2
何だか、もやもやする。
この二日間、何かがおかしい気がして、その翌日は仕事も手につかなかった。ぼんやり職場の窓から空を見上げていると、先程まで晴れていた空から、ぽつぽつと雨が降り始めた。
「…雨」
それを見た瞬間、これはお告げなのかもしれないと、
そして、夏実は、彼が
洋館の前には、やはりずぶ濡れの深水がいた。夏実が黙って傘を傾ければ、「…また会ったね」と、彼は穏やかに言った。
「あの、ここで何やってるんですか?」
「…この家に入れないんだ」
「…それで、家の前に居るの?傘も差さずに?」
「…一昨日は傘をありがとう。でも、もう必要ないよ。君が濡れるだろ」
「…あなたは平気なんですか」
「僕はね。でも、借り物の体の主は困るかもしれない、彼女には悪い事をしたな」
「…昨日の人、彼女、なんですか?」
二十年程前とはいえ、初恋の人だ。何となくもやもやして聞き返せば、彼はきょとんとして、それからおかしそうに笑った。
「言っただろ、体を借りたんだ」
「か、体って」
体だけの関係と言いたいのかと、夏実が腹立たしいやら悲しいやら、複雑な思いに駆られれば、彼は穏やかな表情で自身の胸を指差した。
「僕は幽霊で、この青年の体を借りてるんだ」
「…は?」
その現実離れした話を、夏実は何一つ呑み込む事が出来なかった。
その出会いから、早一週間。毎日のように顔を合わせていれば、夏実も“幽霊”と名乗る彼を受け入れ始めていた。
どうやら彼は、雨の日しか姿を現せないらしい。決まって十九時頃、いつも誰かの体を借りて、洋館の二階の窓を見上げている。時折、門に手を掛けるが、それの手は力なく下ろされた。
体を借りるにも限界があるのか、十分も経たない内に、彼は姿を消した。どこに帰るのか尾行してみたが、上手くはいかなかった。
幽霊なんて信じていない、夏実には霊感もなければ、悪寒すら感じない。
毎日入れ替わりで様々な人がこの洋館の前に立っている、もしや深水に雇われているのかと思ったが、何の為に洋館の前で立ち尽くすのか、人を変える理由は何なのかさっぱり分からない。
それに加え、その人達の喋り方や動作は一貫していた。幽霊である彼が誰かの体を借りている、そう言われる方がしっくりきて、夏実は混乱するばかりだった。
彼は本当に幽霊なのか。だとして、体を借りる理由は何なのか、深水と繋がりがあるのだろうか。
疑問と好奇心に動かされ、気づけば彼に傘を差し出すのが日課となっている。
この日、洋館前にいたのは、血を流した少女だった。一体どこから歩いてきたのか、頭から血を流し、服も泥で汚れている。さすがに夏実は青ざめた。
「て、手当てしないと!救急車、」
「この子はもう死んでいるんだ」
「え…?」
その人は、少女の澄んだ声でそう言った。
「少女の魂と会ったんだ。少女は事故に巻き込まれ、捨て置かれていた。自分じゃこの死を伝える事が出来ないから、人目につく場所で眠りたいって。僕はその願いを叶える代わりに、少しだけ体を借りる許可を得た。大丈夫、すぐに彼女の体を返すよ」
少女とは思えぬ冷静な口調で、その人は言う。体が子供だから、その口調との違和感に嫌でも気づかされる。夏実は騒ぐ胸をそっと押さえた。
「…あの、あなたは、本当に幽霊なの?」
恐る恐る心臓の音に邪魔されながら夏実が問えば、その人はそっと眉を下げた。
「…長くこの世に留まってしまったから、こんな事も出来るようになってしまった。いい加減、気味悪いだろう、誰かの体を借りてるなんて」
自嘲するその表情が声が悲しくて、夏実は何を言ったらその人の心が癒せるのか分からず、目を伏せた。
「もう傘は要らないよ、このまま一緒にいては、君が誤解されてしまう。ただ、警察に通報を頼めないかな?ひき逃げを見たって、場所は…」
その場所は、裏路地にある細い道だった。夏実も通った事のある道路で、子供の飛び出しに注意と看板の立っている場所だと覚えがある。
「あの、」
「男が車に子供を乗せるのを見たって言って。怖くて気が動転してしまって、すぐには通報出来なかったって言えば信じて貰えるかもしれない。じゃあ、お願いね」
「え、」
目に手を翳された、その一瞬後、少女の姿はその場から消えていた。
夏実は言われた通り、警察に通報した。怖くて現場には顔を出せなかったが、翌朝、住宅街の空き地の手前、柔らかな草の上で、横たわる少女が見つかったと、ニュースで知った。少女は車に跳ねられ命を落としたという。少女は自分を見つけて貰う為に、あの人に協力を仰いだと言った、ニュースをよく見ると、車に跳ねられたのは裏路地の細道で、そこから犯人は空き地まで少女を車で運び、放置したという。
空き地の奥、藪の中にも血痕が見つかったというので、犯人は少女をそこに隠したのかもしれない。映像で見る限り、背の高い伸びきった藪の中では、確かに少女は見つからないかもしれない。
夏実はそのニュースを見て、身震いした。自分が鈍感過ぎるのか、毎日のように会っているあの人が、人ではないのだと、今更実感していた。
あの人は、一体誰なんだろう。
けれど、それでも胸に宿るのは、恐怖ばかりではない。
夏実は決意を胸に顔を上げると、慌ただしく身支度を整え、アパートを飛び出した。
あの人には、初対面から恐怖を抱かなかった。初恋の人だと思い込んでいたのもあるが、あの人が幽霊だと分かっても、結局はほっとけない、それだけだった。
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