《前期日程六日目・深夜二時・東大阪市の廃工場》(2/5)



 とはいえ、ゲロまみれでは、どこへも行けない。

 僕を抱きしめたから、黒澤さんのパステルカラーのパーカーも汚れてしまったし。外魂格を展開した黒澤さんは、僕を担いだまま、ビルの屋上をひょいひょい跳んで、大阪を走り抜けた。胃の中身がもう少しあればまた吐いていたのは間違いない。

 連れていかれた先は、黒澤さんの下宿だ。ギルドの職員寮だ。シャワーまで借りてしまった。


「言っておくが、私はそんなに安い女ではないぞ」


 と、黒澤さんは言った。知ってるよ、一億円だろ。先にシャワーを浴びさせてもらったので、ありがたいことに意識はかなりしゃっきりしてきていた。


「僕も命が惜しいからね、覗いたりはしないよ」

「ふむ。命が惜しい、か。そう言ってくれるか。もう大丈夫そうだな」


 あ。なんというかその、気恥ずかしくて目を逸らした。


「まあ、実は覗いてくれてもいいのだが」


 えっ? 目を丸くする僕に、黒澤さんはにまにま笑う。


「慰謝料がふんだくれるからな。ヘタレにちょっと裸を見られて金をせびれるなら儲けものだ」

「この拝金主義者め」


 呆れてしまう。さっきまでの空気はなんだったのか。でも、そのほうがありがたい。ずっとあのままでは、告白する前に自分の両手足を縛って道頓堀に飛び込んでしまいかねなかったし。


 ともかく、互いにシャワーを浴びて、服も着替えて――僕は黒澤さんからデカめのジャージを借りた――深夜三時のコインランドリーで、ゲロまみれの服の洗濯が終わるのを待っている。


 ボロい職員寮だけれど、とはいえ場所は難波だ。すぐそばのコンビニで買ったスポーツドリンクをちょっとずつ飲みながら、長椅子に座って洗濯機のドラムとにらめっこしていると、黒澤さんが店外から戻ってきた。


「真田さんは、なんて?」

「深夜二時に電話するなと怒られた。……起きているあいつもあいつだが。それから、例の町工場は即刻押さえにいく、と。白河が黒幕で犠牲者が大勢いるとも伝えておいた」


 僕たちはまず、真田さんに連絡した。あれだけの数の魂を失った肉体が、二階に放置されていわけで。素直にF対に連絡するしかなかったのだ。


「あと、一時間以内にギルドに来いとさ。事情聴取があるらしい。それから、黒幕が転生者であろうがなかろうが、やはり真田はこの件で動けないそうだ」


 面倒なパワーゲームだ。なんとか省のなんとか庁がとか、知ったことじゃないってのに。


「F案件は公的には認められていないから、町工場の二階にいたやつらは危険薬物の大量摂取による集団昏倒だと判断されるだろうな。肉体的には死んでいないし、死亡事件扱いになるのはもう少し先になる、と」


 これもまた、バカバカしい話だ。彼らはもう目覚めることはない。彼らの肉体にはもう、魂の欠片すらも残っていないというのに。警察はあくまで、ヤク中の集団が自主的にラリって倒れた扱いで捜査をするしかないのだ。法務省も厚労省も国家公安委員会も、事情と規則でがんじがらめ。黒澤さんは苛立たし気にため息を吐いた。


「そうこうしている間に、白河に逃げられるな。あの惨状を見る限り、白河はもはや信徒を残そうだなんて考えていない。拠点を捨てて、次の布教場へ移動する気だろう」

「ていうか、白河さんを捕まえるのは、公安警察だろうが機動隊だろうが無理だよね。真田さんが出ないと収まらないのに、真田さんが出られないなんて」

「……その真田だがな」


 あの疲れた公務員は、珍しく強い口調で厳命してきたらしい。


「狸穴さんは絶対に動かないでください、だとさ。勝手に動いたら、契約違反及びF対規約違反の現行犯と見なして、最優先で捕まえると」


 びっくり仰天である。


「えっ、僕をッ? なんでッ?」

「黒幕の正体をだれとも共有せず、相談もせず、ひとり勝手に追いかけていって大量の魂を失った肉体を発見し、あまつさえ勝手に死にかけたのだ。F対関西支部、最大のマーク対象になってもおかしくなかろう。ギルドに呼びつけたのも、事態が終わるまで軟禁するためだろうな」


