《前期日程五日目・深夜一時・大阪ふ頭コンテナ置き場》(6/8)


 床の上に、新しいごみが増えていたと知ったのは、鈴鹿の肉体を救急車が運んで行ってからだ。現場に駆け付けた黒澤さんが回収した、空になったペットボトル。

 医者に病室から追い出されて、待合室の破けたソファから飛び出た綿を眺めている僕のとなりに、いつの間にか黒澤さんが座っていた。


「……バッドトリップによる過度の衰弱だと判断されたらしい。ご両親がいま面会中だ」


 知っているよ。僕も会ったから。僕が鈴鹿の体が眠るベッドの横で、うなだれているときに来たから。医者はご両親になんて言ったのだろう。いつかは目を覚ますとか? そんなわけないのにな。赤と青と緑のぎざぎざがモニターの上で乱れ動き、しかし、三十六時間をかけて緩やかに平坦になっていくことを、僕は知っている。


 心臓の鼓動。温かな血潮の脈動。体を流れる電気信号の群れ。物質が生み出す生理的な現象のすべては、まだ生きているように見えるかもしれない。

 でも、もうそこには鈴鹿はいない。いないんだよ。

 いってしまった。両手の中で、鈴鹿の紫煙が散っていくところを、僕は見た。


「混ぜ物のない、純粋な紫のスマート・ポーションを、二百五十ミリリットル飲み乾せば、確実に散魂するのだろう。だから、分売の単位がミニペットボトルだった」


 やけに冷静に、黒澤さんが言った。手の中で空のボトルを転がしている。


「散魂しても。心臓の働きを機械で補い、チューブで栄養を送り込めば、肉体としては動き続けるそうだ。だが、魂がもう帰ってこないのであれば、それはつまり――」

「黙れよ」


 僕の口から、こんなにどろどろした声が出せるなんて、知らなかった。前世から今生までのすべての記憶を足しても、これほど冷たくて淀んだ声色で話したことはない。


「なんで、そんなふうにしゃべれるんだよ……ッ」


 気づけば僕は、隣に座るパーカー女の胸倉をつかみ上げていた。なにが拝金主義だ。なにがグレーゾーンだ。


「なんでッ、なんで言わなかったんだよ! 鈴鹿が『はるまげどん』にいるって!」

「……すまない。きっと無関係だろうと思ったんだ。いるだけで、ポーションはやっていないだろうと。だから、伝えなくてもいいと――」

「死んだんだぞッ、鈴鹿は!」


 口に出してから、手遅れに気づく。言ってしまった。口にした真実は、待合室のぬるりとした空気にわだかまって、どこにも行ってくれなかった。


「そうだな」


 黒澤さんは胸倉をつかむ僕の手を両手で優しく包んだ。怒鳴り返してくれればいいのに、そういうときに限って、黒澤さんは怒鳴ってくれない。


「いってしまった。失われた。どこにもいない。鈴鹿は帰ってこない。そうだ、狸穴蓮」


 この祈祷師はどこまでも優しくて、どこまでも残酷だ。ずっとそうだ。真実から決して目をそらさない。自分の真実にも――、他人の真実にも。

 わかってる。黒澤さんは鈴鹿のことを黙っていたわけじゃない。警告してくれたじゃないか。手を引け、と。ワンさんにリストを送ったのは僕だ。衛藤ですら気づいたことだ。

 僕が間抜けだっただけ。その怒りを、黒澤さんにぶつけているだけだ。なんてクソ野郎なのだろう。


「わかるよ、狸穴蓮。貴様がなによりも許せないのは、自分自身なのだろう?」

「……僕、自身?」

「平穏、普通に生きてきたはずなのに、親しい友の死に対して涙が出ない。そんな自分が許せない。そうだろう?」


 のどが干上がった。淡々と告げられた言葉に吐き気がする。だって、その通りだから。

 こんなにも悲しいのに。悲しいはずなのに。僕の中には驚くほど冷静な部分があって、その冷たいパーツが心にのしかかって涙を堰き止めている。

