第4話「魔の手」
麟が竹村家に住み込みで働くようになり、一か月が過ぎた。
麟は無口で無愛想なことを除けば非常に優秀だった。黙々と仕事をこなし、不平不満も言わず、一般常識や目上の人たちの配慮もあり、礼儀作法もしっかりしていた。
七月に入り、梅雨開け宣言が出て猛暑日が続くようになったが、それでも麟は全身を覆う黒い服を着て、庭の剪定や掃除、屋敷の警備を黙々と行った。
皆は麟が暑くないのか不思議がったが、当の本人は意に関しておらず、汗ひとつかかずに仕事をこなした。
たまの休みや空いている時間は、ふらっと街に出ることが多かった。恐らく人探しをしているのであろう、と伽耶は思った。
何度か探し人の特徴を聞いて、手伝いを申し出たのだが、麟はその申し出を拒絶し、家事と同じように黙々と人探しを続けた。
ただ、不思議だったのは、麟がどのようにして街に出かけているかということだった。
竹村家は郊外にあるため街へのアクセスが悪い。市内に出かけるには車が必須だが、麟はいつも歩いて街へ出かけていた。伽耶が通学時に、一緒に車で行こう、と誘ったこともあったが、結構だ、と無碍なく断られた。
それでも、勤務時間になると遅刻せずに現れ、無断外泊もすることなく、仕事に影響を与えることもなかったので、麟の行動を咎める者は誰もいなかった。
その日も、麟は空いた時間に街へ出かけていた。そして、どうやって戻ったのか分からないが、夕方の食事の準備の前には家まで戻り、使用人たちの通用口に入ろうとしていた。すると、そこには送迎者の洗車を終えた運転手の黒須がいた。
「また、街に行ってたのか?」
黒須からの問いかけに、麟は「はい」と、不愛想に答えた。
「お前がここに来て一ヶ月が経つが、尋ね人は見つかったのか?」
麟は黙って首を振り、屋敷に向かおうとした。
「そもそも、お前が探しているのは、本当に『人』なのか?」
探るような問いかけだったが、麟は無視して、ずんずんと屋敷の中に歩いて行った。
「チッ……」
黒須が舌打ちをした時だった。ポケットに入れていた携帯電話が音を立てた。
「もしもし」
「黒須さんか? 俺だ」
電話の主は低い声で言った。黒須はその声を聞くと顔色が変わり、辺りを見渡し、誰もいないことを確かめると、庭の隅に移動して小声で会話を続けた。
「何か……あったのか?」
「ああ、明日、黒須さんの住む街で『魔』による事件が起こるが、そいつには干渉するな、という伝令だ」
「分かった」
「ちなみに言っておくが、標的は『竹村伽耶』だ」
伽耶の名前を聞いた黒須は激しく動揺した。
「ちょ、ちょっと待ってくれ、なぜだ?『迎えの日』は、まだ先だろう?」
黒須の額に不快な汗が浮かんだ。
「知らん、上からの命令だ。俺たちに選択肢はない。それよりも黒須さんの役目は分かっているよな?」
「う……」
「不審な動きをしないように気をつけろよ」
「わ、分かっている……」
「何をためらっている?」
電話の主はため息を吐いた。
「総帥も言ってただろう? 正義は俺たちにあるんだぞ」
電話の主は最後にそう言って、電話は切られた。黒須はツーツーと鳴る携帯電話を握りしめ、苦悶の表情を浮かべ立ち尽くしていた。
翌日、黒須は伽耶を車に乗せて大学への道を走っていた。
「黒須さん、ごめんね、大学は夏休みなんだけど、今日はゼミの最終日だから……」
「何を言いますか。これが私の仕事ですから、伽耶様はそんなこと気にしないでください。それより迎えの時間は八時でよろしいですか?」
「うん、ゼミの打ち上げ会があるけど、私は一次会で帰るから、その時間で大丈夫だよ」
黒須はバックミラー越しに伽耶を見た。白い夏用のワンピースを着てニコニコと笑っていた。
「ねえ、黒須さんがウチで働き出して、もうどれくらいになるんだっけ?」
「伽耶様が五つになる誕生日の頃ですから、今年で十五年目です」
「もうそんなになるんだね……黒須さん、いつも送り迎え、ありがとね」
バックミラー越しに伽耶の笑顔を見た黒須は、伽耶に見えないように右手で胸のシャツをぎゅっと握った。
大学の正門前に着くと、黒須は運転席を降りて後部座席のドアを開ける。
だが、伽耶はいつも「黒須さん、大丈夫だよ」と笑いながら自分でドアを開ける。
小さい頃からいつもそうだった。伽耶は他人を気遣う優しい女性だった。
黒須は努めて伽耶の顔を見ないようにした。そうしないと決意が鈍るからだった。
「黒須さん」
下を向いていた黒須の目の前に、綺麗にラッピングされた細長い包み紙が見えた。
「黒須さん、いつも送り迎えありがとう。これ、つまらないものだけど……」
黒須はその包装された物を手に取った。それはネクタイだった。有名ブランドのマークが入っている。
