27:傍にいて欲しいです

 きちんと栄養を摂って休んでくださいと言って、私は早々に退室した。


 フィルディス様と話したいことはたくさんあった。

 でも、焦る必要はない。

 時間はたくさんあるのだから。いまは元気な姿を見られただけで充分。


 明日はいよいよサルペント離宮に着く。

 離宮に着いたら、今度こそ皆で休暇を満喫しよう。


 何をしようか。久しぶりに台所に立ち、皆で料理をするのも良いかもしれない。

 いや、王子に料理をさせるのはどうなのか。

 となると、エミリオ様だけまた仲間外れということに……拗ねてしまわれないかしら?


 遊ぶための企画をあれこれ考えるのは楽しい。鼻歌でも歌いたい気分だ。

 上機嫌で階段を下り、自分の部屋の扉のドアノブを掴んだときだった。


「リーリエ。少しいいか。話がしたい」

 低い声で名前を呼ばれて、私は左手に顔を向けた。


 青い絨毯が敷かれ、等間隔にシャンデリアが吊り下がる廊下に立っていたのはギスラン様。


「はい。どうぞ」

 私は鍵のかかっていない扉を開け、手のひらで中を示した。


「……入っていいのか? こんな夜に?」

 ギスラン様は結婚前の婦女子の部屋――といっても、宿の客室だが――に入ることに抵抗があるようだった。


 正直、この反応は意外だった。全く気にしないとばかり思っていた。

 一応私を女性として意識してくれてはいるらしい。


 ……いや、考えてみれば私は彼に求婚されているのだった。

 彼だけではなく、他の三人からも。

 そう思うと、急に恥ずかしくなり、頬が熱を帯びた。


「ええと、それでは、外……は雨ですから。一階の休憩スペースはどうでしょう?」

「そうしよう」

 ギスラン様は同意して歩き出した。

 私は部屋に鍵をかけ、彼の後を追って階段を下りた。


 宿の一階、飲食物が用意された休憩スペースには誰もいなかった。

 私たちはテーブルを挟み、本棚の前のソファに向かい合って座った。これくらいの距離があれば彼に負担はかからない。経験則で知っている。


「それで、お話とは?」

「俺は王宮に戻る」

「……えっ!?」

「フィルディスの無事が確認できた以上、ここにいる理由はなくなった。俺の休暇は今日で終わりだ」

 目を丸くしている私に、ギスラン様は無表情で告げた。


「どういうことですか? 休暇って、いままで何一つ休暇らしいことはしてませんよね? ただ馬車で揺られて、フィルディス様と戦っただけですよ? 休暇どころか思いきり働いているではありませんか」

「共に食事を摂ったし、露店を回っただろう?」

「休暇のハードルが低すぎますよ。そんなの、休暇とは呼べません」

「休暇の過ごし方は人それぞれだ。お前らと一緒に街を歩くだけでも俺は充分楽しかった。とにかく、俺は王宮に戻る。お前らとはここでお別れだ」

 ギスラン様はひたと私を見つめた。

 どうやらギスラン様の心は既に決まっているらしい。


「どうしてですか? 楽しいと感じてくださったのなら、このまま私たちと一緒にいれば良いじゃないですか」

 狼狽えるあまり、私は立ち上がった。

 ギスラン様は立った私を冷静に見上げて言った。


「離宮に行く目的を忘れたのか。お前は一か月の共同生活を経て誰を夫とするか決めるんだろう。俺はお前の夫にはなりえない。指一本触れることもできないからな」

 ギスラン様は自分の右手を見下ろし、自嘲と自虐が入り混じったような笑みを浮かべた。


 ――それは、見ているこちらが悲しくなるような笑い方で。

 ぎゅうっと、心臓が痛くなった。


 ギスラン様の左手首に黒い組み紐はない。

 ルーク様に巻いてやってと頼まれたのに、あの組み紐は私の鞄の中にある。


 あの後、巻こうとしたのに、要らないと言われてしまった。

 一番の願いはもう叶わないから、と。


 彼の一番の願いは……多分、私と結婚することだったのだろう。


「俺がお前に相応しくないのは最初からわかっていたことだ。女神に愛された清らかな大聖女と瘴気で穢れた俺とでは所詮住む世界が違う。わかっていたのに、馬鹿な夢を見た。暗い海の底から見上げた月を掴むような夢を……どんなに手を伸ばしたところで、月に届くわけもないのに」

 自身の手のひらを見つめて、珍しく感傷的に、遠い目をしたのはほんの数秒のこと。

 ギスラン様はすぐに手を下ろして私に視線を戻した。


「心配するな。お前を妻にしたいと望むあいつらは全員、呆れるほどの善人だ。誰を選んでも後悔することはない。一生お前を大事にするだろう。それこそ命懸けでな。お前が選んだ相手がろくでもない男だったら全力で邪魔するつもりだったが、あいつらなら安心してお前を任せられる」

 ギスラン様は金色の瞳で真摯に私を見つめ、微かに笑った。


「組み紐にかけた願いは嘘じゃない。たとえ傍にはいられなくても、どんなに遠く離れても。お前が幸せであるよう祈ってる」


 まるで、さようならと言われているような気がして。泣きたくなるほど切なくなった。


「じゃあな」

 未練を断ち切るようにギスラン様は立ち上がり、歩き出した。

 私に背を向けて。行ってしまう――


「待ってください」

 その言葉は滑るように口から出た。

 まだ何かあるのか、という顔でギスラン様がこちらを振り返る。


 どうしよう。何を言えばいいのだろう。

 引き止めたはいいものの、言葉が見つからない。


 彼を自分の傍に留めてくれる、都合の良い、魔法の言葉が。


「…………」

 いくら必死で探したところで、そんなものはきっと、どこにもない。

 だから、正直な気持ちをぶつけるしかない。


「……たとえ、指一本触れられなくても。私は。ギスラン様がいなくなったら寂しいです」


 俯き、両手を握る。


「傍に、いて欲しいです……」


 ギスラン様はその場に立ち尽くし、長いこと何も言わなかった。

 なんて我儘な奴だと、呆れているのかもしれない。

 確認するのが怖くて、私は降りしきる雨の音を聞きながら、ただ床を見つめていた。


「……お前な。それは反則だろう……」


 俺がどんな思いでお前を諦めたと……とかなんとか、小声で聞こえたような。

 声が小さすぎて以降は聞き取れなかった。


「え?」

 顔を上げると、ギスラン様は頭痛でも覚えたかのように片手でこめかみを押さえていた。

 その顔はわずかに赤い。


「……ああ。わかった。俺の負けだ。お前の気が済むまで傍に居てやる。だから、捨てられた子犬のような目をするな」

「す、捨てられた子犬のような目なんてしてませんっ」

「自覚はないんだな」

 頬を朱に染めて抗議すると、ギスラン様が口の端を上げた。

 楽しそうな笑顔に心臓がどきりと鳴る。


「こ、子犬云々は置いといて。本当にこれからも傍にいてくださるんですか?」

 どぎまぎしながら言う。


「そう言ったはずだが」

「良かった!」

 大いに喜ぶ私を、ギスラン様は少々困ったように、微苦笑を浮かべて見ていた。

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