《前期日程四日目・午前九時・講義室2-B》(1/4)
『パパ』の調査に進展があれば、ワンさんから連絡が来る手はずになった。僕のスマホに。
電話帳に追加された新しい番号を見ると、ため息が出る。あのあと解散して家に帰ったら深夜二時を回っていた。シャワーも浴びず、体を引きずってベッドにもぐりこんだ。疲れていたからすぐに眠れると思っていたのに、一睡もできなかった。
若林先輩。椿さん。それからワンさん。出会ったひとたちの顔や、言動。立場や仕事。血が飛び散る駐車場の動画。濃密すぎる本物のやくざの殺意。いろんなものが順番に脳をよぎって、まったく眠れなかった。
そのくせ、こうやって大学までえっちらおっちら歩いて来て、椅子に座った瞬間に眠気がこみ上げてくるのだから、人間というものは不便なものである。
「眠そうやなぁ、狸穴くん。おはよ」
鈴鹿が僕のとなりの席にカバンを投げ捨てるみたいに置いて、中から黄色いたばこの箱とジッポを取り出した。ジッポには十年くらい前に流行ったアニメキャラのレリーフが入っている。
「おはよ。あと五分で講義始まるのに喫煙室行く気?」
「一緒に行く? わけたげるけど」
「たばこは結構です。未成年なので」
「あたしもやで?」
「堂々と言うなよ!」
未成年の喫煙は違法です。
大学の喫煙室は穴場らしく、教員たちも山ほどいる学生のだれがストレート入学でだれが浪人かなんて気にしないから、わざわざ年齢確認しないそうだ。不必要な豆知識。
「ていうか、なにその黄色いやつ。また海外の謎たばこ買ったのかよ」
「んへへ、バナナあじー。一目ぼれして注文したはいいけど、めちゃマズいんよコレ。でもカートンで買っちゃったから、しばらくはコレしか吸われへんの」
「あのさ、なんでわざわざ金払ってまずいもん吸って不健康になるの?」
へらへら笑う鈴鹿に、ドラッグなんてものを好き好むやつらが実在すると知ってしまったのもあってか、僕は前々から持っていた素朴な疑問をぶつけてしまった。鈴鹿は胸を抑えて「ぐはっ」と叫び、講義室の床に崩れ落ちた。よく効いたらしい。
「ふ、ふふ……。狸穴くんたら、いきなりぶち込んでくるなぁ」
「いや、ずっと不思議だったんだよ。吸っていいことなんてないのに、なんで吸うのかなって」
「んー……わからん」
鈴鹿は困り顔で頬を掻きながら、机に手をついて「よっこらせ」と立ち上がった。
「あたしはなんか、気ィついたら吸うようになってて、やめられへんくて、かなぁ」
「じゃあ、特に吸う理由はないんだ」
「吸わんで済むなら、それが一番やん。でも吸っちゃうの。ついつい我慢できんくて買っちゃう。で、買ったらもったいなくて、ぜんぶ吸わなあかんやん」
「捨てろよ。そんで二度と買わなきゃいいじゃん」
中毒だなぁ。そこで、鈴鹿の背中からひょっこりと白河さんが顔を出した。
「ダメだよ、まみくん。他人の趣味嗜好を否定しちゃ。おはよ」
そして、いきなりダメだしされた。
「え、あ、ごめん……。おはよう」
「世の中、理由があることばっかりじゃないからね。すずちゃんがどれだけ時間とお金を無駄にして健康を損なおうとも、すずちゃんの選択の自由なんだから。将来、私達が同窓会で再会したとき、たばこの影響ですずちゃんだけ肌年齢二十歳くらい上のしわくちゃおばさんになっていても、すずちゃんの選択の結果だから尊重しなくちゃね!」
鈴鹿さんが「ぐはぁっ」と断末魔を上げて床に崩れ落ちた。とてもよく効いたらしい。
「あ、あたしもわかっとるねん、百害あって一利なしやって。でもやめられへんねんもん……」
「別にいいんじゃない? やめなくても。すずちゃんの人生だし、人間の人生なんて本質的には無意味なんだから、健康は度外視して楽しむのもまた選択の自由だよ」
白河さんはものすごいことを言いながら鈴鹿の隣の椅子に座って、筆箱を取り出した。
「それよりもっ! みんなも教育史学とってたんだね! 嬉しいなぁ、友達いると安心だよね」
「うん、めっちゃ安心。たばこ吸いに行ってても、代わりに代返してもらえるし」
鈴鹿は震える足で立ち上がると、握りしめたたばことジッポをじっと見つめた。
「そうか、たばこも代わりに吸ってもらったらええんやな。狸穴くん、はい」
鈴鹿はやおら僕にすり寄ると、僕のジャケットのポケットに黄色いパッケージとジッポを突っ込んだ。おいやめろ。
「代わりに吸っといて。ぜんぶ吸い終わったら次の買うから」
「だからさ、僕、未成年なんだって。成人しても吸わないだろうし」
「せやから狸穴くんに渡したんやんか。ほら、禁煙の手伝いやと思って、な?」
「あのなぁ……」
こんなものを渡されても困る。突き返すか迷っていると、講義開始の電子音がプープー鳴り響いた。教授が壇上に立って、マイクを持ち上げる。
『えー、本講義は教育史にまつわる様々な――』
……まあ、いいか。鈴鹿の禁煙の手伝いくらい、減るものでもないし。
講義開始から十五分ほどして、教授がちょうどインテリジェント・デザイン説の話をしているときだった。地球はすごい知性を持つ存在が『人類があたかも自然に発生したと見えるようにデザインした』という、とある弁証論者が提唱した説。唯一神を崇める教派が進化論によって聖典を否定されたとき、しかし、教義を貫くためにすがった単なる推論。
「ID説か。興味深い講義内容だが……、狸穴、いまから出られるか?」
耳元で、不意にだれかが囁いた。後ろの席のひとだ。昨日、よく聞いた声。
「……黒澤さん。初回講義から途中入室した挙句、さっさと退室しようっていうのは、さすがに避けたいんだけど。めちゃくちゃ印象悪くなりそうだし」
背後から顔を寄せたは、黒澤さんだ。いつも通りのパーカーで、いつもよりかなり眠たそう。
「昨夜の件だ」
黒澤さんがぼそりと言う。
昨日の件って、どっちだ。『パパ』か? それともイベサー?
