第5話「狗神」

 カビ臭い匂いが鼻を付いた。伽耶は、ぼんやりする頭を抱えて目を覚ました。

「……ここはどこ?」

 古いベッドの上に横たわっていた。部屋は暗く何も見えない。ただザラザラしたマットの感触だけは分かった。

 突然、目の前に光が走った。土屋がスマホのライトを自分にかざしているのが分かり、光の眩しさに思わず目を細めた。

「土屋くん? 何で? 私、さっきまで車の中にいたのに……」

 伽耶は喋りながら、車の中での出来事を思い出していた。病院に着いた直後、土屋に何か甘い匂いのするものを顔に当てられたことを。

「すまない、竹村……」

 土屋はそう言うと、後ろを振り返って叫んだ。

「おい! 言う通り、竹村を連れて来たぞ! 早く広瀬を解放しろよ!」

(広瀬?)

 暗闇でよく見えなかったが、少し目が慣れてくると、部屋の奥に人がいるのが見えた。少し小柄で小太りの男性で、眼鏡をかけて黒いポロシャツを着ていた。

「い、犬井くん……?」

 その容姿には見覚えがあった。かつて自分に付きまとっていたゼミの同級生、犬井だった。

「おいおい、土屋くん、乱暴な物言いだなあ。僕にそんなことを言うと、広瀬さんがどうなっても知らないよ?」

 ジャラ……。鎖の音がした。犬井は薄ら笑いを浮かべながら鎖を握っていた。伽耶は目を凝らした。そして、犬井が握る鎖の先に、もうひとりの人影を見つけた。

「ひ、広瀬さん!?」

 そこにいたのは広瀬安奈だった。首輪を付けられて鎖につながれていた。広瀬の目は生気を失っており、唇は半開きで、ぼんやりとした表情をして突っ立っていた。

「ひ、広瀬!」

 土屋が広瀬に駆け寄るとするが、その前に犬井が右手に握りしめた人形のようなものをギュッと握りしめた。すると、土屋は両手で頭を抱えてその場にうずくまった。

「あ……ああああ!」

「つ、土屋くん!?」

 土屋は頭を押さえて、苦しそうにのたうち回った。

「ははははは! いい気味だよ、僕に偉そうに説教なんかしやがった罰だ」

 犬井はそう言うと、地面に転がっている土屋の腹に蹴りを入れたので、土屋は更に悶絶して苦しがった。

「犬井くん……一体、何をしたの?」

「ふふ、教えてあげようか? これだよ、これ」

 犬井は右手に握りしめていたものを伽耶に見せた。それは小さな藁(わら)の人形で、胴体には紙が貼り付けられていて、何か難しい文字が書かれていた。

「これは、狗神の家に伝わる『御人体』だよ」

「い、いぬがみ? ごしんたい……?」

「そう、僕の家はね、代々、狗神を信仰する由緒正しき家なんだよ」

 犬井は薄気味悪い笑みを浮かべている。

「親からはそう教えられていたけど、僕自身には何の力なんてなかった。でも彼らが教えてくれたんだ。僕の身体に流れる『狗神の血』を使えば、こんなことができるって……」

 そして、ポケットから違う人形を取り出して何かを呟いた。すると、鎖に繋がれて放心状態の広瀬が突然、ビクン! と身体を震わせると、無表情なまま服を脱ぎだした。

「ひ、広瀬さん! 何をしているの!?」

 広瀬は服を脱ぎ去ると、下着もすべて取り去り一糸まとわぬ姿になった。

「ははははは! すごいだろう!? この力を使えば、どんなお高い女でも、僕の言うなりなんだよ!」

 広瀬は相変わらず生気のない眼と、ぼんやりとした顔をしている。

「竹村さん……凄いだろう? この御人体に言うことを聞かせたいヤツの髪の毛を入れるんだ。それだけで、何でも言うことを聞かせることができるんだよ」

 犬井が何を言っているのか理解できず、伽耶は混乱した。

「本当はね……通り魔に君を襲わせて、僕が助けることでキミの気を惹こうとしたんだ。でも、邪魔が入ってねえ……何なんだよ、あの真っ黒な服の小僧は?」

 人形を手に犬井は伽耶ににじり寄って来る。伽耶は恐ろしさのあまり後ずさりした。すると、犬井はポケットに手を入れて、三体目の人形を出した。

「でも、もういいんだ……そんな回りくどいことをしなくても。キミが気を失っている間に人形にキミの髪の毛を入れさせてもらった。これでキミはもう僕のものだ……」

 犬井は伽耶の目の前に人形を突き付けた。

「さあ、竹村伽耶よ! 身も心も僕に捧げたまえ!」

 犬井が叫ぶと同時に、伽耶は突然、強烈な睡魔に襲われた。一瞬、思考回路が止まりかけ意識を失いかけたが、何故だか身体に電流が走り、そのおかげで伽耶は意識を取り戻すことができた。

