《前期日程五日目・深夜一時・大阪ふ頭コンテナ置き場》(5/8)


 ルーペをかけなくたって、わかる。よく見れば、部屋の片隅には、見覚えのあるボストンバッグも転がっていて。


「鈴鹿っ、おまえそれがなにかわかって――!」

「出てって!」


 そう叫んだ鈴鹿は、床の上にあるものを手当たり次第に僕めがけて投げつけて来た。空になったストロング缶とか、ファンシーでかわいい筆箱とか、当たっても大して痛くはないものばかりだ。なのに、なぜだろう。とても痛い。


 僕は両手で顔をガードしながら、わかったよ、とかすれた声で呟いて、部屋の外に出た。しばらく、金属のドアにいろいろなものがぶつかる音がしていたけれど、それが止むと今度は女の子がすすり泣く声が聞こえてくる。


「……鈴鹿?」


 ドア越しに声をかけると、うん、と小さく返ってくる。


「せっかく、せっかく忘れられてたのに、どうしよって思ってたの、忘れられてたのに、ぜぜ、ぜんぶ思い出してもうた。狸穴くんの顔見たら、ああどうしよ、どうしよ、って――、ひ、うう……」


 尋常じゃない様子に、思い至る。バッドトリップというやつか。危険薬物は脳の神経を刺激して、さまざまな感情にバイアスをかける。楽しいことをより楽しく感じられるようにしてくれる。けれど、全能感にも似た安心のあとにやってくるのは、楽しさのない時間だ。地獄の喪失感が脳を支配する。つらいことを、よりつらく感じてしまう、最悪の時間が。

 僕の顔を見て、鈴鹿は一気に現実に引き戻され、バッドトリップに入ったのか。


「鈴鹿――」


 部屋に入って介抱すべきだ。けれど、僕が部屋に入ったら、もっと悪くなるんじゃないかと思ってしまった。声をかけるのもためらわれた。結局、ただ名前を呼んだだけで、僕は背中をドアにくっつけてずるずる崩れ落ち、マンションの廊下に座り込むことしかできなかった。


 すすり泣く鈴鹿の嗚咽を背中に聞いて、昼過ぎの空を見上げる。

 なにをやっているんだろうな、僕は。平穏な生活って、こういうものだったっけ。

 黒澤さんには連絡していない。鈴鹿がスマート・ポーションの売人のひとりだと確定したのに、僕はチャットの送信ボタンを押せていない。きっとこれは、友達に対する態度じゃないだろう。友達だからこそ、いますぐ連絡するべきだろう。でも押せない。押せるわけがない。


 両手で顔を覆って、僕は後頭部をドアにくっつけた。なにもできない。立ち去ることさえ。ただ、次に扉を開けたとき、鈴鹿がいつも通りの馬鹿な奴に戻っていればいいのに、と願うだけ。結局、僕はどうしようもなく、怖がりな小心者なのだ。うそつきで怠惰な愚か者。


「……狸穴、くん」


 小さく名前を呼ばれたのは、十分以上経ってからだったと思う。


「あたし、さ。見てん。昨日――、黒澤さんのこと。マスクでちゃんと顔は見えへんかったけど、あの、けったいな色のパーカー。目立つもんな」


 すすり泣きは、ほんの小さな嗚咽と鼻声に変わっていた。やっぱりか。やっぱり、あそこにいたのか。十一月には安売りのワゴンで販売されていそうな、雑な造りのゴム製の被り物の向こうから、僕らを見ていたのか。


「かぶりもんしてたから、あたしやってわからんと思った。けど、あれ、言うてた興信所の仕事やろ。狸穴くんも、おってんやろ? あそこに。あたし、こわくて。衛藤くんに学校来てるか聞いて、でも、でも……」


 鼻をすする音。かりかりと床を爪で引っかくような音。僕の耳に届くいろいろな音たちが、ドア越しの鈴鹿の姿を想像させる。座り込み、泣きながら、ドアに向かって話しかけている、馬鹿な友達の姿を。


「……みんなには言うてないイベサーで、未成年飲酒とか喫煙とか、その、ばりばりのやつで、だから言えんくて。いまさら、やのにな。そしたら、なんや今日は特別なイベントやって言われて呼ばれて、そしたら、そしたらな。クスリが、あ、あってん」


 うわごとのようなつぶやきが、耳に流れ込んでくる。聞きたくなかった。聞いてしまったら、手遅れになるよな気がして。でも、聞かなきゃいけなかった。だって、もうとっくに手遅れなんだから。


「あの子がいうなら大丈夫やろって、思って。あかんかったらやめたらええ、危なかったら手ぇ引いたらええって。たばこも酒もやめられへんのに、そんなんうまく行くわけないのにな」


 ……あの子? ふと、疑問がよぎる。あの子って、だれだ? 鈴鹿が安心するような相手が、鈴鹿にポーションを勧めた? 同じ大学のだれかか? 高校時代の友達か?


