《前期日程五日目・深夜一時・大阪ふ頭コンテナ置き場》(7/8)



 ライダースーツが潜んでいる場所は、東大阪市の住宅街の一角、廃れた町工場だった。

 柔らかい生活感に包まれた風景の中で、町工場だけが赤茶けた色で時代に取り残されている。老いた巨人がうずくまって、そのまま錆びついてしまったみたいだ。


 深夜なのをいいことに、僕は堂々とブロック塀をよじ登り、町工場の非常階段から二階の入り口に忍び寄った。一階が工場、二階ロフトが事務所という造りで、入りやすかった。


 こっそり窓を覗き込んだ僕を待ち受けていたのは、事務所の床に転がる男の両目だった。思わず叫びそうになったけれど、なんとか押しとどめられた。男がなにも言わず、なんの反応も示さず、うつろな瞳に窓の光を反射させているだけだったから。

 見ただけでわかる。こいつはもう、いない。肉の体を残して飛び立ってしまったのだろう。


 魔法のピッキングツールで扉を開けて入り込み、事務所を忍び足で歩く。他にもたくさんの、さまざまな格好をした男女が床に折り重なって倒れていた。

 事務所のドアをそっと開けて階段を下りていくと、古臭い機械を入り口側に寄せて無理やり作ったスペースに、小さなプランターがずらりと並んでいるのが見えた。その前にしゃがみ込んで、祈るように手を組んでいる黒い影も。傍らに、ボストンバッグが二つ転がっている。ひとつは、鈴鹿の部屋にあったものだろう。もうひとつは知らない。どうでもいい。


 胸のあたりに、すぅっと冷たい空気が通るのを自覚する。緊張が踵からうなじの上までをざりざり削りながら上がっていって、体を震わせる。

 抜き足差し足で階段を下りる僕に、けれど、ライダースーツは見もせずに言った。


「やっぱり来たか。次は殺すと言ったのに」

「……大学で会ったときは、殺さなかったくせに」


 機械で合成された音声が癇に障る。ほんとうは、もっと甘い声をしているくせに。


「どうしてここがわかった?」

「GPS。あの恋人アプリは、双方向性だから。自分が追いかけられるとは思ってなかった?」

「そっか。そこまでバレてたんだ。じゃあ、声を変える必要もないんだね」


 ライダースーツはフルフェイスのヘルメットを頭から外した。ヘルメットに変声機を仕込んであったらしい。僕は右手を背中に回して、得物を引っ張り出した。長めのナイフ。


「……そのナイフ、どこから出したの?」

「ちょっとポケットが大きいんだよね、僕の服」


 軽口を叩きながら、背後に近寄る。不意打ち狙いだったけれど、もう無理だ。なら、刺し違えてでも――殺す。終わらせる。終わらせるんだ。

 けれど、振り返った彼女は、さもおかしそうに笑った。


「刺せないよ」

「刺すさ。そのあと、そのプランターに生えてるきもい草をぜんぶ燃やす。それがスマート・ポーションの原材料なんでしょ?」

「うん。私の可愛い子たち。植物って水分多いから、案外燃えにくいんだよ」

「来る途中で灯油を買って来た。ぶっかければ燃えるでしょ」

「ナイフ以外、なにも持ってないように見えるけど?」


 くすくすと笑う。


「ていうか、やっぱり刺せないよ。もしかして気づいてない?」


 言葉は端的で、僕の持つナイフよりも、はるかに鋭利だった。


「だって、まみくん。私のこと好きでしょ。好きなひとは、刺せないよ」


 黒のライダースーツに身を包んだ白河さんは、振り返って小首をかしげた。ゆるく波打つ茶髪が、ばさりと揺れる。いつも食堂の隅っこのテーブル席で見せる、眉を寄せた困り笑顔。朗らかで、明るくて、それでいてどこかミステリアス。

 いつも通りのかわいい笑顔が、夜の町工場の闇の中で、やけに浮いていた。


「でも、どうしてわかったの? ちゃんと隠せてたつもりなんだけどな」

「……GPSだよ。ぜんぶ、GPSだ。そうでしょ、白河さん」


 ナイフを持ったまま、僕は律儀に答えた。馬鹿みたいに。


「昨日の夜、僕らが大阪湾ふ頭で会ったとき、僕のスマホがないことも気にしてた。まず、それが不思議だった。だって、僕のスマホだよ? なんで、そんなこと気にするんだ、って」


 答えは簡単だ。


「マサル氏だけじゃなくて、僕のスマホのGPSも追っていたんだ、白河さんは。一緒にスタパに行ったとき、僕らのスマホにGPSアプリを入れさせたのも、きみだった。裏社会で黒澤さんのうわさを聞いていたから」