 なんで、僕なんだよ。僕よりも捕まえなくちゃいけない人が、野放しになっているのに。


「真田も貴様を守りたいのだ。あいつはアレで過保護だからな。もっとも、私も貴様を行かせる気はない」


 黒澤さんの意外な言葉に、目を丸くする。


「なんで? 告白しに行くって言ったじゃん。手伝ってくれないの?」

「友をこれ以上失ってたまるか。真田が白河を捕まえ、事態が収束したあとに面会の機会をねじ込もうと思っていたのだが。……まさか、ここまでになっても、真田が動けないとは思わなかった」


 黒澤さんは淡々と言う。


「……鈴鹿の件は、どうするのさ」

「かたき討ちは一銭にもならん。むしろ金の無駄だ。タダ働きだからな。しかも白河レベルの相手だ、命懸けだぞ。一千万円積まれたってやらん」


 なんてやつだ。いいよ、僕ひとりでいく……、と思ったけれど、黒澤さんから逃げるのは無理だよな。よしんば逃げられても、僕ひとりでは告白どころではない。あっさり殺されるのがオチだ。あの原液を飲み乾したのに旅立っていない僕は、間違いなく白河さんの教義教則に触れるだろうし。


 だけど、ここで白河さんを追いかけなかったら、一生……、またこの次にも来世があるなら、来世も、そのまた来世でも、後悔するのはわかりきっている。


 どうすべきか。目の前でぐるぐる回る洗濯機に相談しても、いい答えは返ってきそうにない。ていうか、なんなんだよ、黒澤さんは。さっきはあんなに優しかったのに……。この拝金主義者が、と横顔を睨みつけると、黒澤さんも苛立たしそうに唇を嚙んでいた。それだけで、僕の怒りは夏場の氷みたいにあっさりと溶けてしまう。


 黒澤さんも、同じじゃないか。当たり前だ。白河さんに用事があるのは、僕だけじゃない。けれど、黒澤さんはてこでも動きそうにない。そもそも、この女はてこでは動かない――、そうだ。最初からそうじゃないか。黒澤さんを動かせるものは、ただひとつ。


 金だ。


 でも学生の僕には交渉する権利すらない。今しがた「一千万円積まれてもやらない」と断言したのだから、少なくともその倍は必要だろう。いや、もっとかも。


「……あ」


 ――待てよ? 金があれば、いいんだよな。

 僕の脳内で、なにかが繋がりそうになった。情報と情報が絡み合う。そうだ。


 一億円規模の売り上げ。F対と現行犯。私人逮捕の謎ルール。省庁同士のめんどうなパワーゲーム。拠点を捨てて逃亡する白河さん。……ふたつめの、ボストンバッグ。

 僕が見てきたもの、聞いてきたことがばちばちと音を立てて脳内で発火し、結びつく。だけど、その妄想を現実にするには、僕自身が黒にならなければならない。


 ダーティーではなく、ダークへ。


 平穏な日常に背を向けて、自らアンダーグラウンドの領域に足を踏み入れなければ。僕にその覚悟はあるか? 自問自答してみると、意外なほど簡単に決まった。

 僕は黒でいい。この心をそのままにするくらいなら、黒く染まったってかまわない。


「……どうした、狸穴。考え込んで」

「ええと、あのさっ」


 急に大きい声を出したからか、黒澤さんは顔をしかめた。


「なんだ、いきなり元気になって」

「お金なら、ある、よ」


 黒澤さんはもっと顔をしかめた。猛禽の瞳が、僕の顔面を鋭くえぐる。


「……さっきも言ったが、一千万円積まれてもやらんからな?」


 首を横に振って、じっとりとした黒澤さんの目を正面から睨み返す。結局、こいつも理由が欲しいだけだ。口実が欲しいだけだ。だって、こいつは鈴鹿のことを、そして……、恥ずかしながら、どうやら僕のことも友達だと思ってくれているのだから。あとは拝金主義者の教義教則を納得させてやればいいだけ。


