第3話 安藤青蓮という女 壱

ガラガラガラ、と心理的な重さとは裏腹に、生物室の扉は軽やかにスライドした。


あの、流し台を挟むように両脇に長く黒い天板がついた、特徴的なテーブルが3列4行並んでいる広い空間。部屋の左右には窓が並んでおり、一方の窓側には飼育動物のケージが、もう一方の窓側には観葉植物がぞろぞろと配置されている。整列するテーブルの、真ん中の列の先頭に、2人の女性が座っていた。他に人の影はない。


一方は、一度目にすれば忘れることはない、透き通るような美しく長い銀髪。開いた窓から流れてきた風によって、オーロラが靡くかのように、ふわりと輝きを放っている。


もう一方は、隣のしろがねと対をなすように、煌びやかな黄金色こがねいろをしていた。後ろでひとつに束ねられた金髪は、まさに月毛つきげ馬尾ばびのようである。


来訪者がよほど珍しいのか、2人は驚いた様子で、視線をこちらにむけたまま数秒硬直した。かく言う俺も、覚悟はしていたものの、複数人、それも至上の美女とそれに比肩する美女を目にした途端、ここに来た理由を忘れそうになるほどの衝撃を受け、脳の処理に時間を必要とした。


先に口を開いたのは、銀髪の……安藤青蓮あんどうせいれんのほうであった。


「……なにか用かな?」


当たり前の質問だ。当たり前の質問だが、彼女の第一声にをしていたばかりに、少しだけ遺憾をいだいてしまった。


「……えっと、ここ『生物研究部』ですよね……?」


「……ああ、そうだが。……もしかして見学かい?」


「……はい。……良いですか?」


「……もちろんさ。」


彼女は当たり障りない笑顔で俺を招き入れた。俺は知っている。彼女のこの表情を、口調を、性格を。彼女は果たして俺を……いや、は、いだいたぶんだけおのれの神経をすり減らす結果になる。


俺は小さく頭を下げ、生物室の中へと歩を進めた。開けた扉を閉じるため取手に手をかけようとしたその時、聞き慣れない声が俺を指した。


「ちょっと待って。なに? あたしの意見は?」


声の主はひとり——青蓮の隣に座ってテーブルに身体からだを預けていた金髪の女性その人に他ならない。


真珠田水仙しんじゅだすいせん——確かそんな名前だったはずだ。というのも彼女の名前は、青蓮と同じく、どこからともなく耳にする噂話に頻出するものだからだ。ただ、その噂話というのは青蓮とは真逆もいいところの『悪評』ばかりだが。


俺は噂話などを本気にしたことがない。いや、『本気にしたことがない』というより『真偽の定かでないことに本気にならない』というのが正しい。つまりは、『百聞は一見にしかず』というやつをモットーとしているわけだ。だから、俺は青蓮についてのあらゆる好意的な噂話を本気にするのだ。


そんな俺が、目の前の金髪の女性……水仙の態度、容姿、第一声からアナライズするに……


噂話は九分九厘くぶくりん真だ。


いやそうに違いない。よく見れば完全にギャルの見てれである。スマホの画面もバキバキだし。


彼女の『悪評』とはすなわちbitch。男がらみの不節操な噂話であった。


「見学だけさ。なにか問題でもあるのかい?」


「ある! まず、人が来るなんて聞いてない!」


「いつから許可制になったんだい? 良いじゃないか、いつ誰が来ても。それに、彼は1年生だ。部活動の入部申請をしなければいけない。そうだろう?」


2人で言い争うなか、青蓮は俺のほうにそう投げかけてきた。この手の肯定するしか答えようの無い質問をされても、時間の無駄なだけなのに。だから、ここはキャッチしたボールを投げ返してみよう。別に『俺という存在を少しでも彼女の記憶の内に残してやろう』だとか、『このまま退室したならば、もう二度と話すこともないであろう絶世の美少女と最後の記念に会話を』だなんて考えちゃいない。ぜったいに。


「そうですね、提出が明日までで……。というか、なんで俺が1年生だって分かったんですか?」


「ん……? ああ、そうだね……


彼女は、右手を顎に添え、少し考えるように目を伏せたかと思うとすぐに、その漆塗りのように黒く艶やかな瞳をこちらに向けた。


きみ佐々田ささたくんだろう? 佐々田……夏瑪なつめくん、だったかな?」


俺はしばらく開いた口が塞がらなかった。いや、口が開いていたことにすら気づかなかった。彼女は俺を覚えていた。俺を……覚えていたのだ。安藤青蓮が。この……俺を……。


「……はァ? なに? 青蓮の知り合いなの?」


……水仙の、耳に痛いほど甲高い声で、俺は陶酔から現実へ引き戻された。まったくありがたい限りである。

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