《前期日程六日目・深夜二時・東大阪市の廃工場》(1/5)


 気が付いたら、僕の頭は柔らかいものにのせられていた。

 かすんだ視界に、猛禽の瞳が映る。灰色の街の祈祷師が、口を開いた。


「……ひとりで突っ込んで、ひとりで死にかけるんじゃない」


 うるさいな。

 死ねばよかったのに、と思う。僕なんて、死ねばよかった。

 僕の魂は拡散しなかった。僕の体から紫煙は散らなかった。なぜかはわかる。僕の内部に、魂の輪郭を感じない。外魂格が途中で解除されたのだ。


「私が貴様のGPSを追っていなかったら、貴様まで失うところだった」


 頬と首に、ひんやりするものが当てられている。それが黒澤さんの手で、僕がいま膝枕されているのだと気づくのに、一週間くらいかかったような気がした。実際は数分だろうけど、それでも最悪な気分だった。


 彼女が異世界から地球に持ち込んだ癒しの力が、僕の脳内の損傷を治し、神様とやらの異常分泌を中和していく。人体が持つ恒常性。ホメオスタシスが破壊される前に、彼女のスキルが僕の恒常性をひっぱたいて正気に戻してしまう。正気になんて戻りたくなかったのに。


「間に合ってよかった」


 間に合ってしまった。鈴鹿は間に合わなかったのに、僕は。

 泥を掻くみたいにして四肢を動かし、黒澤さんの膝から離れて床を転がる。口から酸っぱい液体が盛大にこぼれ落ちた。町工場のコンクリの床にどろどろと広がっていく。僕も一緒にどろどろに溶けてしまいたい。


「絶望的な顔をするんじゃない。おまえがいま感じている絶望感は、多幸感から引き戻された結果だ。刺激的な時間が終わった虚無感だ。ほら、こっちへ来い」


 黒澤さんが、ゲロまみれで這いつくばる僕を床に座らせて、躊躇せず抱きしめた。やめろよ。優しくするなよ。僕がいま、なにを考えているかわかってるのか。死にたかった、だぞ。助けるなよ。僕にそんな価値はないんだから。


「大丈夫だ」


 大丈夫なもんかよ。


「深呼吸しろ、狸穴。絶望感も、いずれ治まる。明日なにをしたいか、考えろ。楽しいことの続きを考えろ。将来の、平穏で幸せな生活を考えろ。それでいい。いまは、それで――」

「いいわけあるかよ」


 がりがりと削れた声がした。僕の喉を使って別人がしゃべっているみたいだ。


「黒澤さん、僕は……僕は、死んだほうがいいんだ」

「そんなことはない」

「そんなことあるんだよ。そんなことしか、ないんだよ。だって、僕は……鈴鹿が死んだのは、僕のせいなんだ。白河さんが、白河さんは……、白河さんのことが」


 僕の支離滅裂な言葉を、黒澤さんはしっかりと受け止めた。正面から、いつものように。


「わかっている。もう、ぜんぶわかった。貴様のGPSを追って来たと言っただろう。貴様の絶望も理解する。裏切られたような気がするだろう、私も――」

「違うんだ。違う、ほんとうに……、どうしようもないんだ、僕は」


 そうだ。僕は、生きていてはいけない。ああ、ちくしょう。


「前世だってそうだ。僕が、僕のせいで、僕が捕まったから、彼らは……」

「死因なんて、思い出すな。狸穴、こっちを見ろ」


 前世から、なにも変わっていない。変えられていない。なにが平穏だ。この狂人め。

 白河さんが言うところの神様は見た。凄烈に光り輝く多幸感。それに続く、地獄みたいな絶望。僕の体から抜けていこうとしていた、魂の欠片たち。

 それらを感じてなお、いや、感じたからこそ、いっそ理解する。胸の内の、甘い疼きが、なんなのか。


「鈴鹿がいってしまったのに。白河さんを許しちゃいけないのに。僕も、たったいま殺されそうになったのに。なのに、なのに……」


 最悪な気分だった。だって、そうだろ? こんな馬鹿が生きていていいはずがない。震えるのどで、僕はエルフの祈祷師に告解した。


「僕、まだ……、白河さんが、好きなんだ」


 言ってしまうと、胸の中の絶望がさらに深まった。友達を殺されて、自分も殺されかけて、それなのにまだ僕は彼女の笑顔が好きだ。揺れる茶髪が好きだ。子犬みたいな言動のすべてが、好きだ。胸を締め付ける甘い感情に吐き気がする。


