参 ここでしか得られないもの

 ここでの毎日は江戸川での生活よりも、当時の私からしたら豪勢なモノでした。

 朝餉からたっぷりの牛乳と小麦から作ったパンに牛酪バターを塗ったものをいただきます。

 さらに、卵を焼いたものと、干し肉を牛脂で焼いたものが出ます。

「宿馬」から噂で聞いていた洋食といわれるものが、朝からいただけるのです。

「早馬」に入った翌日の朝からムクれ顔をして掃き仕事をし、気持ちに粟が立っていたのですが、朝餉にこれを見た時には、そんな気持ちは遥か彼方に飛んでいきました。


 よく見てみると、正や千の着物は、仕立てが良いのものでした。

 朝の仕事の後、私に手渡された着物もよいもので、ふんわりといい匂いがしました。香が焚き込まれているのでしょう。

 布団の厚みといい、食事の豪勢さ、着物の仕立ての良さなどこの家にはお金があり、存分に使っていることがわかりました。

 江戸川はお金がありましたが、親父様は決して贅沢ぜいたくをさせてくれませんでした。

「いつか世の中が落ち着いたら一気に使うんだ」とおっしゃっておりましたが、先日の陸軍将校の決起など、まだ世の中が落ち着くのは先になりそうです。


 ここでの私の仕事は、奉公人や小僧のようなこともやります。

 他にも奉公人が何人かいるのですが、私は彼のさらに下の仕事を申しつけられました。

 ここでの仕事をはじめたばかりということもあり、表の掃き仕事や、伝言、材料を買いに来たお客様宅への運搬など、小僧と奉公人の間の仕事が多かったように思います。


 毎日はクルクルと周り、アタマと身体の疲れからか、夕餉(ゆうげ)の際に半分眠りながら食事をしていたところを叔父様から引っ叩かれる。なんてこともありました。

 夕餉ゆうげも豪勢なもので、毎日のように牛の肉が出ました。

 牛の肉は、少し鉄のニオイのような臭みがありましたが、脂の部分は溶けるように舌の上を滑っていきます。

 叔父様がいうには、牛の肉を食べると体力や精もつくとのことです。

 精魂尽せいこんつくる毎日を送っておりましたので、ありがたく、たんといただきました。


 ここへきての数カ月はあっという間に過ぎていきました。

 痩せていた私の身体はふっくらとしてきましたし、何よりもあばら骨が胸から消えてしまいました。

 江戸川でも十分な食事をしていたと思っていたのですが、ここでの生活は私を肉体も知識も肥えさせるモノでした。

 久は、なぜここでの生活を放り投げ、江戸川に戻ったのでしょうか?

 今となっては、わかりませんが、望郷ぼうきょうや兄弟への想い、そして寂しさによるものだったのでしょう。


 仕事は大変であるものの私にとっては、ここの生活は毎日が物語の中にいるようで本当に楽しいものでした。

 そんななか、叔父様から改まって話がありました。


「清、お前、読み書きはきちんとできるのか? 算盤そろばんは?」

 江戸川では幼いうちに奉公人から少しばかりの読み書きを習いましたが、算盤は親父様の考えでもう少し得心してからだといわれていたため、まだ習っておりませんでした。

「お前は、今後、海野商店の店主にならなきゃならん。

 そのために算盤は必須だ。明日から学校に通え。

 朝の仕事はしっかり行い、学校へ行き、帰ったきたら番台のワシに控えよ」


 学校……。思ってもおりませんでした。

 ここでの商いは、仕事をしながらチラチラと見て知っており、微(かす)かではありますが学んできておりました。

 しかし、それを本格的にはじめるとなると及び腰になります。


 そんな風に考え込んでいる私を叔父様は見抜き、

「清! しゃんとしろ! そんなんじゃ、運命までも逃げっちまう! 前を向け! そしてしゃんとしろ!」

 と、激(げき)を飛ばします。

「しゃんとしろ」

 そうだ。ここにいれば江戸川では手に入らなかったものが手に入る。

 知識も算盤も、そして運命も。


 江戸川での生活に不満があったわけではありません。ただちょっと物足りなかったのだと思います。

 私は、家長としての未来だけにふん縛られ、そしてそのように振る舞うことだけを求められてきました。

 ここでも求められることは、本質的には同じなんでしょう。

 だけれども古くからある慣習によるものではなく、新しい時代に合わせた考えや教え、そしてカネの使い方。

 これらが新しい時代をあらわしているのではないでしょうか。

 きたる時代の渦中かちゅうで、心躍こころおどる毎日を過ごしていくためには「しゃんとする」ことが必要なんでしょう。


「私は海野 清として生きる」

 この時にしっかりと思ったわけであります。

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