 なんて非道。なんて不純。なんという、欠陥。


「大丈夫だ」


 祈祷師は呟いた。


「普通かどうかは関係がない。貴様の中でまだ、鈴鹿が死んでいないだけだ」


 どういう意味だよ、それ。意味わかんねえよ。


「認識するのと、受け入れるのは、同じようでまるで違う。なあ、狸穴蓮。世の普通の人々というのはな、案外、普通のふりをしているだけなのだよ。こういうとき、泣くのが普通、崩れ落ちるのが普通……そういった普通を押し付けられて、漫然と『普通』を演じている」


 黒澤さんの両手のぬくもりが、痛かった。


「時折、そういう普通を演じられないやつがいる。涙も慟哭も、どこかに置き忘れて来たやつが。泣きたいのに泣けなくて、叫びたいのに叫べなくて、そんな自分が許せないやつだ」

「わかったようなこと、言うなよ」

「わかるさ。だって、私もそうなのだから」


 はっとして、黒澤さんの顔を見上げる。猛禽の瞳に、冬の湖みたいな寂しさが浮かんでいる。黒澤さんも、そうなのか。自分を許せないくせに、僕を慰めているのか。

 そっか。そうだよな。黒澤さんだって、鈴鹿の悪行に気づける場所にいた。


「おまえ、馬鹿かよ」


 僕の口から出た返答は、ただの罵声で、まぎれもない本心だった。

 だって、それはきっと、馬鹿の生き方だ。僕も、黒澤さんも、どうしようもない大馬鹿者だ。


「否定できんな。だが、だからこそ大丈夫だ、狸穴蓮。私の前では、普通のふりをしなくてもいい。貴様は貴様らしく悲しめ。私もそうする」


 僕の手が、黒澤さんのパーカーの胸元から落ちた。ただ、どうしようもない絶望だけが、待合室に満ちていた。


「……白かったよ」


 なにが、とは言わない。


「きれいで、汚れのない、白い光だった。たばこで肺は汚れてたし、ポーションで脳も汚れてたはずなのに。しょうもない、俗なことばっかりしてるやつだったのに。今まで見たどんな光より、無垢だった」

「……そうか」


 やっぱり、涙は出ない。僕も、黒澤さんも。


「その色を、忘れないでいてくれ、狸穴蓮」


 黒澤さんは静かにそう呟いて、パーカーのファスナーを首元まで引っ張り上げた。


「いちおう、報告しておく。F対が緊急クエストを打ち切った。友にスマート・ポーションの関係者がいた以上、さすがにもう捜査は任せられんと」


 グレーゾーンのデメリット。トカゲのしっぽが、どうやら切られたらしい。


「ワンも、マトリから横やりを入れられたらしい。いらんことをするな、興信所に捜査令状を出されたくなかったら手を引け、とな。それでも、マサル氏のここ一年の動向は、調べ上げてくれたよ」


 黒澤さんが、淡々と言う。


「一年前に仕事を辞め、銀行口座を解約していた。おそらく、初期投資と運営資金を黒幕に提供したのだろう。ほかにもシンパが何人かいて、定期的に梅田や難波のひと気のない場所に集まり、ああやってスマート・ポーションを売人どもに配っていたのだろうな」


 僕は、うつむいたまま、乾いた唇を開いた。


「もうどうでもいいよ。マトリも公安警察も、さっさとあの黒いのにボコボコにされて、真田さんに泣きつけばいい。そしたら、真田さんがぜんぶぶった斬って終わりでしょ」


 投げやりな僕の言葉に、黒澤さんは少しの間、沈黙した。


「……その黒いのは、どうして鈴鹿の家を訪れたのだろうな」


 その次に呟いたのは、疑問だった。知るかよ。もうどうでもいいって言っただろ。


「それも、貴様が鈴鹿の家に行ったタイミングで、だ。だれがボストンバッグを持ち去ったか特定できていたならば、もっと早いタイミングで回収しに行ったはずだ。なぜだ? なぜ、貴様と鉢合わせた?」