 衛藤が言っていた。人間、だれとだれの間であろうが関係なく、ありとあらゆる感情が成立する。憎しみ合う中で生まれる愛もあれば、愛するがゆえに憎み合うこともある。友情と性欲が成立する中で、しかし、愛情だけは生まれない関係もある。


 ようやく理解した。そもそも、僕という生き物は――、あるいは、人間という生き物は、最初から、どうしようもなく壊れているのだと。


「……、そうか」


 黒澤さんは一瞬だけ、言葉を詰まらせた。

 それから、長いため息を吐いて、僕の後頭部をぽんぽんと叩く。


「それなら、どうする?」

「……やっぱり、怒らないんだね」

「恋愛がひとを阿呆にするのは、どの世界だろうが、いつの時代だろうが一緒だ」


 相変わらずのひどい言いようで、思わず笑ってしまった。すると、黒澤さんも意外そうな顔で笑った。


「なんだ。まだ笑えるじゃないか」

「ああ。――うん、まだ、笑えるね。最悪だ」


 この小さな世界ではいまも、どこか遠くで知らない人が、あるいはごく身近で知っている人が、不幸にさいなまれているっていうのに。世界でいちばん愚かな僕が、笑えている。地球と人類をデザインした偉大な知性が、本当に存在するのだとしたら、そいつは間違いなく悪趣味で性悪な邪神だ。会えたら中指を立ててやる。


「そうだとも。だれかを愛するというのはな、どうしようもなく最悪なことなんだ」


 祈祷師は優しく言った。


「なんせ、離別は避けようがないからな。だれかをほんとうに愛してしまったら、その瞬間、いずれ必ず心が引き裂かれる時が来る。好意が失せてしまう悲しみがあれば、死によって分かたれる恐怖も生まれる。だが、それでも、私達はだれかを愛してしまう」


 馬鹿みたいだ。傷つくことがわかっているくせに。それなら、最初からだれも愛さなければいいのに。愛さなくていいように、してくれたらいいのに。


「悲しくて苦しくて、辛い。私達の人生は苦痛に満ちている。……なあ、狸穴蓮。少し、私の話を聞いてくれ」


 黒澤さんの声は、優しくて。


「私は、前世では祈祷師として、祈りの旅をしていた。宗派の内部はパワーゲームにまみれ、汚い金が飛び交い、信仰が打ち捨てられて政治の道具になり果てていたから」


 そして、どうしようもないほど痛々しかった。


「せめて私だけは、一人でも多くを癒そう、一人でも多くを守ろうと思った。だが、私が治癒の祈りで誰かひとりを癒したところで、疫病がなくなるわけじゃない。飢えで家族を失う村に、富をもたらせるわけじゃない」


 なに言ってんだ。当たり前じゃないか。黒澤さんは優秀だけど、それだけだ。高望みしすぎだ――、ああ、そうか。そうだった。だから、僕に向かって話しているのか。黒澤さんも僕と同じ馬鹿なんだった。そして、僕よりも強欲なんだ。


「村を救うために必要なのは衛生と病院、つまり知識と金だ。歴史と人脈だったのだ。ほんとうに必要だったものは、私が最初に愚かと切り捨てた人間の汚さそのものだった。世界すべてに比べれば、私はあまりにもちっぽけなのだと、思い知った」


 それはきっと、彼女自身の告解と呼ぶべきものだった。僕なんかが聞いていいものじゃないはずだった。なのに、黒澤さんは僕に向かって言葉を発し続けた。そうしないといけないみたいに。自ら痛みを受け入れるみたいに。


「でも、おかしいじゃないか。私はちっぽけだ。なのに、どうして私よりもはるかに偉大で、賢くて、力のある存在が衆生を導かないのだ。神がいるなら、どうして最初から人間を救われるものとして、あるいは救わなくても良いものとして作ってくれなかったのだ、とな」


 奇しくも、先ほど僕が思ったことと同じだった。黒澤さんもまた、この最悪な絶望を胸に抱いてしまったのだ。


「旅の中で、私は死んだ。つまらない理由でな。そして、この世界で記憶を思い出して、継承術を使って……、疑問に思った。どうして、【治癒の祈り】が使えるのだ、と。だって、この世界には、私達エルフの神はいないのに。母なる大樹も、なにもないのに」


