第2話 lone digger
朝の光が差し込む部屋にテーブルを挟んで座る二人の人影がいた。
「数値と睨めっこする研究所、なかなか動かない戦況、歳を取らないこの体にはもう飽きちゃった」
艶やかな声の片方は瓶に入った液体を静かに試験官へ注ぐ。
「だから今日からは今まで我慢していたことをするって決めたのよ。自分のやりたい事をしなさいってママもよく言ってたもの」
彼女はそう言うと先ほどの試験管に舌を当てた。
しばらくして出た彼女の唾液がガラスの壁面をゆっくりと伝って底の物と混ざり合った。
「これを使ったらきっと素敵な毎日を送れるはずよ」
恍惚とした表情でそれを見つめる彼女は試験管をくるくると回す。
最初透明だった液体は淡い光を発しながらピンク色へと変わり、部屋中に甘い香りが満ちていった。
「ほら見て。綺麗でしょ?」
「……」
向かいにいる人影はその問いに答えることはせず、俯き力無く椅子に腰掛けていた。
だんだんと強くなる陽の光が部屋の全貌を照らしだす。
そこには黒のワンピースを着る女性と切り刻まれ血に濡れる男がいた。
「そろそろいいかしら」
彼女は回す手を止めると、テーブルの上にある装飾の施された小瓶に中身を移しその蓋をきっちりと閉める。
発熱反応により少し熱を持ったそれはこの工程を経て完成するのであった。
「本当はもう少しだけあなたとお話ししたいのだけれど、もう私行かなくちゃなの」
名残惜しそうにする彼女は調合に使った物をトランクに詰め始める。
ガラス同士のぶつかる小さな音が部屋に鳴り響いた。
「ふう……。これでおしまいね」
パチン――。
トランクの金具は閉められた。
「それじゃあ、さようなら」
赤いファーコートを羽織った彼女は優雅に部屋を後にする。
ほのかな香水のにおいを携えて――。
ジジジジジジ――。
午前十時、目覚ましの不快な音でキャロルは目覚めた。
ガシャッ!
乱暴にアラームを止める。
「あぁクソ……もう昼か……」
彼は嫌々体を起こすと大きなあくびをひとつした。昨晩から着替えていないスーツには皺がついている。
(動くか……)
彼はベットから降りると朝の支度ならぬ昼の支度を始めた。
トイレを済ませシャワーを浴び、冷蔵庫から取り出した水を飲んでからトーストを焼く。これらのことがすべて四歩以内にできるこの部屋はとてもボロくて狭かった。
(ニュースまだやってっかな……)
少し焦げたトーストを咥えたままシンクの上にあるラジオをつける。
彼はノイズ混じりの小さな音に耳を澄ました。
「――続いてのニュースです。今朝未明、アルディア地区サンセット通り付近の住宅で男性の遺体が発見されました。現場からは犯人が残したと見られる手紙が見つかっており、特務機構側はその内容を踏まえたうえで今回の犯行がリベレーションに所属する人物によるものの可能性が高いとして調査を進めています――」
「へぇ、物騒だねえ」
彼はさっきまでダラダラと食べていたトーストを大口を開け頬張ると、服を手で払いながら洗面所へむかった。
シャコシャコシャコ……。
歯磨き中、手を忙しなく動かす彼は鏡に反射した時計を見た。
全てが反転したそれは現在十一時二十七分を示してる。
(そろそろ行かねえとあいつらに怒られちまうなぁ)
彼は急いでうがいを済ませると、その足で家を飛び出した。
自身の黒い髪を綺麗な金髪に変えて――。
マイクは街を悠々自適に歩く。
世間からは外れた存在である彼も一度大衆に紛れればその異常性を失う。
暫くして駅前の広場に着くとスーツを崩して着た青年が彼に向かって手を振っていた。
「おーいマイク、こっちだこっち!」
マイクが近づくと青年は額に皺を寄せ口を開く。
「やっと来やがったなお前。いっつも遅刻しやがって、なにしてたんだよ!!」
「寝てたんだよ……」
マイクはぶっきらぼうに答える。
「まあ、そんなことだろうど思ってたよ。次からは、ちゃんと来いよ〜」
「今回は随分とあっさり引くんだな」
「こんなのでいちいち怒ってたらお前とはまともに話せないよ」
「それもそうだな」
「調子いいやつだなほんと。はい、これ今日の分のビラな」
呆れ顔の青年はそう言うと小脇に抱えていた紙束の一部をマイクに渡した。
