第8話 煤牛かんなという女 壱

翌日。朝、目が覚めてから、顔を洗い、歯を磨き、朝食を食べ、制服に着替えてカバンを手に取り、玄関ドアを開けて外に出るその時まで、1秒たりとも決意を忘れることは無かった。


決意——あと1人、入部するやつを捕まえる。


まさに、猟に出るハンターの朝とはかようなものなのだろう。そう考えると、生き物を獲り、喰らうことを生業なりわいとする猟師には、敬意をひょうさずにはいられない。このような心持ちで毎朝を迎えれるほど、俺の精神は強靭ではないからだ。


しかし今日は。今日だけは、俺はハンターをこの身に宿やどさねばならないのだ。


「……よ、よーっす! おはよー……!」


玄関を出るとすぐに、前方から声がした。俺の胸はドキリと高鳴った。驚愕、動揺、絶句……いずれにせよ、い意味の高鳴りでは無いのは確かだった。


「……かん……煤牛すすうし。」


「お、おう……。なんで苗字なんだよ……? 前みたいに『かんな』で良いよ……!」


彼女は『煤牛すすうしかんな』。隣に住む、高校1年生。腕まくりと、ショートスパッツがチラリと見える、動きやすさを重視したスカート丈。赤みがかった短い茶髪も相まって、なんとも溌剌ハツラツとした見た目である。


幼稚園の頃から現在に至るまで、ずっと同じ経歴を持つ俺たちは、いわゆる『幼馴染』というやつだ。


そんな腐れ縁とも言える俺と彼女の関係だが、中学2年生の頃のがきっかけで、しばらく疎遠になっていた。それまでの腐った縁から、因縁というか、怨念というか、無念というか……兎にも角にも、後ろめたい感情もあって、俺のほうから故意に避けていたと言って良い。


では、『しばらく疎遠になっていた』とはいつまでなのか。そう、まさに今、この瞬間までのことであった。だから俺は、悪い意味で心臓がはね上がったのだった。


「な……なんだよ。」


「『なんだよ』は無いだろ……。い、1年ぶりに話すんだぞ……。」


だから『なんだよ』と俺は訊いた。なんで、その1年の沈黙を、『今』、『今日に限って』、解禁したのかと問うているのだ。


「だから、なんで……


「なんでアタシのこと避けてたんだよ……?」


俺の言葉を遮るように彼女は質問を返してきた。『なんで』と言われても、それは彼女が一番よく知っているはずなのだ。しかし、彼女は昔からところがある。ひらたく言えば、『無神経』なのだ。だから、平気でこういう質問をする。


だがしかし、俺はそんな彼女を責めることはしない。なぜならそれも含めて彼女の個性だし、『無神経』も裏を返せば『竹を割ったような性格』と言えないこともない。なにより、高校生にもなるような人間の性格を、いまさら矯正きょうせいできるだなんて思ってはいない。言うだけムダなのだ。……そう、のムダなのだ。


「……悪かった。じゃ、俺は学校なんで。」


俺に歩みを止めている暇はない。こと今日に限っては。


「ちょっ、ちょっと待てっ!!」


「……どした。」


「アタシも同じ方向なんだ……奇遇だな……!」



「な、なあ! 歩くの速くないか!? 全然時間に余裕あるんだから、ゆっくり行こうぜ!」


俺は攣りそうな足を、何食わぬ顔をよそおって、必死に動かしていた。少しでも早く学校に行くため、そしてうしろから迫る脅威から逃げおおせるためだ。


「お、おいっ、ゆっくり行こう……ぜっ、て!!」


後から両肩にこれまで経験したことのない重さが加わったことで、俺は歩みを止めざるを得なかった。そのあまりの衝撃に、完全に肩が外れたと思った。よかった、付いてた。


「な?」


俺には、そう言った彼女の笑顔が悪魔に見えた。悪魔の『ように』じゃない。悪魔そのものに見えた。


「わ、分かったよ……。」


俺は不本意ながら従った。俺の強固な意志を捻じ曲げるほどの、生物的な本能がそうさせた。


「……それにしても、でっかくなったなー。」


「……まぁ、育ち盛りだろうからな。お前は……いや、なんでもない。」


「ん?」


ふたつ思い出したことがあったから、言うのをやめた。


ひとつ。彼女は昔から背が高いほうではなかった。もっと言うなら、身長順で列になって『前ならえ』する時は常に、両腰に手を当てている姿しか見たことがなかった。彼女は自分の身長にコンプレックスをいだいていた。だから、それをイジる人間を、ことごとく肉塊に変えていた。俺も、何度肉塊から不死鳥がごとく再生したことか。


そしてもうひとつ。彼女はその身長に対して、かなり豊満なものを持っていた。低学年のころは、『煤牛おっぱい』と低俗なあだ名が男子のあいだで流行し、彼女はまたもその悉くを肉片に変えていた。俺はまたしても、破壊と再生を繰り返していた。


そんな彼女の身体的な特徴は健在で、身長こそ俺と比例して伸びたようだが、胸の脂肪もまた比例してみのっているようだった。


そして、彼女のパワーもまた同じだった。


今の俺に、小中学生の時の無鉄砲さはない。ついでに、まだ肩の感覚が戻っていない。だから、言うのをやめた。


「なんだよー、アタシも成長したろ?」


なんの悪気わるぎも無い様子で質問してきた彼女は、おそらく彼女自身の成長を自負しているのだろう。俺は、否定も肯定もできなかったので、最大限の愛想笑いで返してやった。

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