「ん? なぜだ? なぜ狗神の力が効かない……?」

 伽耶が意識を保っているのを見て、犬井は動揺した様子をみせた。その時、伽耶は傍らのバッグが光っているのに気付いた。スマホのライトとは違う光だった。

「フン……それなら違う手を使うまでだ。土屋! 竹村の身体を押さえろ!」

 犬井の命令に土屋は弾かれたように反応し立ち上がると、ゆっくり伽耶に近づいた。

「つ、土屋くん……?」

 苦悶の表情を浮かべた土屋が、伽耶の身体を後ろから拘束した。

「す、すまない……竹村……あいつの……犬井の声を聞くと、身体が言うことを聞かなくなるんだ……」

 土屋が苦しそうに呟き、犬井は薄気味の悪い笑みを浮かべ近寄って来た。不快な臭いが伽耶の鼻を付いた。

「……竹村、キミ、まだオトコを知らないでしょ?」

 犬井の問いかけに伽耶は無言でうつむいた。

「素晴らしい!」

 犬井は伽耶の両肩をグッと掴んだ。もの凄い力だった。不快な臭いは益々強くなる。

「『彼ら』が言ったんだ。生娘を食べると、もっともっと狗神の力は強くなるって……」

(食べる? な、何を言ってるの?)

 脅えながら伽耶は見た。犬井の口の中を。口の中には鋭い牙が生えていた。人間の歯ではなく、まるで図鑑で見たサメの歯の様だった。犬井は大きな口を開けると、伽耶に襲い掛かってきた。

「い、いやあ──!」

 伽耶が大声で叫んだその時だ。放置されていたバックの中から強烈な閃光が走った。

「う、うわっ!」

 光をまともに受けた犬井は両手で顔を覆い、その場に崩れ落ちた。伽耶を掴んでいた土屋も同じ反応をして地面に倒れ込んだ。

(な、何が起こったの!?)

 伽耶はすぐにバッグの中を確認した。中には栞があり、強烈な光を発していた。その栞は、今朝、運転手の黒須から貰った栞だった。

「ぐ……な、何だ……? め、目が……!?」

 犬井は地面に転がり目を押さえて、のたうち回っている。伽耶は栞をバッグから取り出した。栞は強烈な光を放っていたが、少しずつ光が弱くなり、やがてジリジリと焼け落ちた。

(こ、この栞が守ってくれたの?)

 伽耶は栞をバッグに入れると、一目散に部屋を飛び出した。


 部屋を飛び出すときに『保健室』と書かれた表札が見えた。伽耶はスマホを取り出すと、ライトを点けて辺りを照らした。光の向こうに長い廊下が見えた。ライトを天井に向けると『1年4組』と書かれた表札が見えた。

(もしかして、ここは学校?)

 伽耶は廊下を走り、ひたすら出口に向かった。走る最中、教室の中が見えたが、机も椅子もなく荒れ果てていた。どうやら廃校のようだった。やがて照らすライトの先にゲタ箱が見えた。

(で、出口だ!)

 伽耶はゲタ箱を通り過ぎて、出口に向かって突進した。しかし……。

 ガン! 入り口は開いていたはずなのに、見えない壁に脱出を阻まれた。伽耶はその場に尻もちを着いた。

(な、何で!?)

 伽耶はもう一度、脱出を試みたが結果は同じだった。見えない壁があり外に出ることができなかった。

 玄関からの脱出をあきらめて、廊下の窓を開けようとしたが、窓はカギがかかってないにも関わらずピクリとも動かなかった。

 ガンガン! 窓ガラスを叩いてみたが、防弾ガラスのようにびくともしない。

(あ、け、携帯……!)

