22:大聖女の覚醒

 永遠とも思えるような長い時間が過ぎた。


 魔物に襲われた人たちが助かるように。

 戦場に赴いた騎士たちが無事戻ってくるように。


 膝の上で両手を組み、ただひたすら祈っていると、突然エミリオ様の声が耳朶を打った。


「どういうことだよ!?」


 何故か彼は激怒しているようだった。

 彼が声を荒らげることは滅多にない――つまり、それほどの事態が起きている。


「レナードさんはここにいてください!!」

 とうに我慢の限界だった私は馬車の扉を開け放ち、転がるように外へ飛び出した。


 馬車の前にエミリオ様たちがいた。

 エミリオ様とルーク様は少々怪我を負っている。

 でも、高回復薬ハイポーションを飲めば問題なく治る程度の怪我だ。


 安堵したかったけれど、状況がそれを許さない。


「いいからフィルの居場所を教えろ!! 早く!!」

 ルーク様が怒鳴った。

 エミリオ様たちの視線の交差点にいるのは一匹の大きな狼。


 体長は二メートルくらいだろうか。

 陽光を浴びて白銀に輝く毛。神秘的な金色の瞳。

 その額に浮かび上がっているのは雪の結晶のような金色の模様。

 同じものがフィルディス様の胸にあることを私は知っていた。


「――」

 驚きに目を見開く。

 あの美しい白銀の狼は、フィルディス様と契約している氷の精霊王フェンリルだ。


 人間が嫌いで、人前には滅多に姿を現さないというフェンリルが、何故ここにいるのだろう。


 フィルディス様はどうして戻って来ないの?


 嫌な予感が胸を突き上げ、吐き気すら覚えた。


「皆さま、どうされたんですか!? 何故怒鳴っているんですか!?」


 息を切らして駆け寄ると、エミリオ様たちはばつが悪そうな顔をした。

 ギスラン様は目を逸らし、ルーク様は沈痛そうに眉間を押さえた。


「フィルが死にそうなんだって」


 苦い薬でも飲んだような顔でエミリオ様が吐き出したその一言に、思考が止まる。


「……どうして?」

 どうにか発した声は、酷く震えていた。


《フィルディスは体内に瘴気を打ち込まれた》


 私はこのとき初めて、フェンリルの声を聴いた。

 実際の音ではなく、脳に直接響く思念で伝えられたその声は、低い男性のような声だった。


《一見するとただの黒い蜂に見えたあれは、魔族の使い魔だった。フィルディスは私の制止を振り切り、お前たちに害が及ばぬよう命懸けで全ての使い魔を倒し、凶悪な魔族の首を落とした。その反動で瘴気はフィルディスの体内を巡った。既に身体の変異は始まっている。間もなく心も変異し、フィルディスは自分の名も人であることも忘れた異形の怪物と成り果てるだろう。神殿に運んだところで手遅れだ。たとえ複数の聖女が集まったとしても、あれほどの瘴気を浄化することは不可能。フィルディスは助からぬ。これはもはや確定事項だ》


「――――」

 目に映る全てが歪んだ。


 足に力が入らず、倒れそうになった私をとっさにルーク様が抱き留めてくれた。

 寒い。まるで極寒の地に裸で放り出されたかのように、身体がガタガタ震えて止まらない。勝手に涙が溢れてくる。


「リーリエ、しっかりしろ!!」

 誰かが叫んでいるけれど、聞こえない。心配する声も、何も。


 ――じゃあ行ってくる。


 どんな気持ちでフィルディス様はそう言ったのだろうか。


 自分の死を予期していながら――もう自分は助からないとわかっていながら、私に大丈夫だと繰り返し、笑っていたの?


《私はフィルディスに介錯とお前の守護を頼まれた。完全な怪物に堕する前に、フィルディスの命は私が責任をもって絶つ。わかったのならば去れ。異形に転じつつあるいまの姿はお前たちには見られたくないはずだ。特にお前にはな》


 フェンリルが近づいてきて、まっすぐに私を見つめた。


《フィルディスはお前を好いていた。フィルディスの気持ちを汲んでやれ》


 誰も何も言わない。

 圧し潰されそうな沈黙。

 耳に届くのは、やけに大きな自分の鼓動の音だけ。


 ――おれもリーリエのことが好きだ。リーリエを幸せにするために全力を尽くすと約束する。どうかおれの妻になってくれ。

 ――リーリエが幸せでありますように。


 フィルディス様がくれた数々の言葉が蘇り、私は下唇を噛んだ。血の味がしても、噛むのを止められない。


 フィルディス様が失われるなど、一生会えなくなるなど、嫌だ。

 絶対に、絶対に嫌だ。


 瘴気のせいで彼は変異しようとしている。どの文献にも書いてあった言葉を思い出す。瘴気を祓えるのは聖女が持つ奇跡の力、すなわち浄化の力だけ。


 ――嫌だ、嫌だ、嫌だ!!


 意思が炸裂する。

 それは魂のこもった、強烈な『否』の言葉。

 額が燃え上がりそうなほど熱くなり、私を中心として凄まじい風が沸き起こった。


「!?」

 この場の誰もが仰天している。

 真っ白だった私の髪は銀色に輝き、神秘的な虹色の光を纏い始めた。


「嘘だろ、あれって……」

「うん。あの髪色は、救国の大聖女マリアベルそのものだね……」

 ルーク様とエミリオ様が何か囁いているけれど、トランス状態にある私の耳には届いていなかった。


 ――絶対に助ける。絶対に――!!


 やがて風が止んだ頃、私は自分の身体に起きた異変に気づいた。

 身体中に力が漲っている。女神に与えられた神聖力が。


 私は調子を確かめるように右手を数回握り、フェンリルに向き直った。

 鏡を見なくてもわかる。私の額には金色の《聖紋》が浮かび上がっている。


「フェンリル様。大聖女の力をもってしてもフィルディス様の浄化は不可能だと思われますか?」

 理性を取り戻した私は、落ち着き払った声で尋ねた。


《……わからぬ。お前が救国の大聖女と同じ力を持つ者ならば、もしかしたら奇跡が起きるかもしれぬ》

 考えるような間を置いて、フェンリルは誠実に答えた。


「では可能性に賭けてみましょう。大丈夫です。フィルディス様がたとえいまどんな姿をしていようと、決して嫌いになったりはしません。彼が好きになってくれたリーリエ・カーラックを見くびらないでください」

 不敵に笑む。


 自分のせいでフィルディス様が異形に堕ちそうだというのならば、やるべきことはただ一つ。


 何としてでも彼を取り戻す。

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