 大阪ギルドの切り札。グレーゾーンで生きる女冒険者。椿さんですら知っていたのだ。もっと深い場所で活動する白河さんなら、とうぜん聞いたことがあったのだろう。

 ダーティーエルフの黒澤さんを。


「新学期が始まってから、僕と黒澤さんが同じ仕事を始めたと知ったきみは、僕らに張り付いた。大学で一緒にいるために、てきとうな理由をでっちあげて、僕らの動向を探ろうとしたんだ。でしょ?」

「うん、そう。でも、結局、スマホは隠されちゃったけどね。どこに隠したの?」

「言ったでしょ? 僕のポケットは大きいんだ」


 小首をかしげる白河さんをよそに、僕は話を続ける。


「でも、ふ頭だけなら疑問はないよ。マサルのスマホだけでも追える。問題は、鈴鹿の家だ。僕が鈴鹿の家に着いてから、すぐに鈴鹿の家にやってきて、鈴鹿を――」


 首を振る。光の粒たちを思い出す。


「――殺した。ポーションの回収だけじゃなくて、余計なことを言わないよう、口止めの意味もあったんでしょ。鈴鹿は僕に言ってたよ、クスリをやったのはあの子がいたからだって。きみのことだったんだね、白河さん」

「そんなに睨まないでよ。普通に、楽しくなれる飲み物があるよって、誘っただけだもん。いつもみたいに、さ」


 いつもみたいに――、だから安心したのだろう。鈴鹿はどっぷりとポーションの闇に沈んだ。沈んでしまった。戻ってこられなくなるくらい、深く。


「僕が鈴鹿の家に行ったと気づけるのは、キミだけだ。僕のスマホのGPSを追えて、正門前で僕が走っていくところに出くわした。学校に行ったくせに、二時間目も三時間目も出てないんでしょ? だったら確定だ。白河さんしかない」


 アーサー・コナン・ドイルの引用だ。『全ての不可能を消去して、最後に残ったものが如何に奇妙なことであっても、それが真実である』と。スモール・ワールド理論の実証なんて必要ない距離にいた。たったひとり繋ぐだけで、僕らは真実へと辿り着けたというのに。どうしてこうも、遠回りしてしまったのだろう。


「キミだとわかったとたん、すべての言動に説明がついた。これが真実。だから」


 だから、ここまできた。ナイフを持って。


「……僕が白河さんのこと好きだって、気づいてたんだね」

「もちろんっ! 女の子って、男子が思うよりもずぅっと敏感だからね? 好意にも、悪意にも――、害意にも」


 害意。白河さんはちらりとナイフを見て、かわいく微笑んだ。


「ここに来ること、くろちゃんに言ってないでしょ。くろちゃんが、まみくんをひとりで来させるわけないもんね」


 僕は無言で応じたけれど、この場合は、肯定と同じことだ。


「それじゃ、くろちゃんに私が黒幕だって教えてないんだね。そういうとこだよ、まみくん。事なかれ主義がこじれて、自分だけ損をしようとして……、軽い気持ちで致命傷を負うの。悪い癖だよ?」


 白河さんの全身から、ぶわりと紫色のオーラが広がった。きのこの傘のような広がった頭部と、細身の本体、そしてたくさんの触手。人外系の外魂格。なるほど、たしかに――、黒澤さんの言う通り。転生者は化け物だ。否定しようがない。


「いまだって、さっさと刺せばいいのに、うだうだ喋ってるだけ。ほんと、悪い癖だよね。……ここまで言っても刺せないなら、やる気が出るように教えてあげるけど」


 白河さんはいたずらっぽく指を口元に添えた。


「くろちゃんがまだ私のこと知らないってことはさ。いつでも、ポーションを盛れちゃうってことだよね? うふふ、くろちゃんの魂はどんな色なんだろーね?」


 次の瞬間、僕はナイフを構えてとびかかっていた。戦闘にはならなかった。一方的な制圧だった。突き出した刃は、強靭な外魂格の触手に絡めとられ、叩き落される。アスファルトの床に無様に転がる僕を見て、白河さんは嬉しそうに手を叩いた。


「まみくん、友達思いだもんね! そういうとこは好き」


 白河さんの触手が、僕の体をパイプ椅子に座らせ、がんじがらめに縛り付けた。自分でも奇妙なことに、僕はその結果に安堵していた。だって、これできっと、あの光と同じ所へいける。


「……なんで、こんなことを?」


 だから、疑問がこぼれた。口の端っこから、錆びついたねじが落っこちるみたいに。日常会話の中で、聞かなくていいことを思わず聞いてしまったときみたいに。僕の、百個以上はある悪い癖のひとつが出た。聞いても、もはやどうしようもないとわかっているのに、乾いた問いが町工場の床に転がる。


「白河さんは、どうして、こんな。こんな、ばかみたいなポーションを作ったの……?」



※※※あとがき※※※

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