第9話 ヴィクター視点:ラナ様

 わしはブライト公爵家で執事長を任されているヴィクター・グレイ。


 好きなことは孫と遊ぶこと。

 得意なことは裏工作。

 日課は愛用しているダガーナイフの手入れをすることだ。

 愛用しているといっても使う機会がたくさんあるわけではない。強いて言うならラナ様を狙う暗殺者をるぐらいだ。頻度的には数日に一度くらい。

 現役でやっていた時と比べたら使う機会はほとんどない。


 わしがお仕えするブライト公爵家には、当主の旦那様とその奥様、長男レイ様と長女ラナ様がいらっしゃる。

 だが、ラナ様以外の御三方はほとんど屋敷に帰って来ない。これには色々と理由があるわけだが、主の居ない屋敷で働く使用人たちの雰囲気は決して明るいものではない。

 わしは彼らをまとめる立場としてなんとかしなければと考えていた。


 そんな時、ラナ様が高熱を出して寝込んだ。旦那様と奥様にご報告したが、お二人とも「自分が帰ってもラナに嫌がられるだけだ」と悲しそうに言うだけ。

 正直なところ、相変わらずだなと呆れてしまった。

 4日目の朝、ラナ様に付けていた侍女、エディスから衝撃の報告を受けた。

 なんとラナ様が記憶をなくしたらしい。

 慌てて医者のアマーリを連れ、ラナ様の部屋に訪れる。目を腫らしてすやすやと眠る彼女にどこか寂しさを覚えた。


 ラナ様が起きてきたとき、その表情を見て本当に同じ方なのかと内心驚いたが、アマーリに言われていた通り自己紹介をした。


「はい! ヴィクさん、よろしくお願いします!」


 そう答えたラナ様はにこにこと笑っていた。

 5日前ではあり得なかった光景に目を見開くほど驚いてしまう。


 5日前までのラナ様は笑うどころかその表情を変えることもなく、話すことすらなかった。毎日を、時の流れを眺めるように過ごしているだけ。

 感情や意思というものはあるのだろうが、それを伝えるということに諦めを感じているようだった。

 ラナ様がそうなったのには理由がある。

 それは、ちょっとした親子喧嘩のようなものだった。




 約1年前。


「ラナー! 帰って来たよ! お利口にしていたかい?」

「おとうしゃま! おかえりなしゃい! らなおりこうらったよ! きりゃいなやさいものこしゃずたべたんらから!(お父様! おかえりなさい! ラナお利口だったよ! 嫌いな野菜も残さず食べたんだから!)」

「偉いわね。ラナ」

「おかあしゃまありあと!(お母様ありがとう!)」


 その頃は、旦那様も奥様も忙しい仕事の合間を縫って屋敷に帰って来ていた。王城内での仕事改革が為されたり、領地で自然災害が起こったりして、とにかくお忙しかったようだ。

 だからご家族の団欒の時間はほとんどなく、ラナ様がご両親と関われるのはひと月に一度程度。ラナ様はその時間をとても楽しみにしていた。


「きょうはにゃにしてあしょぶ?(今日は何して遊ぶ?)」

「……すまないね。今日はもう戻らないといけないんだ」

「わたくしも、仕事に戻らないと……」

「……え? もういっちゃうの?(え? もう行っちゃうの?)」

「……ええ、ごめんなさいね」

「……すまない」


 旦那様と奥様がそう言うと、ラナ様は酷く傷ついたように言った。


「……いちゅもおしごとばっかでらなのことにゃんてわしゅれれるおとうしゃまとおかあしゃまなんて、だいいらいよ!(いつもお仕事ばっかでラナのことなんて忘れてるお父様とお母様なんて、大嫌いよ!)」


 ラナ様の表情には悲しみや怒りなど、様々な感情がぐるぐるとしていた。

 彼女は自分の部屋に向かって走り出した。


「ラナ……」


 そう呟いたのはどちらだっただろうか?


 それから旦那様と奥様は仕事に逃げ、1年程経った今でも帰って来たことはない。

 ラナ様はだんだんと心を閉ざし、表情を変えることもなければ話すこともなくなった。




 そんなラナ様が笑顔で話した!?

 これは何かが変わる……! そんな予感がした。




 数日後、ラナ様はアマーリと共に屋敷中の使用人に話しかけ、応援をしたらしい。

 その日の業務日誌の自由記述欄には、全員がラナ様について書いていた。


『お嬢様に話しかけられて、何かをやらかしてしまった!? と思いましたが全くそのようなことはなく、頑張ってと応援していただきました。明日からも頑張れそうです』


『同僚がお嬢様に話しかけられていました。始めは緊張したご様子のお嬢様でしたが、最後には隣にいた僕にも素敵な笑顔を見せてくださいました。……同僚よ! どうしてお前が話しかけられたんだ!? 是非とも変わってほしかった!』


『そもそもの話かもしれませんが、公爵家の方々が屋敷にいらっしゃるということを初めて知りました。そのことを知れただけでも頑張ろうと思えるのに、お嬢様が応援までしてくださいました。これは頑張らなければなりませんね。お嬢様に喜んでいただけるような仕事をしたいです』


 次の日から屋敷全体の雰囲気ががらっと変わった。使用人一人ひとりに笑顔が増え、心なしか仕事も早くなっている。

 これもラナ様のおかげだ。




「失礼致します。ラナ様、ご機嫌いかがでしょうか?」


 久しぶりにラナ様に会ったのは、レイ様の帰宅が3日後に決まった時だった。

 エディスによるとここ数日はため息をたくさんついていらっしゃるらしい。この知らせを聞いて元気になっていただけると嬉しいが。

 ラナ様に少しでも笑ってほしいからと大袈裟にお伝えした。


「ラナ様、落ち着いて聞いてください。レイ様が……3日後に屋敷へ帰って来られます!」


 そう伝えると、余程衝撃的だったのか、数秒の間の後に目を見開いた。そしてレイ様に会うことができると知り、とても嬉しそうに笑った。

 だがその後突然真剣な表情になり、エディスに話しかけた。

 レイ様と何をお話しすればいいのか? と。

 ころころと表情が変わり、見ているこちらも笑顔になる。良い意味で目が離せないお方だ。




 今日はレイ様が帰って来られる日。ラナ様はとても張り切っている。

 無事にお二人が仲良くなれますように。わしはそっと神に願った。

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