第肆章 文曲星
壱 生きるとは?
「家業の手伝いで
粗い鉄筋造りのその部屋は、およそ本来であれば備えるべき書棚や机は、不十分でありました。
戦争が終わってから、約一年。
物資も少ない中での急造なのですから、仕方はありません。
ここは、田町と蒲田の間にある元工場街。
私は、仕事を探しに来ていたのでございます。
あの放送のあと、日本という国は本当に空っぽになってしまいました。
誰しもが絶望し、虚脱し、そして想いの
これまで日本人であることに強い自負があった国民は、その心を打ち砕かれ、盲目になってしまいました。
つい先日まで、必死に「生」を追いかけてきたのに、その「生」の意味を失う。
それは、誰しもが生きる気力を失ったと言えるものでした。
私も御多分に漏れず、虚無感に苛(さいな)まれました。
今まで信じてきた日本という国。そして、学んできたこと。
それらの真逆を日本という国は、世界は、求めてくるのです。
大の大人であっても、腹落ちすることは難しいでしょう。
しかし、どこにも世話焼きというものはいるもので。
私の家に住み込んでいる悪友が、照と私をくっつけようとするのです。
なんともおかしないい回しや、回りくどい立ち回りで、私たちを二人にしようとするのです。
私と照がふたりだけで
私は困り果て、照に「あのタダ飯喰らいは、いったいなにを考えているんでしょうね」というと、照は、照で「旦那様は、もう少し、気が付くようにしてくださいまし」と、
非常に難解でございます。
確かに身の回りのことは、すべて照がやっていてくれております。
幼い頃からずっと一緒であり、お互いの心の根もわかっている。
そして、いつも私に気を配ってくれている。
団子っ鼻なのが少し気にはなりますが、そこまで器量も悪くはありません。
何も迷うことはない。
私はある日、
「
と、照に伝えました。
照は、
「打ち直しくらいは、私だってできます。なにも仕立て屋で行う必要はありません」
と、ピシャリと返します。
これに困った私は、
「あれは、正叔父様からいただいたちゃんとしたもの。品川の『神田』でなければ打ち直せませんよ」
と、言ったものの、照はこの言葉に反応し、むくれ顔で言います。
「私の腕が、『神田』に及ばないと清さんは言うのかしら? 清さんのお召し物のほとんどは、私が打ち直したり、繕ったりしていますのよ。
もう少し私をちゃんと見てくださいまし!」
このように言い下されてしまいました。
これには、いささか困っていると、障子の向こうで薄ら笑いが聞こえます。
「これ、カヲル。盗み聞きとは品がありませんよ」
と、今までのやり取りを聞かれていた恥ずかしさから、私はカヲルを叱責します。
「っへっへ、清さん、すんませんな。たまたま、
そういうと、カヲルはまた「ニシシ……」と笑います。
まったく。この居候は。
少しは「しゃんと」したらどうでしょうか……。
カヲルは私から照にくるりと視線を回し、笑みを浮かべながら言います。
「照さん、イイじゃあないですか。久しぶりに清さんと二人っきりで、品川にお出かけしてきては。それに最近羽振りのいい『神田』に行けるんです。『神田』は新作の小間物も扱っているんでしょう?
もしかしたら清さんは、そっちの方が本命かもしれませんよ」
カヲルはまたしても「ニシシ……」と笑います。
こういうところがカヲルのいいところなのか、悪いところなのか私には最近は、わかりません。
ふと、照を見ると俯き口を閉じ、顔中、いや耳まで真っ赤になっておりました。
突然。
「しょ、しょうがありませんね! 清さん、お一人で『神田』に行かせて、ひどい売掛を受けられてもいけません。
わ、私がご一緒して、しっかりとお守りいたしますわ!」
やれやれ。
私は、小僧か何かでしょうか。
またカヲルが「ニシシ……」と笑うのでした。
品川の「神田」。
海野商店があった時代から長い間、取引を行っている呉服・小間物問屋でございます。
大正初期からの老舗で、元は呉服問屋でございました。
昭和になるにつれ変化する客層に併せるように、その商法も変化して参りました。
呉服だけでなく、小間物や帯なども扱うことにより、多く客層を取り込む。
呉服に合わせた小間物、そして帯を提供することで、上から下までを「神田」で揃えることができる。
なんとも不思議な業態ではありますが、これが時代にちょうど相まって繁盛し、その店を大きくしていきました。
「あらぁ、コイツぁ、海野のボンじゃないですかぁ。そっちは照さんじゃありませんかぁ。
お二人とも戦争を切り抜けられたんですねぇ。本当にお変わりなく、ようございました。
ささ、お入りくださいなぁ」
迎えてくれたのは、「神田」の八代目店主、
年の頃は、私より少し上。
男ではありますが、整った顔立ちと華奢な身体、そして喋り口からまるで歌舞伎の女形のようであります。
実際に、男色家だというお話も耳にします。
雅、艶やかなモノを知るという才は、呉服・小間物問屋としては欠かせないもの。
彼は、ある意味、女性よりも女性らしい感性を持っているというのが、私の印象でございました。
「ボン。お久しぶり。なんでも海野は閉じたって聞いていますよ。なにか立ち行かないことが、あったんでございますかぁ? 私どもも、この戦争のお陰で随分と締め上げられてしまいまして……。店も少しずつは戻ってきたのでが、なんとも品が入らなくてねぇ……。
あらやだ。私の話なんかしちゃて。ボン。今日はどんなご用向きですか?」
奥座敷で、幾の話を聞く。
なんともナメクジのような話し方が私の耳を這ってくるようで、肌に粟が立つ。
長居をすると、その視線とコトバで心まで舐め回されてしまいそうです。
「照に……。
に、似合いそうな、か、かんざしを一つ二つ、み、見繕ってくれないか?」
私は幾の顔を見ず、俯き、少しどもりながら告げました。
自分でも顔が紅潮しているのがわかります。
今の顔を幾に見られたくない。ましてや照には……。
「清さん……」
照の涙がかった声が、左後ろに聞こえます。
「おやおや、まあまあ。
海野もお年頃だねぇ。私にかまってくれると思っていたのに」
幾が嘲笑とも取れる笑みを浮かべ、ススっと出て行きました。
奥座敷には、幸せという沈黙が静かに、静かに、降ってきたのであります。
それから、当然であるかのように私は照を籍に入れ、主人と使用人という関係から夫婦になりました。
女性というものは、とても変わったイキモノでして、結婚をすると少し強い物言いがさらに強くなります。
特に私に向けるそれが、主人に向けるモノというよりも、
「清さんは、どこかできちんと仕事をしなければ、いけません! これからの時代は、新しい風が吹かれます! 外で、しっかりとお仕事をしてくださいまし!」
何ということでしょうか。
私は義父母が残した金で、ゆうるりと生きていくつもりでしたが、そうは問屋が
仕方なく町へ出かけ、海野商店のあった頃にお付き合いのあった商店さんに働き口を貰いにいきました。
虚無感や虚脱感に浸っていたのは、一部の人たちだということがわかりました。
一時は廃墟や焼け野原のようであった街は、少しずつ活気を取り戻していました。
家の中で自らの考えや想い、そして、本に浸っていてはわからないことです。
人間とは、やはりこういうもの。
どんなに絶望を感じていたとしても、生きることをやめないイキモノなんです。
そのとき、私の中にも何かしらが
照の言っていたとおり、新しい風が吹き始めているのかもしれない。
そう私は、思うのでした。
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