肆 戦争が奪ったものは学びだけなのか
「もう一本、つけてくれるか?」
カヲルさんは、二合徳利をレイさんに申し訳なさそうに差し出す。
「今日は、お客様がいらっしゃっているからって、あまり調子に乗らないでくださいね」
レイさんはそういうと徳利を持って部屋を出る。
その目元が緩んでいることからも、彼女も楽しんでいることがわかる。
じいちゃんの話で二人の空気が柔らかくなっている。
そういう空気感をじいちゃんは人に多く与えてきたのだろう。
「清さんは、学舎でも目立っていてね。
いつも人の輪の中心にいたんだ。いつも清さんの周りには、人が集まっていてね。
でも、徒党を組むわけじゃあないんだ。
本人は気にする風でもなく、
そんな中、なぜかね、私のことをいつも気にかけてくれたんだ。
私たちは同じ年頃だったのになぁ。アニキに気をかけてもらうようで、ちょっと恥ずかしかったんだよ。だけど、一緒にいたかった。どうやら私が弟さんの雰囲気に似ていて、気になっていたそうだ。それでもよかった。
いつも一緒にいる仲間の中には、高野山から出てきていた小坊主もいたんだ。
君も知っているだろう。千日業を達成し、三人目の
そんな面白いやつがたくさん清さんの周りにはいたんだ……」
周りにいる人間をいつの間にか楽しませ、そして居住まいを正させる。
そんなところは、昔から変わらないらしい。
私は、猪口をきゅっとやる。
自然と口元が緩む。
「勉学もかなりしっかりとされていたんだよ。
万年、落第ギリギリの私に、考査前には泊まり込みで算盤を教えてくれたりもしたんだ。
『こんなのもわからんのは、精進が足りないからですよ』
なんて、いつも言われていたよ。
本当に優しいんだか、厳しいんだか。
まあ、そこが清さんのいいところなんだよな……」
レイさんが二合徳利を盆に乗せ、部屋に入ってきた。
「あらあら、随分楽しそうに話しているのね。
清さんのヒミツの話しでもしてたのかしら?」
そう言って、レイさんは微笑を浮かべながらカヲルさんの猪口に酒を注ぐ。
燗されているためか、アルコールがふわりと鼻につく。
「いやぁ、まだ学生の頃の話しだよ。
真面目でしゃんとしていて、自然と誰の眼にも止まってしまう。
そんな清さんのことを話していたんだ」
レイさんは目を細めていう。
「えぇ、えぇ、そうですとも。
背もスラっと高く、そして意志の強そうな
その下に切れ長の二重がとっても色っぽくてね。
照さんがいても、女性からの評判もよかったのよ」
なんだそれは? そのじいちゃんに似ているといわれる私もいい男なのか?
そう思うと、なんだかこそばゆい。
しかし、そんなこと言われたことは一度だってない。
「そんな楽しかった時間も、戦争によって強制的に終わらされてしまったんだ。
『学徒動員』
君もきいたことがあるだろう。
太平洋戦争が終盤に差し掛かったころ、兵士の数が足りなくなってきたんだ。
誰しもが戦争に向かう。それは、学生であってもだ。
私たちは、これの公布によって翌月には強制的に卒業。あの小坊主は、最後に教師に食ってかかっていたが、それも清さんが
高野山に戻るのが本当に嫌だったんだろう。最後に別れる際には、みんなで肩を抱き合って泣いたよ。
もう一度、生きて会おうって……」
まさか戦時中の学生のリアルを聞けることになるとは。
じいちゃんからは、こんな話は聞いたことが無かった。
月並みな言い方だが、じいちゃんにも学生の時代があり、そして青春を
それを政府が、戦争が、奪ったのだ。
もっとも多感であり、そしてさまざまなことに想いを巡らせ、議論を交わす。
そういった精神的な成長がもっともなされる時間を奪われる。
当時の学生たちは、その後、どうなっていったのだろうか?
思考や行動が奪われる。そこまでして戦争を続ける必要があったのだろうか?
まあ、ワタシ風情がそんなことを語ってもどうしようも無いのだが。
「寮から追い出されてしまった私は、清さんの家に仮住まいさせてもらった。
実家のある山形には、帰る手段が無いほど戦争はひどくなっていてね。それに金もない。
清さんは『一人や二人増えたところで、たいして変わりませんよ』と、招き入れてくれたんだ。
照さんも『清さんと二人だと、息が詰まります。カヲルさんがいた方が、家の中が明るくなるんです』なんて言ってくれたもんだから、私も気持よく過ごさせてもらったよ。
清さんと照さんのやり取りも面白くてね。
あの二人、お互い好き合っているのに、なかなかに進展しない。
こっちとしたら、恥ずかしいくらいのやり取りをしていたよ。
まあ、なんとも不思議な三人の共同生活でしたね。
空襲があったある日なんて、玄関のタタキに
学校もないもんだから、三人で出かけたいのはやまやまだけど、世間が世間でね。私は、暇を持て余していたよ。
戦時中となるとね、何をするにも周りの眼がキツイのさ。時々、清さんの弟が遊びに来ていたので、一緒に花札やなんかをやって楽しんだもんだよ。
清さん? 清さんは毎日飽きもせず、本ばかり読んでいましたよ。
その本も既に何度も読み直しているというのに飽きもせず、何度も何度も読んでいましたよ」
戦時中は、本の内容さえ取り締まられていたと聞く。
じいちゃんはどんな本を読んでいたのだろう。
そんな時代から本が好きだったのだな……、と感慨にふける。
「そんな何もない生活もあっという間に終わってしまったんだ」
カヲルさんは、猪口を一気に煽り、漬物を口へ放り込む。
その目に少しの厳しさが灯る。
「赤紙が届いたんだ」
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