第6話「変化」

 ハアハア……。

 伽耶は階段を駆け上っていた。呼吸は乱れ心臓はキリキリと痛むが、止まるわけにはいかない。後ろから悪魔に変貌した犬井が追いかけてくるからだ。

 廃校の中は蒸し暑く、額に汗が滲み、目には涙が浮かんだ。そして脳裏には薄気味悪い笑みを見せて、近寄って来る犬井の姿が浮かぶ。

(……なぜ犬井くんが、あんなことを?)

 伽耶は目に浮かんだ涙をグッと拭った。犬井はおとなしい性格で自分に対する付きまといはあったが、決して他人に乱暴をするような人物ではなかったはずだ。それがなぜ?


「待てえ! 竹村! 逃がさんぞ!」 

 階下から犬井の怒号が響く。その声はもう伽耶が知っている犬井の声ではなかった。

 伽耶はぼんやりとした表情の広瀬と苦しむ土屋の姿を思い出した。

(捕まったら……捕まったら、私も無事では済まない……)

 疑問、悲しみ、恐怖……様々な感情を抱えながら、伽耶は懸命に階段を上り切り、屋上へと続くドアの前に立つと、ドアノブに手を掛けた。ドアは長い間使っていなかったせいか、錆びついていて固かった。

(開いて……お願い、開いて……)

 伽耶は両手でドアノブを握り、力いっぱい回した。階下からは犬井の走る足音と怒号が聞こえてくる。

「竹村――! そこか──!?」

「う……ううっ!」

 バキッ! 錆びて固まっていたドアノブが嫌な音とともに回りドアが開くと、伽耶は勢い余って、ドアの向こうの屋上の地面に倒れ込んだ。少しひんやりした空気が顔に触れた。空には星が瞬いていた。

(屋上に出た……早く助けを呼ばないと……)

 伽耶は急いで立ち上がると、手すりのあるところまで行き周囲を見渡したが、周囲は森に囲まれていて民家や人の気配は無く、街の明かりだけが遥か遠くに見えた。

 手すりから身を乗り出して下を見つめたが、眼前には真っ暗な闇が広がっていた。屋上から地上までの高さはどれくらいかは分からなかったが、今まで上ってきた距離を考えると、かなりの高さであろうことが推測され、飛び降りたら軽傷では済まない、と思った。

 伽耶はバッグから携帯を取り出した。携帯の表示は相変わらず「圏外」のままだった。

「だ、誰か助けて──!」

 暗闇に向かって叫ぶが、無情にも助けを呼ぶ声は闇に溶けていった。


「ここは山奥の廃校だ。助けを呼んでも誰もこねえぜ」

 振り向くとドアの前に犬井が立っていた。

「あ、ああ……」

 逃げようとしたが、恐怖のあまり足が動かない。先程、閃光を発した栞はその役目を果たし終えたように、バッグの中で沈黙していた。

「い、いいコだ……に、ニゲルナヨ……」

 不快な声を漏らしながら、犬井が近寄って来た。その時、伽耶は気付いた。顔が……いや、身体全体が崩れかけているのを。

「ウ、ウマソウダ……キ、キムスメノカラダ……」

 顔はドロドロと溶け出し、身体はブスブスと音を立てて黒い煙を発していた。目だけが赤くランランと光り、口は耳まで裂けて無数の牙がのぞいていて、犬井はもはやヒトとしての原型を留めていなかった。そして、かつて犬井であったモノは、伽耶の服に手を掛けた。

「い、いや……」

 次の瞬間、もの凄い力で伽耶の服は引き裂かれ、白く雪のような肌が露わになった。

「き……キャアアア!」

 伽耶は慌てて胸を隠そうとしたが、それより先に犬井は伽耶の両手を掴んだ。

「い、イヤ、やめて……」

 オンナ、キムスメノオンナ……と口から腐臭とよだれを垂らしながら、犬井は大きな口を開けながら顔を近づけた。

「い……いやあ──! 誰か助けて──!」

 伽耶の絶叫が暗闇に響き渡った。


 ガン! 