「私が選んだものだから、似合っているかどうか自信ないけど……」
「か、伽耶様、こんな高価なものを私に?」
「黒須さん、確か明日が誕生日だったよね? 一足早いけど、誕生日プレゼント」
伽耶は照れくさそうに笑うと、大学の方に足を向けた。
黒須はプレゼントのネクタイを握りしめると目をギュッとつむり、意を決したかのように大声を上げた。
「お、お待ちください。伽耶様!」
伽耶は笑みを浮かべたまま振り向いた。黒須はポケットから一枚の栞(しおり)を取り出した。
「伽耶様、これを……」
伽耶に栞を手渡した。栞には四葉のクローバーの押し花があった。
「庭で見つけたので作ってみました……もし、良かったら使ってください」
「わ──! とてもキレイ!」
「伽耶様のプレゼントに比べれば、お安いものですが……」
「そんなことないよ! ありがとう黒須さん、大事にするね!」
伽耶は栞を大事にカバンにしまうと、手を振って校舎に向かって行った。
黒須は、その後ろ姿が見えなくなるまで、ずっと伽耶を見つめていた。
その日のゼミが終わると、伽耶はゼミ仲間たちと市内に繰り出し、一学期の「お疲れさん会」と称した飲み会に参加した。
伽耶はアルコールを口にせず、皆の話を笑みを浮かべながら聞いていたが、少し気になることがあった。それは、同じゼミ仲間の広瀬安奈が欠席していることだった。
広瀬の姿は一週間前から見ていない。そして同じく広瀬と仲がいい土屋正樹の元気がないのも気になった。いつもなら、率先して場を盛り上げる土屋が、今日に限っては隅でちびちびとウーロン茶を飲み、皆の輪に加わらず憂いを帯びた表情をしていた。
(何かあったのかな?)
伽耶はふたりが心配になった。又、伽耶に付きまとっていた犬井の姿も無かった。ゼミ仲間の話によると、七月に入ってからは学校にも来ていないらしい。伽耶は少し責任を感じるとともに、最後に犬井から来た連絡のことを思い出した。
『キミは近々、トラブルに巻き込まれる。でも大丈夫、僕が守ってあげる』
(あれは一体どういうことだったんだろう? 連絡が来た翌日、確かに包丁を持った暴漢に襲われたが、暴漢から守ってくれたのは麟だった。ということは、犬井くんと麟は何か関係があるのであろうか?)
伽耶はぼんやりと考え事をしながら、飲み物を口に運んだ。
一次会が終わると二次会の話になったが、伽耶は早々と皆に別れを告げた。そして、黒須が迎えに来る場所に歩いていたが、その時、不意に後ろから声を掛けられた。
「竹村」
それは土屋だった。アルコールを口にしていないのにも関わらず、顔色が悪く目の下にはクマのようなものがあった。
「土屋くん。どうしたの? 二次会は行かないの?」
「竹村。ちょっと付き合ってくれないか? 広瀬のことで話があるんだ」
「広瀬さんのことで?」
伽耶は腕時計を見た。時計の短針は七の位置を指していた。黒須との約束の時間までは、まだ一時間余裕があった。
伽耶は頷いて、土屋が運転する車の助手席に乗り込んだ。
「え? じゃあ、広瀬さんは入院しているの!?」
伽耶の問いに、運転席の土屋はハンドルを握りしめて頷いた。
「ああ、それとまだ内密の話なんだが、どうやら自殺を図ったらしい」
「じ、自殺!?」
「幸い発見が早くて、命に別状はなかったんだが、精神的に落ち込んでいてな。自殺を図った理由を誰にも話さないんだ」
「広瀬さん。何があったの……?」
伽耶は暗い表情でうつむいた。土屋は話を続ける。
「それが、今日突然口を開いたんだ。竹村に話を聞いてもらいたいってな」
「え! そうなの!?」
「ああ、だから頼む。広瀬の話を聞いてやってくれないか?」
「う、うん。それは大丈夫だけど……でも、何で私なんだろう?」
「竹村に一番心を開いているからだと思う。お前は人当たりがいいし、面倒見もいいからな」
「そ、そうかな? でも、私なんかに話を聞いてもらって、広瀬さんが元気になるなら、私、力になってあげたいな」
車は大通りを走る。伽耶は顔を上げて車の進行方向を見つめた。そんな伽耶を横目でチラリと見た土屋は、苦し気な表情を浮かべた。
車は三十分程で市内の病院に着き、伽耶はシートベルトを外してドアに手を掛けた。
「それで、土屋くん、広瀬さんはどこの病棟に……ん、んんっ!」
運転席の土屋が突然、伽耶の口元にハンカチを押し当てた。何か液体がしみ込んでいるようで、伽耶の意識はそこで途絶え身体がガクリと崩れ落ちた。
土屋は伽耶が気を失っているのを確かめると車のアクセルを踏んだ。病院を後にした車は暗い闇の中を走っていった。
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