 黒澤さんの聖書は出納帳で、そこに記される神聖なる数列が労力と見合わせてプラスになれば、灰色の祈祷師を縛るものは、なにもなくなる。まったくもって、めんどうくさいやつだ。お役所どものパワーゲームほどではないけれど――、僕以上に、めんどうなやつ。


 ほんとうは今すぐ飛び出していきたいくせに、唇を噛んで我慢している。

 友達想いで、どこまで行っても強情で。

 だったら、その強情さを解きほぐして納得させるのは、僕の役目だ。


「一億円だ、黒澤さん。これだけあれば、どう?」


 言ってやる。さあ、乗ってこい。


「はったりもいい加減にしろ。貴様のどこにそんな金がある」

「あるよ」


 これから口にする言葉の羅列は、ただのうそだ。致命的なうそ。二度と忘れられず、夢に見ては苦悩するであろう言葉。それでも、僕は舌先で唇を濡らして、震える音の連なりを紡いだ。


「僕の全財産をかき集めれば、それくらいはある。ほら、黒澤さんも不思議がっていたでしょ? どうして僕がいい部屋に住んでいるのか、とか。補助制度がどうとか言ったけれど、もっとシンプルな話――、僕、宝くじ当てたんだよ」

「うそをつけ」


 そうだとも。はったりだ。そんな金はない。


「僕は一億円を支払える。真実だ。どうする? 黒澤さん」


 でも、これはほんとうだった。支払うことはできる……、はずだ。黒澤さんの猛禽みたいな瞳が、僕の視線と重なった。真実を射抜く眼光が、僕の視線の奥、魂の底まで見透かすようだった。


「……支払えるとして、手筈はどうする。白河に二人でぶつかっても、二人で死ぬだけだ。前にも言ったが、まともな武器がなければ勝負にならん。無駄死にする計画ならば、一億だろうが十億だろうが、受けられん」

「武器は用意してある」


 慎重に言葉を選ぶ。


「耐久値に補正がかかった、前衛向けの長剣が一本。魔法攻撃に対する抵抗を得られる円盾が一枚。たぶんサイズが違うからフル装備は無理だろうけど、黒澤さんが使えそうな軽鎧もある」

「そんなもの、いつの間に用意したのだ」

「ほら、ふ頭でさ、ギルドの倉庫から持ってくるって約束したじゃん。あのあとだよ」


 これもうそだ。だけど、うそでいい。これはうそでも構わない。大切なのは、僕が本当に武器を持っているという事実のみ。そもそも、最初から武器に関してはこうするつもりだった。


「真田はどうする。一時間以内にギルドに行かなければ、私達が現行犯逮捕されるぞ。どう隠れるつもりだ」


 それについては、ほんとうに愚かな方法を選ぶことにした。


「隠れない。たぶん、それがいちばんいいんだ」

「……貴様は馬鹿だな、狸穴蓮。大馬鹿者だ」


 黙って頷く。そうだ、僕は馬鹿だ。きみと同じように。黒澤さんは、しばらくなにも言わなかった。立ち上がり、回転が止まった洗濯槽から服を引っ張り出す。僕に背を向けて乾燥機に向かい、洗濯物を放り込む。ややあって、乾燥機のほうを向いたまま、黒澤さんは呟いた。


「白河の逃亡場所のアタリはついているのか。私は貴様をどこまで担いで走ればいいのだ」

「……え?」

「なにを呆けている。乾燥が終わったらすぐ出発だ。F対が設定したリミットは一時間だけだ。白河を探し出し、貴様の告白を終わらせるなら、それほど時間はないぞ」


 振り返った黒澤さんの瞳には、爛々と輝く炎が灯っていた。


「契約成立だ。貴様の依頼、この黒澤が受領した」



※※※あとがき※※※

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