 恐怖のあまり目を閉じた伽耶であったが、大きな音がして、犬井が手を放したことを感じた。

 何が起こったのか分からず、恐る恐る閉じていた目を開けると、犬井が遥か向こうに倒れている姿が見え、目の前に真っ黒な服に身を包んだ男の姿が立っているのが見えた。

「大丈夫か?」

 目の前にいたのは麟だった。麟は黒い服の上着を脱ぐと、伽耶に羽織らせた。

「り、麟? な、何でここに……?」

 安堵した伽耶の目から涙がこぼれた。

「説明は後だ。俺から絶対に離れるなよ」

 麟は右手に札を持つと、伽耶をかばうようにして前に出た。

「オマエ……アノトキノコゾウダナ……? マタジャマスルキカ……」

 犬井がゆっくりと立ち上がったが、身体はいつの間にか動物のような毛に覆われていた。

「な、何あれ……?」

 麟の背中に隠れている伽耶は脅えた声を出した。犬井の姿はまるで巨大な犬のように見えた。

「俺の後ろにいろよ。アイツはもう人間じゃない、魔に身体を乗っ取られた化け物だ」

「ば……化け物……?」

 伽耶がそう言うやいなや、巨大な獣に変化した犬井は、麟と伽耶に飛びかかろうとしたが、なぜかその場に立ちすくんだ。

 伽耶が目を凝らすと、犬井の真っ黒な身体にびっしりと無数の札が貼られていた。その札には見覚えがあった。麟と初めて会った日、通り魔の額に貼り付けた札と一緒のものだった。

「呪術符だ。動けまい」

「グ……グググ……」

 犬井の動きは止まったかのように見えたが、次の瞬間、身体に貼られた札が一斉に地面に落ちた。

「何!?」

 自由になった犬井は目にも止まらぬ速さで突進してきたが、麟は伽耶を素早く抱きかかえると攻撃を回避した。

 犬井は、勢い余って屋上の手すりに衝突したので暗闇に大きな音が響いた。

「驚いたな……」

 伽耶を抱きかかえながら麟が口を開いた。

「呪術符が効かないとは、オマエ、何らかの耐性を持った人間だな」

「い、狗神が、何とかって言ってたよ……」

「何? 狗神?」

「麟……狗神って一体、何なの?」

「狗神ってのは、獣を崇拝する一族のことだ。熟練した狗神使いになると、対象物を意のままに操ることができるという」

 麟の説明を聞いた伽耶は、広瀬と土屋の姿を思い出した。確かにふたりは犬井に操られていたように思えた。

「だが、その力は諸刃の剣だ。少しでも使い方を誤ると、獣に身体を乗っ取られて『魔』に堕ちる」

「……さっきから言ってる『魔』って、一体何なの?」

 伽耶の問いかけに麟は答えなかった。その代わり呪術符を手に持って臨戦態勢を整えると、呪術符を犬井に投げつけた。

 しかし、先程と同じく、札は犬井の身体に張り付いた後、落ち葉が舞うように地面に落ちた。

 呪術符を踏みつけながら、犬井が大きな口を開けると突進してきた。伽耶は恐怖のあまり、麟の身体を掴み思わず目を閉じた。そんな状況下に置いても、麟は何もせずに犬井を睨みつけていた。


 犬井が麟に襲いかかった瞬間、爆音が響き、伽耶は熱風に身体を包まれるのを感じた。何が起こったのか分からず、伽耶が恐る恐る目を開けると、目の前に巨大な炎の壁が出現しており、犬井は炎から逃れるように後ろに飛び去っていた。

 突然、現れた炎の壁に戸惑う伽耶。だが、対照的に麟は落ち着いた様子で空を見上げていた。

「……やっと、来たか」

 伽耶も空を見上げた。空には星が瞬いていたが、その夜空にあるものが見えて目を疑った。

 夜空に真っ赤な髪の女性がいた。女性は鳥のように夜空に浮かんでいた。

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