23:瘴魔病
道案内を引き受けてくれたフェンリルの後を追って、私たちは森の中を歩いた。
エミリオ様だけがここにいない。
彼自身は同行したがっていたけれど、ギスラン様が止めた。
――王子に万が一のことがあれば俺たち全員が責を問われる。フィルディスのことは俺たちに任せろ。お前にはやるべきことがあるはずだ。
やるべきこととは、さきほど魔物に襲われていた馬車――モンギーノ商会の隊商を役人に突き出すことだ。奇しくもモンギーノは私たちの目的地であるサルペントに拠点を置く大きな商会だった。
隊商は積み荷の箱を二重底にしており、魔物の生きた卵を隠し持っていた。
一部の魔物の卵殻は非常に美しく、宝飾品として
国が禁じているにも関わらず、金儲けを目的とした違法な売買は後を絶たない。
その身に同じものを宿しているせいか、ギスラン様は聖女に匹敵するほど瘴気に敏感だ。
魔物の卵が発する微弱な瘴気をギスラン様が感知していなければ、今頃商人たちは旅の道中で不幸にも魔物に襲われた哀れな被害者として振る舞っていたことだろう。
腹が立って仕方ない。
隊商が卵を強奪し、魔物の群れを呼び寄せなければ、フィルディス様が魔族に襲われることもなかったかもしれないのに。
「オレもフィルも、モンギーノ商会の代表のバリストン・モンギーノ子爵とは会ったことがあるんだ。一回だけじゃなく、何度もさ」
森を吹き抜ける風が木々を揺らし、騒々しい鳥の鳴き声と共にささやかな音楽を奏でている。
風に炎のような赤い髪を靡かせ、下草を踏みしめながら、ルーク様は憂鬱そうに言った。
「表向きは非の打ち所がないほどの善人だった。積極的に社会貢献や慈善活動をしていて、クレセント孤児院にも多額の寄付をしてくれてたんだ。年に一度、プレゼントを持って孤児院を訪れてくれる気の良いおじさんだと思ってたのに……金儲けのためなら何でもする奴だったと知ったら、フィルもきっとがっかりするだろうな」
ルーク様は俯いた。
商品の中には薬液に漬けられた魔物の目玉や内臓など、様々なものがあったらしい。
「人間などそんなものだ。いくら善人ぶろうと、一皮むけばみんな下衆だ」
ギスラン様の声は冷めきっていた。
ムッとしたようにルーク様がギスラン様を睨む。
「それは主語が大きすぎるだろ。お前はオレやリーリエのことも善人面した下衆だと思ってんのかよ」
ギスラン様は返答に窮したように黙り込み、ややあって、小さくかぶりを振った。
「……いや。いまのは言い過ぎた。俺が悪かった」
「そうそう。わかればいいんだよ、わかれば。オレ、ギスランのそういうこと好きだぜ」
「お前に好かれてもな」
「どういう意味だ、こら」
べしっとルーク様がギスラン様の腕を叩く。
「ふふ」
思わず笑ってしまう。二人のやり取りを見ていると、ささくれ立っていた心が穏やかになっていくような気がした。
「……なんか寒くなってきたな」
しばらくして、呟くようにルーク様が言った。
「はい。春だというのに、この気温の低さは異常です」
吐き出す息が白く染まっている。
私はぶるりと身体を震わせ、腕を摩った。
気づけば、あれほど騒がしかった鳥の声が聞こえなくなっていた。
耳を澄ましてみても、風の音以外、何の音もしない。
辺りは不気味なほど静まり返っている。
まるで森に生きる全ての生物が異常を察知して逃げてしまったかのようだ。
前を行くフェンリルを見つめ、私は両手を握り締めた。
――いるのだ。この先に、重度の『瘴魔病』にかかったフィルディス様が。
瘴気に侵された人は例外なく『瘴魔病』という病を発症する。
最初は軽い頭痛や眩暈から始まり、症状が重くなると嘔吐や昏睡、衰弱死。
そして、死よりも恐ろしいと言われているのが『魔人化』。
瘴気に侵されて自我を失った人間は凶暴化し、まるで魔族のように見境なく人を殺しまくる怪物と成り果てる。
魔人化した人間は聖女でもどうしようもない。死以外の救済方法はない。だからフェンリルもフィルディス様は助からないと断言したのだ。
それ以降、私たちは一切の会話を止めた。
先に進むにつれて、気温は下がっていく一方だった。
いつ雪が降り出してもおかしくないほどの、極寒の森。
凍結した地面で滑らないよう、慎重に一歩一歩足を踏み出し――私たちはついに、フィルディス様を見つけた。
そこは、ぽっかりと開けた森の一角だった。
森の奥では小川が流れているが、砂も川も木々も凍結してしまっている。
見渡す限りの風景全てが凍り付き、ここだけ時を止めたその場所に、黒い人物がいた。
フィルディス様は川の近く、腐って倒れたらしい樹木の傍でうずくまっていた。
身体を丸め、獣のような唸り声をあげている。
彼は全身から黒い煙のような大量の瘴気を噴き出していた。そのせいか、彼の周りの景色は陽炎のように揺らいでいる。
蒼い瞳は魔物の如き深紅に染まり、その瞳孔は縦に切れ上がっていた。
赤黒い茨のような、禍々しい紋様が蛇のように彼の皮膚を這いずり回っている。
生物が本能的に恐怖し、嫌悪し、忌避せずにはいられない。
これは、そういう類のモノだ。
「………」
私は唾を飲んだ。聖女として数多くの瘴魔病患者を治癒してきたけれど、魔人化した人を見るのは初めてだった。
「フィルディス様、ですよね」
呼び掛けても反応はない。黒い異形と化した彼はただ唸るばかり。もはや言葉は通じないようだった。
痛ましい姿に泣きそうになる。
フィルディス様が庇ってくれなければ、こうなっていたのは自分だった。
「待っててください、いま助けま――」
一歩近づいたその瞬間、フィルディス様の頭上に一抱えほどもある巨大な青い水晶が浮かび上がった。
彼を中心として、半円を描くように。
いくつもいくつも!
戦慄が身体を駆け巡った。
あの青い水晶は氷柱だ。彼が戦場で武器として扱うのを見てきたのだから知っている。
でも、これほどの数とこの大きさは、いままで見たことがない。
宙に浮かぶ水晶の先端は私たちに向いていた。
全員まとめて殺す気らしい。
待って、と懇願する暇もなく、氷柱が一斉に襲い掛かってきた。
「――させるか!!」
ルーク様が叫び、私たちの目の前に巨大な炎の壁が聳え立つ。
無数の氷柱は炎の壁に激突し、その全てが蒸発した。
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