唐突にやめた。
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