 伽耶は懐中電灯代わりに使っていたスマホを見て、両親に助けを求めようとしたが、無情にも画面には『圏外』の文字が浮かび上がっていた。

「た、竹村――! どこに行った──!?」

 暗闇の向こうから犬井の声が響いた。伽耶は身を隠そうと辺りを見渡した。すると、屋上へ続く階段が見えた。伽耶は土屋から逃れるため一目散に階段を上がっていった。


 伽耶が犬井に襲われている同時刻……とあるコンビニの駐車場に一台の黒い高級車が停まっていた。

 運転席にはひとりの男が座っていた。それは黒須だった。黒須は腕に巻かれた時計に目を落とした。時計の針は午後九時を示していた。その時、内ポケットの携帯が音を立てた。

「……はい、黒須です」

「黒須さん? 私だけど、伽耶はまだ?」

 伽耶の母親からの着信だった。

「ええ、二次会でカラオケに行くとの連絡がありました。恐らく、あと一時間くらいで連絡が入るはずです」

「そう……もう九時だから、心配だわ」

「大丈夫ですよ。いざとなれば、伽耶様の携帯に仕込んだGPSもありますから」

「それならいいけど……黒須さん、遅くまで申し訳ないけど、伽耶のことお願いね」

 そう言って通話が終わると、黒須は無造作に携帯を助手席に放り投げた。

(ウソだ。今の会話はすべてウソだ)

 黒須は唇を噛んだ。

(伽耶様は今、『魔』に襲われている。組織が黙認した悪意のある『魔』に)

 黒須は今朝の出来事を思い出していた。

(あの栞……アレがあれば少しでも時間を稼げるはずだ)

 自分を慰めるように言い聞かせていた黒須だったが、次の瞬間、両手でハンドルをガン! と殴りつけて、顔を埋めた。

(いや……時間稼ぎに何の意味がある? 遅かれ速かれ伽耶様は捕まり殺される。それも悪質な『魔』の手に掛かって……だが俺には何もできない、伽耶様を殺すことが、俺たちの使命、そして、それだけが『迎えの日』を阻止する唯一の手段なのだから……)

 黒須は横目で助手席を見た。シートには、今朝伽耶がプレゼントしてくれたネクタイがあった。ネクタイは群青の美しい色だった。

 黒須の脳裏に子供の頃から現在に至るまでの伽耶との思い出が蘇った。記憶の中の伽耶は優しく微笑んでいた。

 すると、黒須は突然、何かを吹っ切るかのように助手席の携帯電話を手に取った。そして、一瞬躊躇した様子を見せたが、意を決したかのようにある番号を検索すると、通話ボタンを押した。


「トメさん、伽耶はまだ帰ってこないみたいだから、遅くなったけど夕食にしましょう」

 竹村家の屋敷では、テーブルに着いた伽耶の母親が、料理長のトメさんに食事の指示を出していた。

「分かりました奥様。でも珍しいですね、伽耶様がこんな遅い時間まで外にいるのは」

「ええ、でも黒須さんがいるから安心よ」

「そうですね。じゃあ麟、奥様の分だけ料理を運んで頂戴」

 トメさんから指示を受けた麟は頷くと、厨房に向かった。

 ワンワンワン! 庭の方から犬たちが激しく鳴く声が聞こえてきた。何かを訴えているような声だったが、麟は気にも留めずに料理を運ぼうとした。その時だ。使用人に支給されている業務用の携帯電話が鳴った。画面には「黒須」と表示されていた。

「はい」

 麟が電話を取ると、黒須の声が聞こえた。

「おい、ちょっと確かめたいことがある」

「何ですか?」

「お前、伽耶様が暴漢に襲われた時、何であそこにいた?」

「その質問に答える義務はありません」

 麟はため息を吐いた。

「料理を運んでいる最中なんです。切ります」

「ちょっと待て」

 黒須が大きく息を吐きだす音が聞こえた。

「あの日あの時、お前があそこにいたのは偶然じゃない。どういう方法か知らんが、お前は何かを感知してあそこにいた。そうだろう?」

 ブチッ。麟はその問いに答えずに、電話を切った。

 ワンワンワン! 動物たちは鳴き止む気配がなく、更に大声で鳴いている。何か緊急事態を知らせているかのような悲痛な鳴き声のように思えた。

 麟は料理を運ぶことを一旦止めて、こっそり厨房から廊下に出た。そして、懐から手のひらに乗るサイズの羅針盤のようなものを取り出すと何かを呟いた。

 グルグルグルグル! 

 すると、突然、羅針盤が勢いよく回り出した。その動きを見た麟は顔色を変えた。

「ば、バカな!? かなり強力な反応だ! なぜだ? なぜ今まで反応しなかった!?」


 麟はエプロンを投げ捨てると、一目散に一階に降り、玄関を通ると外に出た。手のひらの羅針盤の針は真っすぐ東を指している。

「方角は東、距離は約五〇キロか……」

 そう呟くと、麟は懐から一枚の赤い札を取り出した。その札は以前、黒猫のジジに突きつけたのと同じ札だった。

 麟はその札を高々と天に掲げた。

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