00-6  少年と声 その⑥




 少年が“承認”と言った瞬間、少年の手の中にあった“本”―――“ダンジョン目録”がまたしても青白く輝いた。


 まばゆい青い光が徐々に大きくなっていき、少年の身体全体を包み込み、やがて部屋全体を青に染めていく。


 床が、壁が、天井が。それらの境界線が“本”の光の青で塗りつぶされていく。


 気が付けば、床もなく、壁もなく、天井もない。 縦も、横も、奥行きもない。一面の青い空間。


 その上にキラキラと色とりどりの燐光がまたたいている。


 まるで青い宇宙にカラフルな星をちりばめたような光景。 その中心にぽつんとに少年はいた。


 その選択は少年にとって賭けに近いものだった。ダメでもともと、というより十中八九ダメだろう。そのくらいの気構えだったのだ。 しかし、少年は賭けに勝ったらしい。そうでなければこの現状をどう説明する?


 上下左右に前後。方向の感覚はすでになく、ただただだだっ広い空間に浮かんでいるような不安な心地だった。


 しかし、暖かい。 光の放つ確かな暖かさを感じながら、少年は目の前に現れるであろうそれを待っていた。


  自分の頭の中の“声”。少年を導く“声”。自分の能力そのものだという“声” それが形をもって、自分の前に現れるのだ。


 どんな姿なのだろう、どうやって話しかけよう。そして――どうやってぶん殴ってやろう。


 不安と期待とがごっちゃになった心境で少年は待っていた。


 やがて。


 青い空間に散りばめられていた色とりどりの燐光が少年を中心に渦を巻いた。

 

 光の粒子は少年の身体を軸にして、ゆっくりと海を泳ぐ魚の群れのように渦巻き始める。 光の粒は徐々に速度を上げ、空間に散らばっていた光の粒が、みるみるうちに点から線の軌跡へと変わる。


 青い空間に幾つもの線が描き出され、やがて空間は青と色とりどりの線が交互に積み重なった鮮やかな縞模様で彩られた。


 その光景を空を仰ぐようにして見上げていた少年は息を呑んだ。


 きれいだ。呼吸をするのもわすれるほどに。瞬きすらためらうほどに。


 そして思う。きっとこれから現れるそれはこの空間のように美しいにちがいないと。


 少年の視線の先。少年のちょうど真上の空間を核に光線の群れはゆっくりと収束していった。


 色とりどりの光が集まり、混ざり、渦巻いて、白一色の光の球を形作る。


 部屋を塗りつぶしていた青い光がその球に吸い込まれ、部屋の色は瞬く間に青から、元通りの黒へと戻った。


 上下の感覚が戻り、膝に体重がのしかかるのを感じた少年は部屋を見渡した。


 炭化した床、壁。爆散したベッドの破片が散らばったドアも窓もない真っ黒の部屋。


 さきほどの出来事が夢だったとさえ思えるほどの殺風景な部屋。


 まさか本当に夢だったのか。少年は頭上を見上げた。


 そして少年は確信する。夢じゃない。


 少年の視線の先、少年の頭上に光の球が浮かんでいた。


 光の球はしばらく少年の頭上に滞空すると、その形をかえながらゆっくりと降りてきた。 球体だったものががくにゃりと歪み、星型へ。星の角のそれぞれが伸長、丸みを帯びて。やがてそれらは頭に腕に脚になり、完全な人型となると、フッと光が消え、光の塊だった“それ”が重力に引かれ落ちた。


 どさり。 と落ちてきた“それ”を少年が両腕でかしりと受け止める。腕に伝わるそれの体重。さほど重くは無かった。むしろ軽いくらいだった。やわらかでなめらかな肌の感触。鼻孔をくすぐる甘い匂い。それの長い髪がふわりと少年の頬を撫でた。 少年はそれを見た。少年の両腕の上で横たわるそれの目を見た。


「お、お前」


 長い睫毛(まつげ)がゆっくりと開いて、中から深いサファイア色の瞳が輝いた。あまりの美しさに吸い込まれそうになる。それの桜の花びらのごとく薄いピンクの唇が微かに上下した。


「お、おはようございます、マスター」

「お、おはよう。その……女の子だったんだな」


 少年は両腕に少女を抱えたまま、ふいと横を向いた。少年の頬は紅潮し、いかにも気まずそうな表情だ。それもそうだろう。なぜなら少女は何も身につけていなかったからだ。 ばっ。 と腕でふくよかな乳房を隠す少女。すぐさま「何見てるんですか!」と一喝し、「つーかなにこの体勢! お姫さまだっこじゃないですか! はずかしい」と脚をじたばたと交互に上下させた。


「ちょ、暴れんな、うわ」


 それで少年はつんのめる形でバランスを崩した。 少年の両腕から投げ出される形になった少女がぺたんと尻から地面に落ち、前のめりで倒れこんだ少年は少女の太ももと太ももの間に顔をうずめる。


「……」

「……」


 結果的にお姫さまだっこよりも気まずい体勢となった。気まずいどころか、いやらしい。


 沈黙。少女の甘い匂いをダイレクトで吸いながらも少年は焦っていた。このままじゃヤバい。いやこのままでもいいような気もするけど、なんかヤバい。未知の感情が少年を動かした。


 がばっ。


 と勢いよく頭を上げ、その勢いで少女から離脱しようと試みる。が。 ぽよん。 と、弾力ある感触が後頭部を跳ね返した。少女のふくよかな乳房の弾力であった。張りのある乳房が勢いよく上がった少年の頭を跳ね返し、地面に―――正確には少女の太ももと太ももの間に少年の頭を叩きつけた。 ぼすん。 少女の股間に再びヘッドバッドをかます形になった少年。もう言い逃れはできなかった。


「おんどりゃああああ、なにさらしとんねんワレ! いてまうぞコラア!」


 少女は聞いたこともない言語で絶叫した。もしかしたらそれは彼女の生まれ故郷の方言かもしれなかった。


 鬼気迫る少女の叫びに生命の危機を感じた少年は、横向きに転がって少女の元から離脱。回転しながら両足を折りたたみ正座の姿勢で着地。そのまま額と両手を地面にこすりつける。 いわゆる土下座の姿勢であった。


「すんませんでしたァァアア」


 少年の叫びが部屋中に響き渡った。







 この直後、少年は少女に壁までぶっ飛ばされてしまった。 あなたがこのエピソードをおおげさだと思うなら今すぐ女の子の股間に頭突きをかましてみるといい。おそらくあなたは死の恐怖を味わうことになる。考えてみれば当たり前のことだ。


 そんな当たり前の事も少年は知らなかったのだが、それはしょうがないことだった。なぜなら少年は記憶を失っているのだから。 だけどもう大丈夫。もう少年は女の子の股間に頭突きをかましたりしない。なぜなら少年は身を以って学んだからだ。女の子を怒らせちゃいけないってね。


 こうやって痛みを知ることで少年は男になっていく。少年――ヘルメス・トリストメギストぶひぇはまた一つ大人の階段を上ったのだ。 よって彼を少年と呼ぶのは彼に対して失礼であろう。だが彼は男と呼ぶにはまだまだ未熟である。彼はまだまだ学ばなければならないのだ。 そこでだ。これからは彼のことを、彼の選んだ名前――ヘルメス・トリストメギストぶひぇにちなんで、ヘルメスと呼ぶことにしよう。


 記憶と失ったヘルメスと、ヘルメスの頭の中から現れた少女。


 2人が出会ったことによって、ダンジョンをめぐる物語の幕は静かに開き始める。 彼らがどんな物語を紡ぐのかは、作者――もとい誰も知らない……。

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