「ずるずる買ううちに、貯金もつき始めて。おかんの仕送りでなにやってんのやろか。あたし、あかんわ」


 そんなことねえよ、とは言えなかった。鈴鹿の行いは、だれにも褒められない。だれも褒めてはいけない。間違っている。けれど、あまりにも痛々しくて、僕の心臓まで痛くなってくる。安アパートの廊下の染みを見つめながら、思う。黒ずんだ染みは、いったいなにが原因でどうついた汚れかはわからないけれど、どうあれ汚れであることだけはたしかだった。だれかが掃除するまでは、消えない汚れ。

 灰色ではなく。ただ、真っ黒な汚れ。


「いつも買わしてもらってる兄ちゃんが、金のようけ入る仕事あるいうから、金とかぶりもん渡されて現場行ったん。昨日の夜。金と交換で今度はクスリ渡されて、それ友達に飲ませろ、一回飲ませたら、あとは簡単や、て言われて。そんで……」


 そこから先は、知っている。僕らが来たのだ。ポーションをばらまく売人どもの集会を押さえるために。


「……あたし、こわなって。あのパーカー見て、あかんて思って。遅すぎるわな。最初からあかんかってん。あたしは、ずっと間違ってた。走って逃げて、部屋戻ってきて。気づいたらカバンだけ転がっとった」


 動転していたのだろう。ミニペットボトルが詰まったボストンバッグを拾って、鈴鹿は一目散に逃げた。けれど、パーカーの色で黒澤さんだと気づいていたから。友達だから、学校に行くことも怖くて、部屋に閉じこもっていた。その事実が、どうしようもなく……、痛い。


「あのあと、どうなったんやろ、って。こわくて、こわくて。眠れんくて。ずっと部屋の端っこで座っとった。気ィ紛らわせよ思うてたばこ探して、火ィないから諦めた。でも、飲みもんはあったから」


 卑屈っぽい笑い声が、部屋の中からあがった。


「あかんなぁ。金ないから、クスリ買われへんから売人のバイトしにいったのに、買ってない商品、勝手に飲んだらあかんわな。泥棒や。ほんま、あかんわ、あたし」


 違うよ、と思った。買ってないから飲んじゃダメなんじゃない。そもそも、飲んじゃいけないポーションなんだよ。ずれている。おかしくなっている。言わなければならない。友達ならば、鈴鹿にそれは違うと言わなければ。

 けれど、やっぱり言葉は出てこなくて。自分の弱さに、吐き気がした。


「……狸穴くん、ごめんな。ごめん……あたし、ほんまに、ああ――」


 鈴鹿の声に、また嗚咽が混じる。すすり泣きも。バッドトリップにも波があるのだろうか。床をかりかりと引っかく音。苦しそうなうめき声。いいよ。何時間でも待つよ。なにもできないならせめて、何時間でも――。

 そう思った直後だった。


「えっ?」


 鈴鹿がふいに、困惑の声を上げた。


「なんで――、ここにおるん?」


 最初、僕に言われたのかと思った。バッドトリップで意識が混濁しているのかと。言葉遣いも怪しいところがあったから。だから反応が遅れた。


「いやっ、やめ――ッ」


 悲鳴にも似た細い拒否の声と、暴れるような物音をドア越しに聞いて、ようやく僕は気づいた。鈴鹿以外のだれかが、部屋の中にいる。


 慌てて立ち上がり、扉を引っ張り開ける。部屋の中、入り口の反対側に人影があった。ベランダの大きなガラスの前。太陽光に照らされた真っ黒なシルエット。フルフェイスのヘルメットとライダースーツ。開け放された窓ガラスに手をかけて、もう片方にはボストンバッグを持ち、三階の窓から飛び降りようとしている。床の上には、鈴鹿が横たわって――。


「鈴鹿ッ!」


 ――つまずきながら駆け寄ると、鈴鹿は小刻みに震えていた。生きている。外傷もない。だけど、体からはすでに光が散り始めていた。霞みたいに。昨日見たのと、同じように。おい、待て、やめろ。止まれ、止まれよ。


 顔を上げると、ライダースーツはもう飛び降りたあとだった。鈴鹿の上半身を抱え上げるようにして起こすと、涙でぐしゃぐしゃになった顔で僕を見た。きっと、僕の顔も同じくらいぐしゃぐしゃになっているだろう。


「……ごめんな、狸穴くん。ほんまに、ごめん――」


 消えそうなくらい小さな謝罪の言葉。それが。

 それが、鈴鹿の最期の言葉だった。



※※※あとがき※※※

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