《前期日程四日目・午前九時・講義室2-B》(2/4)
僕の部屋は大学からのんびり歩いて十五分。黒澤さんの早歩きなら、十分もかからない。
築十五年、二階建てのひとり暮らし用賃貸アパート。風呂トイレ別、キッチン併設のリビングのみ。シンプルな部屋だ。
「意外ときれいだな。学生の一人暮らしには見えん」
黒澤さんは、ほんとうに意外そうにつぶやいた。
「掃除は嫌いじゃないから。黒澤さんはギルドの寮に住んでいるんだっけ」
「そうだ。私の身元はF対の預かりでな、ほかのところには住めない」
女子大生が、どうして秘密組織を身元保証人扱いしているのかは、わからない。
彼女には彼女の事情があるのだろうから、聞かないけれど。
「あそこが一番安いし、特に不満もないがな。貴様、家賃はどうしているのだ。このあたりならワンルームでも月八万円くらいはするだろう」
「いや、実は学業補助制度があって、トータルでだいたい四万……、いや、そんな話はどうでもよくて」
「金の話だぞ。どうでもいいわけなかろう!」
制度について根掘り葉掘り聞いてくるパーカー女をてきとうにいなしつつ、マグを二つ用意して、スティックタイプのインスタントコーヒーを淹れる。加糖タイプの甘ったるい味に、黒澤さんの瞳が少しだけ緩んだ。床に座って、互いに熱いコーヒーを飲んで、ようやく僕は本題に踏み込めた。
「……例のサークルの名簿、手に入れたんだよね」
「ああ」
ぶっきらぼうに、黒澤さんが相槌を打つ。猛禽みたいな瞳が、正面から僕をぶっ刺す。
「名簿をワンに渡さなければならん。調査の結果次第では……いや、確実に荒事になる」
冷徹なほどに淡々と、黒澤さんは言葉を紡いだ。
「ポーションが大阪の街を汚染していて、転生者がその大元なのは間違いない。我々はギルドの緊急クエストを受諾していて、ワンの興信所からは死人まで出ている。ここからは、死と隣り合わせの案件だと判明した。いいか、危険すぎるのだ。だから、貴様は――」
黒澤さんは言葉を切って、コーヒーを口に含んだ。甘ったるい黒の液体が、パステルカラーの襟に隠された喉に流し込まれていく。一息ついて、言う。
「――貴様は、ここでやめるべきだ」
「やめる……べき? ここまでやらせておいて?」
「緊急クエストの受注をキャンセルし、捜査内容をすべて忘れ、貴様の日常に戻ればよい。この部屋を見る限り、金に困っているわけでもないだろう?」
私と違って。言外に、そういうニュアンスがあった。黒澤さんを直視しづらくて、目をそらしてしまう。
「……忘れるったって、忘れられないでしょ、そう簡単に」
「そうだな。簡単ではない。だが、不可能でもない」
黒澤さんが、スマホを取り出した。格安SIMの、三世代くらい古いよわよわスマホではない。ぴかぴかの最新型だ。
「朝から契約してきた。学割プランだから、大して高くはなかったよ」
名簿の確保だけじゃなくて、スマホの契約までしてきたのか。それで遅刻したらしい。
「連絡も、これで滞りなく行える。貴様のスマホも必要なくなった。昨日手に入れた連絡先と、メモした情報をすべて私に渡せば、それで事足りる。【鑑定】も、ワンがいれば出番はない」
つまり、今後の捜査は、すべて黒澤さんがひとりでやる、と言っているらしい。いや、昨日だって、黒澤さんひとりでやっていたようなものだ。僕は後ろをついていって、連絡先を交換して、電話して……、それだけだ。ようは、黒澤さんがちゃんとしたスマホさえ持っていれば事足りる程度のこと。
顔を上げると、黒澤さんはやっぱりまっすぐに僕を見据えている。水平線みたいに誠実な光が、猛禽の瞳の中に灯っていた。
「このクエストを降りろ、狸穴蓮」
なんだよ、それ。自分でも意外なことに、僕は黒澤さんにいらつきを感じていた。
「いきなり、なんでそんなこというんだよ」
「危険だからだ。軽い気持ちでそそのかした私が間違っていた」
間違っていた? 僕を誘ったことが?