「知らないよ。僕はもう、関係ない。クエストもなくなったんだろ」


 黒澤さんは首を振って、ソファにへばりつく泥みたいになった僕に、言葉を続けた。


「……衛藤は、今日は来ないそうだ。いつものテーブルにいた。病院に行くのは私達に任せる、自分は状況が落ち着いたら行く、と言っていた」


 衛藤らしい答えだ。現場に居合わせた僕とか、鈴鹿の両親とか、受け入れ直後の病院の忙しさとか、いろいろなことを考えた結果だろう。


「白河は三時間目が一緒だったのだが、欠席だった。いちおう連絡は入れておいたし、既読はついたが、まだ返事はない」


 それも仕方がないだろう。友達がクスリやって倒れてこん睡状態だなんて、ショックが大きすぎて――。……、え?


「欠席、だったの?」

「少人数の文化人類学実習だから、間違いないぞ。衛藤も見ていないと言っていたから、そもそも登校していないのだろう。体調不良かもしれんな」


 つまり――、いつもの食堂の隅っこのテーブルにも、講義室にもいなかった?

 なんだか、裏面だけを見ながら組み上げたジグソーパズルを引っくり返したら、表側に自分への死刑宣告書がプリントされていたような、妙な気分だ。


「そっか。そうなんだ」


 僕の唇から、空虚な言葉が滑り落ちる。あまりにも軽い言葉だったからか、あるいは僕の青ざめた顔色が見るに堪えなかったのかはわからないけれど、黒澤さんが眉根を寄せた。


「おい、狸穴――、どうした? 様子が変だぞ」

「悪い、黒澤さん。ちょっと、ひとりにさせてほしい。僕が変なのは元からだろ」


 言い捨てて、ソファから立ち上がり、ゆっくり歩いて待合室を出る。わかりきった話だ。鈴鹿は死んだ。それだけの話。スマート・ポーションに手を出して、売人やろうとして、でも僕らに邪魔されて、逃げて、ポーションの回収と口止めのために、黒幕に殺された。吐き気がするくらいシンプルな構造。


 病院の裏口から出て、ヒトの流れに身を任せる。どこをどう曲がったのかもさだかじゃないけれど、いつの間にか地下鉄の駅のホームで座り込んでいた。

 わかりきった話だ。ほんとうに、そう。


 つまり、これは僕のせいなのだ。


 世界のあらゆる物事は、いつの間にか始まっていて、いつの間にか終わっている。そんな風に思っていた。だれかがデザインした結果なのだと。そんなわけがないのに。すべてを仕組んだインテリジェントな存在なんて、どこにもいない。いてくれない。知恵なきだれかが始めたことは、知恵なきだれかが終わらせなければならない。それを始めたのがだれかは知らない。ライダースーツの黒幕なのか、ほかのだれかなのか。


 でも、終わらせられる人間がいるとしたら、僕だ。僕だったはずなのだ。終わらせられなかったから、鈴鹿はいってしまった。大阪の淀んだ空気の中に、きれいな白い光になって。


 地下鉄の車両が暗い穴から滑り出して来て、ひとの塊を吐き出して、吸いこんで、また地下の穴倉へと滑り込んでいく。僕の知らないところで走って……、だけど、どこを通って、どこに止まって、どこへ行くのかは知っている。一日の最後に終点に辿り着き、鋼の体を休めるために操車場に入ることも。


 僕も、そうすべきなのだろう。どこへ行くべきかは、もうわかっている。

 泥の詰まった袋みたいに重たい体を持ち上げて、黄色い点字タイルの前に立った。スマホを取り出して、ピンク色のアプリをタップする。遅れてしまったけれど、終わらせに行こう。

 他のだれでもなく、この僕が。



※※※あとがき※※※

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