 告解を続ける口が、まるで傷跡のように見えた。言葉という鮮血がこぼれ落ちる、真っ赤な傷跡に。黒澤さんの体から与えられる体温に、身をうずめているつもりだった。けれど、もしかすると、彼女のほうが僕に縋りついているのかもしれないと、ふと思った。体温を分け合う僕らは、どっちも強欲な愚か者に違いなかった。


「私に治癒の力があると知った今生の父母は、金もうけに利用しようとして、F対に目をつけられた。そのとき、父母は……」


 黒澤さんが、わずかに首元を震わせた。


「私を、売ったんだ。F対に。保護者の権利を受け渡し、転生者と継承術の存在を口外しない代わりに、たった五百万円で私を売った。そのあと彼らがどうなったかは、知らない」


 彼女の身の上を聞くのは、これがはじめてだった。


「私は信仰を捨てた。神様なんていない。神様なんて、いらない。私が癒す。私が治す。後ろ暗いことも汚いこともやる。金と人脈だって作ってやる。そして、私が、ひとりで、すべての痛みと苦しみを引き受けるのだと」


 だがな、と黒澤さんはつぶやく。


「大学では、友ができた。馬鹿な友が、四人ほど。その中でも、狸穴蓮。貴様は、私と一緒に来てくれた。痛みを知り、分かち合ってくれた」

「そんな……、大したもんじゃ、ないよ」

「私にとっては、大したものだった。なあ、狸穴蓮。結局、私達は苦痛の中で生きていくしかないのだ。私達が偶然生まれたものであろうと、悪趣味な誰かがデザインしたものであろうと、私達の魂は苦痛を感じずにはいられない。苦痛を求めずにはいられない。なぜか、わかるか?」


 知らないと言いたかった。

 だけど、僕の傷跡から零れ落ちたのは、言葉という名の温かい血液で。それがきっと、黒澤さんの言う、痛みを分かち合うってことなのだろう。


「それが、生きるってことだから」


 かすれた声で、僕は言った。信じがたいほど悲しくて、空しい事実。


「そうだ。私達みたいな愚か者は、痛みを感じなきゃ、生きていると気づけない。幸せではなく、痛みでしか、前に進めない。愚かさに終止符を打てない。だから、なあ、狸穴。いいんだ、愚かで」


 うん、と頷く。そこでようやく、僕の両目からぼろぼろ温かいものが流れ出た。なんだよ。僕の中にもまだ、残っていたじゃないか。涙を流す、機能がさ。

 白い光を思い出す。もう会えない顔を、もう聞けない関西弁を想う。半日以上経って、ようやく。ようやく、僕はほんとうの意味で理解した。


 だれかが死ぬってことは、もう会えないってことだ。


 難しいことじゃなかった。理屈っぽく考えることではなかった。いつも笑いあっていた相手と、もう二度と会えないだけだ。

 ただそれだけの事実が、僕の両目から温かく流れ落ちていく。

 黒澤さんは、黙って僕の背中を撫でた。

 僕の嗚咽がおさまるまで、優しい拝金主義者はなにも言わなかった。


「……告白するよ」


 傷跡からこぼれた最後の血液。これは、答えだ。さっき「それなら、どうする」と黒澤さんは聞いてくれた。怒るでもなく、悲しむでもなく、ただそのまま痛みを返してくれた。僕が先に進むために。


 なにもしたくないだとか、どこにも行きたくないだとか、あるいはもう生きていたくないだとか。そんなことを言えば、楽になれたかもしれないのに。黒澤さんは、たとえそう言ったとしても、やっぱり優しくしてくれたに違いないのに。


 だけど、川底の泥みたいに沈殿しながらも、僕はいちばん痛くて苦しい選択肢を取った。それだけは、強欲で愚かな馬鹿が、自分自身で選ばなきゃならないものだ。

 そうやってしか、僕たちは生きているってことを、まだ生きているだれかと会えるってことを、実感できないから。黒澤さんの言う通り。


「僕、白河さんに、告白するよ。好きだって、言う」


 痛みだけが、僕たちを僕たちたらしめる、唯一のものなのだ。



※※※あとがき※※※

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