「あのさ、言っておくけど、僕が選んだんだからな」
いらつきがそのまま、口を突いて出た。選択の自由だ。白河さんもさっき言っていた。
「選択肢を突き付けてきたのは、たしかに黒澤さんだよ。白河さんを守れるとか、てきとうなこと言ったのは。だけど、選んだのは僕だ。スマホを代わりに操作する程度の役割だとしても、なにかしたいと思って手を挙げたのは僕自身だ。僕が自分で真田さんに電話したんだ」
黒澤さんは猛禽みたいな瞳を少しだけ見開いた。僕がこんなことをいうのは意外か? 僕も意外に思っているよ。平穏よりも、危険を取るだなんて。
「でもさ、危険だとわかったのなら、なおさらやめられるわけないでしょ。友達を見捨てて気まずいまま送る学生生活なんて、僕が目指す平穏じゃない」
言い終わると、途端に気恥ずかしくなって、誤魔化すように手元のマグに口をつける。温かくて甘くて、ほんの少しだけほろ苦い。
「……貴様は損を見るタイプだな。しかし――、友達? やはり、『はるまげどん』の関係者に心当たりがあるのか?」
「なに言ってんだよ。黒澤さんだって友達だろ。僕になにができるわけでもないけど、やくざやらポーションやらのキナ臭い界隈に首突っ込んでいくのを、黙って見ていられないよ」
言うと、今度こそ黒澤さんはあっけにとられた表情を隠せなかった。口も目も丸くして、ふくろうみたいに愛嬌のある顔になる。この顔は二回目だな。
三秒ほど固まったあと、黒澤さんは顔面をいつもの切れ味鋭い表情に研ぎ直した。
「……そうか、私か。そうか、そうか。うむ。貴様はアレだな、狸穴蓮」
「な、なんだよ」
「悪い男だな」
「なんでっ?」
なぜいきなり罵倒されたのかはわからないけれど、くつくつと笑う黒澤さんに悪い気はしなかった。
黒澤さんと連れ立って大学に戻ると、一時間目は終わっていた。まずい。二時間目からしっかり出席しようと決意して正門をくぐると、「あーっ!」という叫び声に呼び止められた。
「黒澤さんに狸穴くん! 二人して校外お出かけおさぼりデートっ? そんなんあかんわ! いやらしすぎる!」
言うまでもなく、鈴鹿である。隣には眉を寄せて困り顔の白河さんもいる。
「しかもちょうど一時間くらいっ! ご休憩やんそんなんっ!」
「ちょ、ちょっと、すずちゃん。大声でいうことじゃないよ……!」
心の内で白河さんに同意しておく。衆目を集めるのはよろしくない。
「もっと小声でいわないとっ」
それには同意できない。慌てて二人に走り寄って釈明する。
「いや、違うんだって。そういう関係ではなくてっ、そのう、バイトでね? 偶然、ほんとうに偶然なんだけど、同じ派遣のバイトにあたって、そのことでちょっと相談があって……」
「ぜったいうそやで、狸穴くんはこう見えてタラシやもん。最初はバイトで偶然やとしても、黒澤さんもそのうちに――、黒澤さん? あれ? どこ行ったん?」
鈴鹿がきょろきょろして黒澤さんの姿を探す。僕も振り返って探すけれど、パステルカラーは視界のどこにもない。嘘だろ。逃げやがった、あの女。
「まあ、もうすぐ二時間目だし。僕もそろそろ……」
「あかん! どういうことなんか、根掘り葉掘り聞かせてもらうで! 黒澤さんが焼肉を捨ててまで狸穴くんにアタックするなんて!」
あー。そういやコイツ、僕で賭けてたんだっけ。白河さんに告白できるかどうか、で。なんだか急にまともに対応するのが馬鹿馬鹿しく思えて来た。
「じゃ、行くから……」
わめく鈴鹿を放置して次の講義室に向かおうとしたら、袖をくいっと引かれた。
「なんだよ、まだなにかあるのかよ、鈴鹿――、って、白河さん? どうしたの?」
袖を引いたのは、鈴鹿ではなく白河さんだった。彼女はやっぱり困り顔で、少し恥ずかしそうに(とてもかわいい)言った。
「あのね、まみくん。わ、私も……、まみくんがくろちゃんとどういう関係なのか、とっても興味があって……、へ、へんな意味じゃなくってねっ? ただ、その、気になって……」
鈴鹿は絶句して口に手を当て「まさかの展開ッ!」とおののいている。普段ならば、やかましいと一言つっこんだだろうけれど、僕の脳はキャパオーバーでなにも言えなかった。
結局、僕に出来たのは、二時間目開始のチャイムを聞き流しながら黙ってコクコクうなずくことだけだった。だって白河さんかわいいんだもん、仕方ないだろ。
そういうわけで、食堂の隅っこの四人掛けのテーブルには、僕と鈴鹿と白河さん、そして当たり前な顔して携帯ゲーム機で遊ぶ衛藤が集まった。住民や家具を集めて無人島を発展させるゲームをやっている。
「えとくん、講義は? この時間、一般教養じゃなかったっけ?」
「自分も真面目に受けるつもりだったのですが、イベント限定の家具はこの三日間しか手に入らないのです。所持上限数の九百九十九個まで集めておこうかと思いまして。単位はいつでも取れますが、限定アイテムは復刻しない可能性がありますからな!」
衛藤が一般教養の講義をきちんと受けたほうがいいことだけはよくわかった。
「あたしもその家具欲しい! ちょうだい!」
