弐 商いとは、まことに珍妙なるもの

 朝の早いうちから大きな大きな音がします。我が家の門扉もんぴを叩く音です。

 そんな中に久の声を微かに感じた私は、寝床から飛び起き、表へと向かいます。

 そこには、「早馬」に養子に出されたはずの久が泣きながら立っていました。

 着物ははだけ、草履ぞうりも履かぬままの久は、しゃくりあげるだけでなにも話はしません。

 私は、久をタタキに上げると湯をこせえてやって、その場で足を揉んでやりました。


 久は、ぼつり、ぼつりと話します。

「こんなん、聞いてねぇ…。俺は、親父様に捨てられたのか……」

 よわい八つの久がこんなことをいうとは、「早馬」でどんな仕打ちを受けたのか……。

 私は、静かに久の話しを聞いてやることしかできませんでした。


 朝餉あさげの時間になり親父様が起きてくると、久が食卓にいることに当然、腹を立てました。

「この、恥知らずが! 恩知らずめ! 俺の顔に泥を塗るつもりか!?」など、聞いているかたわららが痛い言葉を幼い久に散々投げつけていきます。

 その勢いは収まらず、久の胸ぐらを掴み、何度も何度も久の頬を殴りつけていました。

 私はどうしても耐えきれなくなり、親父様の腕を掴みとっさに言っておりました。

「親父様! 久を跡取りにしたらよかろう!

 『早馬』には、私が行きます!」と。

 なんでその時、そんなことを言ったのでしょう?

 なによりも親父様が久を殴りつけるのを私は、止めたい一心だったのかもしれません。

 私は、将来手に入るべき、『家長』を捨ててでも久を守りたかったのです。

「フン! 好きにしろ! なによりも家に泥を塗ることだけはするな!」


 親父様にとっては結局のところ、私であっても久であってもどちらも良かったのです。

 対外的な面子めんつだけ保てれば、いいのです。

 私はこの時に悟りました。

 私たちは、道具であり、所有物なんだと。

 この時代、多くの方がそのように感じることも多かったでしょう。

 だけれども、少なからず親父様のために、家族のために、ここまで頑張ってきた私としては、悲しいものがありました。


「早馬」の家には、その日の夕刻には到着しました。

 到着早々、叔父様おじさまからは冷たい視線を投げつけられ「今度こそ、逃げんなよ」と一言いうと奥へ下がってしまいました。

「早馬」の叔父様はしょうという名で、家で商売をしております。

 扱っている商品は、砕石や砂、コンクリートやコールタール、鉄材といったものでした。

 主に建物を作るための材料を扱っていたのですが、最近多くなってきている道路というものの材料も扱いはじめたそうです。

 道路は固く平坦であるため、最近多くなってきた自動車というモノがとても走りやすくなるそうです。

 そんな建築や道路に用いるものはどれを取っても重いため、叔父様の身体は鍛えられて大きく、まるで熊のようでした。

 それでいて、双眸そうぼうは顔にカミソリをスッと入れたように細く、その目でにらまれると視線で切り傷を付けられるような思いがいたしました。


「清、明日から頑張ってもらうんだから、今日は早く寝や。明日は、五時に起きて表の掃き掃除からだよ!」

 叔母の「せん」が早速、冷たいコトバを投げつけます。

 千は、この時代には珍しい高身長で、目鼻立ちがはっきりしてる人でした。

 親父様の兄弟だからあたりまえなのですが、大きな鼻が特徴的です。

 正月の三日には親父様に挨拶に来るのですが、なんとも喋り方やモノの言い方に冷たさや嫌味のようなものが感じられる人でした。

 私や久は、あなたの都合を合わせるために来ているんですよと、言ってやりたい気もしましたが、初日から叔母様との関係をこじらせる必要はないと、私は「はい」とだけ応え、用意された部屋へに向かいました。


 部屋は南西向きの6畳ほどの部屋でした。

 部屋の片隅には書き物ができる小さな机がこさえてあり、部屋の中央には既に布団が敷かれておりました。

 見たことが無いような厚い布団で、掛布団と敷布団の間に動物の毛でこさえたような布が入っております。

 中に入ってみますとふんわりと太陽の香りがします。

 敷布団も掛布団もこんなに綿が詰まっているモノは、今まで見たことがありませんでした。

 特にこの動物の毛のような布は布団の中をより温めてくれ、こんな寒い日であってもじんわりと汗をかくほどでした。


 私は、こんなにも温かな布団の中で、久のことを考えます。

「こんなにも温かい中で眠れるのに、親父様のところに帰ってきたのは、なんでなんだろうか?」

 そんなことを考えていますと、ゆっくりと温かな眠りがやってきます。

 私たちはあんなに寒さをこらえて寝ていたというのに、商家では温かな眠りを迎えられる。

 自分が道具や所有物などモノのように扱われた末、こんな温かなモノを得る……。

 モノとは、商いとは、まことに珍妙なるものだと想い、眠りの中に落ちてまいりました……。

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