26:フィルディスの目覚め

 騎士団が調査したところ、人身売買や薬の密輸など、様々な悪事に手を染めていたバリストン・モンギーノ子爵を陰から支援し庇護していたのは国の中枢を担うナントカという侯爵だったそうだ。


 正確には何という名前だったか。

 長ったらしい名前だったので忘れてしまった。


 侯爵がこの国でどんな地位についていようと、王宮やサルペントでどれほどの騒ぎが起きていようと、はっきりいって、どうでも良かった。


《蝶》を飛ばして情報収集した結果を逐一教えてくださったエミリオ様には申し訳ない。


 でも、私の目下最大の関心事は、フィルディス様がいつ目覚めてくださるかだ。


 あれから丸三日が経過した。

 近くの町で身体を休めた後、私たちは交易都市ロンターヌに立ち寄り、さらに南へ進んだ。


 現在はレカーナという街の宿屋にいる。

 明日の朝に出発すれば、昼にはサルペントに着く予定だった。


「…………」

 雨音だけが響く、静かな夜。

 貴族も泊まるという豪華な宿屋の二階。

 自分に割り当てられた一人用の客室で、私は窓辺のソファに座り、本を広げていた。


 この宿には図書室があり、宿泊客は自由に本を読める。

 そこで適当な本を三冊ほど手に取り、部屋に持ち込んだのだけれど……駄目だ。

 どの本を読んでも目が文章を上滑りして、内容が全く頭に入ってこない。


 私は本を閉じ、備え付けの円形テーブルに置いた。

 首を傾け、壁にごつんと側頭部をぶつける。


 フィルディス様はいつ目を覚ますのだろう。

 まさかこのまま一生目覚めないなんてことはない……わよね?


「…………」

 私は壁から頭を離し、目を閉じて両手を組んだ。


 女神様、お願いします。

 どうか私たちの元にフィルディス様をお返しください――


 一心不乱に祈っていると、廊下を走る足音が聞こえた。

 直後、激しく扉を連打され、私はぎょっとして手を下ろした。


「リーリエ! 起きてるか!?」

 ルーク様の叫び声がする。


「はいっ、起きてます!! どうされたんですか!?」

 私は大慌てで駆け寄り、扉の鍵を開けた。


「フィルが起きた!!」

 ルーク様は満面の笑み。驚く私の手を掴み、問答無用で走り出した。


 階段を上り、すぐそこにある部屋の扉を開く。

 ルーク様とフィルディス様が泊まっている部屋には既にエミリオ様とギスラン様がいた。


 二人の傍の寝台にフィルディス様が座っている。

 何か話していたらしい三人は、室内に駆け込んだルーク様と私を見て口を閉じた。


 ギスラン様は場所を譲るように窓際へ移動し、エミリオ様は微笑み、フィルディス様はなんだか気まずそうだった。


「ええと。その。迷惑をかけて――」


 その先は言わせなかった。

 私はルーク様と繋いでいた手を離し、走る勢いそのままに抱きついた。


「!?」

 予想外の行動だっただろうけれど、フィルディス様はとっさに両手を伸ばして私を抱き留めてくれた。


「良かった。良かったです。もう一生会えないかと……」

 目を白黒させている彼を抱きしめ、私は嗚咽した。


「……おれももう会えないと思ってた。でも、リーリエが奇跡を起こしてくれたおかげでこうしてまた会うことができた。助けてくれてありがとう」

 フィルディス様は感情のこもった声で言って、私の身体を抱き返した。

 のみならず、あやすように私の背中を優しく叩く。


「いいえ。元はと言えば私のせいですから。私を庇ったせいでフィルディス様は魔人化してしまうことになったんです。お助けするのは当然のことです。いくら大聖女の力があっても、私だけではどうにもなりませんでした。ルーク様とギスラン様が居てくださったから、フィルディス様を救うことができたんです」

「ああ。事情は全部聞いたよ。リーリエにもルークにもギスランにも、本当に感謝してる」


「ぼくだって助けに行きたかったんだけどね」

 一人だけ仲間外れにされたエミリオ様の拗ねた声がした。


 抱擁を解いてそちらを見れば、エミリオ様は大層不満げだった。

 思わず、フィルディス様と二人で笑ってしまう。


「そうだな。エミリオだってずっと心配してくれてたんだよな、ありがとう」

 フィルディス様の声を聞きながら、私は手の甲で涙を拭った。


「あら?」

 いつの間にか、私のすぐ傍――寝台の傍に、フェンリルがいた。


「フェンリル?」

 驚いたようにフィルディス様がその名前を呼ぶ。

 白銀の狼はフィルディス様を五秒ほど睨んだ後、寝台に飛び乗り、フィルディス様に頭突きを始めた。


《この馬鹿。この馬鹿。この馬鹿》

 ごすっ。ごすっ。ごすっ。


「ちょ、痛い。痛いって。心配かけてごめん。悪かったよ」

 フィルディス様は苦笑して白銀の狼の首を抱いた。


《心配などしておらぬわ、馬鹿者め。私はお前を一思いに殺してやろうとしたのだ。それをリーリエたちが阻んだ。リーリエたちには感謝することだな。リーリエたちがいなければ、お前は私の氷に貫かれて死んでいた》


「ああ。わかってるよ。お前は好きでおれを殺そうとしたわけじゃない。そもそもお前に殺してくれって頼んだのはおれだ」


《……二度とあんな最低な頼み事をするな》

 フェンリルはもう一度だけ、フィルディス様に頭突きした。

 その頭突きはさっきよりもずっと弱々しかった。


「約束する。……ところで」

 フィルディス様は声のトーンを変え、俯き加減に、フェンリルの顔色を窺いながら言った。


「あの騒動で腕輪を失ってしまったんだが……もう一度もらうことはできるか?」

 フェンリルは無言でフィルディス様を睨むばかり。


「……だよな。図々しいこと言ってごめん。もう言わない」

 フィルディス様は苦笑し、フェンリルの頭を撫でた。

 パキパキパキ、という音が聞こえて、フィルディス様の目の前に青く輝く剣が出現した。まるで青い水晶を固めたかのような、美しい剣。


「え。これ……」

《三度目はないぞ》

 ぷいっと顔を背けて、フェンリルは寝台から飛び降り、そのまま姿を消した。照れたのかもしれない。


「ありがとう」

 誰もいなくなった空間を見つめてフィルディス様は微笑み、青い剣を手に取った。

 その瞬間、剣は腕輪へと変化し、まるで吸い付くようにフィルディス様の左手首に巻き付いた。


 良かった。これですっかり元通りだ。

 蒼く輝く腕輪を嬉しそうに撫でるフィルディス様を見て、私は顔を綻ばせた。

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