「もちろんいいですが、お三方はなにか話すことがあって来たのでは?」
「せやった! もっと大事な用事あったわ!」
鈴鹿に見つめられると、思わず背筋が伸びる。ぼろが出たらどうしよう。
「どうしたの、まみくん。そんなに緊張して。別に食べたりしないよ?」
いえ、白河さんになら食べられたいですが。いや、この返しは最低だな。言わないでおこう。かさつく喉をこじ開けて、なんとか気の利いた言葉を返そうと模索していると、鈴鹿がけらけら笑いながら横やりを突き出してきた。
「白河さんなら食べてもええんちゃう? 狸穴くん初物やろうし、いまのうちやで」
「おまえ最低だな!」
「あ、でももう初物ちゃうか。黒澤さんが食べちゃったかもしれん」
「おまえ輪をかけて最低だな! いや、だから僕と黒澤さんはそういう関係じゃなくて――」
手をばたつかせて否定の意を示していると、衛藤が携帯ゲーム機を手から取り落とした。
「えッ! ずるいですぞ狸穴氏、自分を置いてリアル青春でご卒業とはッ!」
「だから、違うって!」
「ちょっともう、すずちゃんもえとくんも、話がぜんぜん進まないよっ。下ネタも禁止っ」
白河さんが頬を少し赤らめてぷんすかした。かわいい。
「そ、そうだよ、ちゃんと本筋の話をしないと」
「ほら、まみくんも、くろちゃんとの関係を素直に教えてくれる気になったみたいだし」
しまった、墓穴を掘った。鈴鹿だけならてきとうにいなせた可能性が高いけれど、白河さんまで積極的に問い詰めて来るとは思っていなかったのだ。悲しいけどね。そして、僕は白河さんにとても弱い。ふわふわした雰囲気で迫られると、拒否できなくなってしまう。
「どういう関係なの? 付き合っては、いないんだよね?」
「付き合ってない! ないです!」
「じゃあ、どういう関係?」
意外と突っ込んでくる。白河さんらしからぬ積極性だ。
「え、ええと……その」
「ひみつなの? わざわざふたりで抜け出したのも、ひみつ?」
上目遣いは卑怯だと思う。背中から変な汗が噴き出る。ううん、なんと説明すべきか。うまいうそを吐かなければ。
「だからその、バイトの派遣先が一緒で……。そう! 興信所! 興信所の手伝いだから、内容はぜったいに漏らしちゃダメなんだ!」
「へえ、興信所ってことは探偵だよね。すごいねぇ」
衛藤が「はあ、それで」とうなずいた。
「今朝、黒澤氏に頼まれたのですよ。評判の悪いイベサーのメンバーリストが欲しい、と。自分なら顔も広いから、手に入るだろうと言われまして」
あれの入手元、お前かよ。ていうか、よく入手できたな、名簿なんて個人情報の塊。
「自分、ああいうイベサーとは縁がないですが、筋トレ仲間の先輩たちには一目置かれておりますから。ちょちょいと頼みまして」
「だからって渡すか、普通……」
「中学生の妹が名前と年齢を偽って参加しているかもしれない、と言ったら青い顔で渡してくれましたよ。さっさと見つけて退会させてくれ、だそうで」
なんというか、イベサーの運営も大変なんだな、と思った。
「なるほどー、探偵さんのお仕事なら、ひみつにしないとだね。ふぅん」
まだ微妙に納得してなさそうな白河さんを横に置いて、鈴鹿はぎらりと目を光らせた。
「探偵っ! ええやんええやんっ、かっこええやんっ! あたしも探偵やりたい! イケメンに振り回されたりするんやろっ?」
「いや、昨今の探偵ものはイケメンよりヒロインが探偵を兼ねる場合が多いですな。男性主人公はくたびれたおじさんや、屁理屈ばかりの大学生などです」
変な盛り上がり方をするんじゃない。
「あのね。そんないいものじゃないからね。僕らを振り回すの、元やくざの怪しい若社長とか、社会の闇に呑まれたOLっぽいお姉さんとか、そういう感じだからね」
落ち着かせるためにそう言うと、アホ二人は「それはそれで探偵っぽい」と盛り上がり始めた。こいつら、さてはなんでもいいな?
「……うーん。ねえ、まみくん。ほんとうに、くろちゃんと付き合ってないんだよね?」
白河さんが机の上に少し身を乗り出して、念押しで聞いてきた。
「もちろん! 黒澤さんとはなんでもないんだよ、ほんとうに」
ふむん、と白河さんは息を吐いた。
「そっか、なんでもないんだね。そっちじゃないんだね」
と、ぽつりと零す。どこかアンニュイな表情である。え、なにこの顔。どういう感情? そのままなにか考え込み始めたので、会話は途切れてしまった。
「……波乱の予感ですな。鈴鹿氏、賭けますか?」
「どっちとくっつくのに賭ける? 学食のメニューで」
「二兎追うものは一兎も得ずと言いますからな。味噌ラーメン全トッピングの大盛りで」
「じゃああたしも両方逃すに味噌ラーメン全トッピングの大盛りで!」
それじゃ賭けにならないし、別に二兎追ってないです。
ちなみに味噌ラーメン全トッピングの大盛りは学食最高額メニューである。千二百円也。
※※※あとがき※※※
カクヨムコン参加中です。
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