「ねえ、昨夜の件ってどっち――」
「昨夜の件てなにっ?」
問い返す前に、鈴鹿が小声でびっくりするという、器用な驚き方をした。
「えっえっ、昨日二人でなんかしてたんっ? なにしたんっ? はっ、もしや――」
「すずちゃん、静かにしないと怒られちゃうよ」
白河さんがたしなめて、けれど彼女の瞳にもばっちり好奇心が宿っていた。
「だから静かに問い詰めないと。くろちゃんとまみくん、昨日の夜なにしてたの? お泊り会?」
男女がお泊り会したら、それはもうカップルなんだよな。白河さんには勘違いされたくない。
「いや、別にやましいことはなにも――」
「言えないようなことだ。だから言えない」
僕の言葉を遮って、黒澤さんがとんでもない発言を投下した。
「そういうわけで、これから二人で言えないようなことをしに行く。早くしろ、狸穴蓮」
きゃあ、と小さく歓声を上げる女子二人を置いて、僕は黒澤さんに引っ張られて立ち上がった。慌てて荷物をカバンに纏めてぶちこむ。
ジト目の教授に見送られながら、僕たちは講義室を出た。ずんずん歩くパステルカラーのパーカー女を小走りで追いかけながら、非難の声を上げる。
「あのさっ、なんなのいきなりっ!」
「名簿を手に入れた。狸穴蓮、貴様は手を引け」
振り向きさえせずに、黒澤さんは言った。校舎を出て、レンガが敷き詰められたキャンパスをまっすぐ進んでいく。
「め、名簿? なんの?」
「さっき、『はるまげどん』の名簿を回収した。ワンに渡す前に流し見していたら――」
大学の正門をくぐったところで、黒澤さんの足がようやく止まる。
「――この大学の生徒も、いた」
ええと、どういうことだ。スマート・ポーションの売人グループに繋がりそうなイベントサークルに、この大学の生徒がいたって?
「そりゃ……、そうでしょ。捕まった先輩もいるくらいだし、いても不思議じゃないよ」
「貴様の友達も、参加しているかもしれんぞ」
「え? と、友達?」
黒澤さんは嘆息して、ようやく僕のほうを向いた。
「いちおう、聞いておく。だれかからなにか、言われていないか? 『はるまげどん』に勧誘されたり、ポーションの話をしたり」
首を横に振ると、黒澤さんは例の猛禽みたいな瞳でじっと僕を見た。
「……うそはついていないようだな。だが、貴様はやはり、ここで降りろ」
「は? いや、ちょ、ちょっと待ってよ! さっきからいきなりなんなのさッ?」
思わず大声が出た。講義中とはいえ、キャンパス内を歩く人もちらほらいて、彼らが僕らに怪訝そうな――、あるいはとても興味深そうな野次馬の目を向けてくる。
「あ、ごめ……」
「構わない。狸穴蓮、貴様の家は近かったな」
「え? あ、うん」
黒澤さんは「案内しろ」と短く告げた。
「この大学のだれが白でだれが黒か、判断しようがない。ワンに頼っている案件だ、ギルドで話すのもまずいし、人目に触れる場所もだめだ」
「だから、僕の家?」
黒澤さんがうなずく。僕は混乱していて、ひとまず言われるがままに案内することにした。
よくよく考えれば、僕の人生(十五歳で終わった異世界の記憶も含めて、ふたつぶんの人生)で、はじめて女子が家に来るイベントだった。白河さんはもちろん、鈴鹿だって来たことないのに。心臓にあるのはたちの悪い緊張感で、甘酸っぱさは皆無だけれど。
一緒に捜査している、目つきの悪い万年パステルカラーの祈祷師と話し合うために、ひとり暮らしの部屋を提供する。どんな青春の一ページだよ。
※※※あとがき※※※
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