「ここいら一帯はもう配ったからお前は別のとこ行ってこい」
「めんどくせえ」
「遅刻した罰だ」
ビラを受け取ったマイクはその枚数を数え驚愕する。
「多すぎだろこれ!夜までかかっても終わんねえぞ」
「文句を言うなよ!俺たちのバンドはまだマイナーだろうが!」
「お前は真面目すぎんだよ……」
「俺たち
青年の剣幕に気圧されたマイクは暫く考え、面倒くさそうにため息を一つつく。
「しょうがねえなぁ、やってやるよ」
その答えを聞いた青年の顔はみるみる明るくなった。
「悪いね~じゃあ今日はよろしく〜」
「調子のいい奴」
「お互い様だ」
昼の十二時過ぎの出来事であった。
「やーっと終わったぜ」
辺りがすっかり暗くなった頃、マイクはビラ配りを終えた。
(ここまで来たんだ、ただ何もせず帰んのもしゃくだ……)
そう思った彼は少しだけ街を歩くことにした。
夜風が心地よく体をなでる。
闇夜を照らす暖かな光がぽつぽつとともる街は眠ることを知らない様だった。
(そろそろ帰るか……)
彼は帰路につこうと来た道を振り返る。
すると視界の隅に一軒のバーが映った。
(いや、今日はここで飲もう……)
軽い足取りになった彼はその店の前まで着くと重い扉を開いた。
「いらっしゃい」
一人の老いたバーテンダーが彼を迎え入れる。
酒の香りが広がる狭い店内には若そうな男女が一人ずつカウンターの両端にいた。
「じゃまするぜ」
マイクは女性の座る席から1つ空いた場所に座る。
「お客さん見ない顔だね、仕事かい?」
「普段は隣町にいてな。今日はたまたまここら辺に来る用事があったんだ」
「そうだったのか。まあゆっくりしていきなさい。なにがいいかな?」
「ジントニックを頼む」
「かしこまりました。少々お待ちください」
バーテンダーが手際よく注文の品を作る中、マイクは何気なく隣に座る女性を見ていた。
(緊張してんねえ……。身なりもきれいだし、
マイクがそんなことを思っていると、間もなくして頼んでいたジントニックが目の前に置かれた。
「お待ち同様」
「ありがとよ」
彼はそれを受け取ると、エタノールとボタニカルの香りを楽しんでから一口目を飲んだ。
「うまいなこれ」
マイクはグラスを見て微笑む。
「それは良かった。ジントニックには作り手の個性が出ると言われているからね」
「んじゃ相性が良いわけだ」
「そういうことだね」
ゆったりとした時間が過ぎていく。
そうして頼んだ酒が3杯目に差し掛かった頃、マイクは再び隣の女性に視線を向けた。
彼女は少し赤い顔をしてただぼーっと前を見ている。
「おーい、おーい。そこのお前だよ、お前」
「わ、私ですか?」
彼女は上擦った声で振り向いた。
「ここは初めてか?」
「は、はい……。こういうとこでお酒を飲むのに憧れていて……」
「まあ緊張する必要はねえ。ただ酒と会話を楽しめばいいんだよ」
「ははは、そうですよね……」
「俺はマイク、よろしくな」
「私はアンナって言います。マイクさん……よ、よろしくお願いします」
「お前にはこう言う場所で上手くやってくアドバイスを教えてやんよ」
「な、なんでしょうか」
「相手に質問するだけだ。そこから無理矢理にでも話を広げりゃ良い」
アンナは震えた手で酒を一口飲むとガチガチに固まった視線をマイクに向けた。
「そ、そうなんですね……。じゃ、じゃあ質問させてもらいますね。マイクさんはふ、普段何をされているんですか……?」
「いきなり仕事の話かよ……。まあいい、俺は普段ジャズのボーカルやってんだ。
「へえー……。お、オシャレだ……」
「大したもんじゃねえよ。お前こそ何してんだ?ぱっと見
「あ、当たりです。よく分かりましたね」
アンナはあっけに取られた表情で答える。
「人を見る目には自信あんだよ」
「そうなんですか。すごいですね!私は前まで刑事やってたんですけど最近は特務機構で働いているんです」
「へぇ……じゃあ、今は忙しそうだな。今朝の事件は俺もラジオで聞いたぜ」
マイクはニヤリと不気味に笑い頬杖をつく。
「そうなんですよ〜。現場は一日中例の事件で持ちきりで……。ほんと、迷惑な話ですよね」
「ああそうだな。誰がそんなことするんだか。まあでも、特務機構なら犯人はもうとっくに分かってるんじゃないのか?」
「それは……えっと……」
急に戸惑いだした彼女を見たマイクはより一層不気味に笑う。
「なあ、事件の内容について教えてくれないか?酒の肴になるからよ」
「そ、それは言えませんよ。気密事項です!」
「硬いこと言うなって、俺は今酔ってんだ。きっと明日にはこの話題も忘れるぜ?」
「え〜」
アンナは暫く考え、ため息をついてからゆっくりと口をひらいた。
「……な、ならちょっとだけですよ……。今からいうことは酔っ払いの戯言ってことにしてくださいね……」
「ああ、俺はそんなに野暮じゃねえよ」
朗らかに話すマイクはグラスを手に持ってゆっくりと回す。
結露してできた水滴が彼の手を濡らしていた。
「実を言うと捜査自体はほとんど進んでないんですよ。普段なら監視カメラからすぐに犯人を割り出せるんですけど、今回は全くと言っていいほど姿が写っていなくて……」
「なるほどなぁ。てことは犯人は常に監視カメラの死角に入ってたってことなのか?」
「いや、そうじゃないんです」
「というと?」
「事件前日の映像から被害者が
「つまり、犯人は透明人間ってことか?ありえねえ」
マイクはわざとらしく驚いて見せたがアンナはそれに気がつくこともなく話を進める。
「だから今回の事件にはリベレーションの人間が関係している可能性が高いって結論が出たんです……。現場に残っていた手紙の信ぴょう性も高まりますし、何よりあの人達のすることは私たちの予想を簡単に超えてきますからね」
自信なく話す彼女の声は徐々に小さくなっていった。
「でもよ、犯人がお前らの言うような奴ならなんで一般人殺してんだ?普通そういう目的なら政府の要人とかをターゲットにしそうだけどよ」
「そこも引っかかるところなんですよね。これは、あまり食事中に言いたくないんですけど――」
アンナはそう言うと体を乗り出してマイクの耳元に顔を近づける。
「遺体の損壊がとても激しいんですよ。まるで犯人が殺人そのものを
「へぇ」
カラン――。
少しの静けさの後、溶け始めた氷がグラスに当たる音が静かな店内に響いた。
「……これが事件の大体のことです」
「よーく分かった。ま、暫くすればなんとかなんだろうよ」
呑気なマイクにアンナは苦言を呈する。
「今日この後襲われちゃうかもしれないのに、何か対策とかしないんですか?」
「まだ犯人がどんな奴かすらもわからないんだろ?だったら対策もしようがねえ」
「それはそうですけど……ん?」
何かに気がついたアンナは自身のカバンから携帯を取り出した。
「電話か?」
「そう見たいです……。はい、もしもし。あ、先輩!どうかしたんですか?」
アンナは体を縮め、携帯に手を添えながら小さな声で話す。
「はい……はい……。あ、そうなんですね!分かりました。ありがとうございます!それでは失礼します!」
「なんかあったのか?」
少し嬉しそうなアンナにマイクは問いかけた。
「職場の先輩がもう遅いからって迎えにきてくれたらしいんですよ」
「そうかい、なら早めに行ってやったほうが良いんじゃないか?」
「お話が途中になってしまって申し訳ないです……」
「いいんだよ。酒の肴にはなった。さっさと行きな」
「お、お気遣いありがとうございます!ではまたいつか!」
アンナは席を立つと会計をすませ手際よく店を出ていった。
彼女の背中を見届けたマイクは酒を一口飲んだ。
一人減った店内ではまたゆったりとした時間が過ぎていく。
夜も更け、バーテンダーとの会話に区切りがついたところでマイクは席を立った。
「今日はこれで帰るとするか。会計頼むわ」
「かしこまりました」
「んじゃ、気が向いたらまた来る」
立ち上がり、財布をポケットに入れたマイクが店を出ようとしたとの時だった。
「あらごめんなさい」
扉の向こうには赤いファーコートを着た女性が立っていた。
「おっと、すまねえ」
マイクは彼女とすれ違う。
それはただ何気ないことであったが、後を考えれば運命であったのかもしれない。
「お客さん、もうラストオーダになってしまうが良いかね?」
「構わないわ。じゃあそうねぇ……。マンハッタンをもらえるかしら――」
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