21:不意打ちの抱擁
「ああ。おれが保証す」
フィルディス様はそこで急に言葉を切った。
まるで体当たりするような勢いで私を抱きしめ、叫ぶ。
「凍れ!」
何が何だかわからないうちに、ごとり、と小さな音がした。硬いものが落ちたような音。
「……扉が開いたとき、あいつらと入れ替わりに入ってきたんだな」
左肩を押さえ、苦々しげな口調でフィルディス様が呟く。
彼の視線を追って見下ろせば、床に何かが落ちている。
それは私の親指ほどの大きさの、氷漬けになった、黒い蜂のような魔物だった。
蜂と言えば毒がつきもの。背筋が冷えた。
「刺されたんですか!?」
「……左肩の裏を」
フィルディス様は言いづらそうだった。私に心配をかけるのが嫌らしい。
「飲んでください!!」
顔面蒼白になった私は大急ぎで鞄から解毒薬を取り出し、瓶の蓋を開けて差し出した。
「ありがとう」
フィルディス様は素直に解毒薬を飲んだ。
「あんまり美味しくないな」
味の感想を言えるほどの余裕はあるらしい。
見たところ、顔色は正常だし、呼吸も乱れてはいない。
それでも安心材料にはなり得ない。遅効性の毒かもしれないのだ。
私は戦場で何人もの死者を弔ってきた。
私を庇ったせいで、死者の列にフィルディス様も加わることになったら――想像だけで胸が張り裂けそうだった。
「
恐慌状態に陥った私は馬車を飛び出すべく扉の取っ手を掴もうとしたけれど、その前にフィルディス様が私の手首を握って止めた。
「落ち着いてくれ、リーリエ。針で刺された痛みはあったが、それだけだ。
フィルディス様は私の肩を掴み、真剣な眼差しで言った。
「……本当に?」
「ああ。大丈夫だから、心配いらない」
フィルディス様は安心させるように微笑んだ。
彼の青い瞳を見つめていると、荒れ狂っていた心が不思議と鎮まっていった。
「……それなら良かったですが。でも、念のため、どうか安静にしていてください。毒が回ったら大変です」
「いや。解毒薬は飲んだし、本当にもう大丈夫。あいつらが戻ってきたときに刺されたほうが大変だ。お仲間はまだ元気に外を飛び回ってる。あいつらのためにも、後々ここを通る人たちのためにも、一匹残らず殲滅しておかないと」
フィルディス様は窓の外を見て立ち上がった。
慌てて窓の外を見る。
でも、特に異変は見当たらない。
森の一言で片づけられてしまうような、何の変哲もない景色があるだけだ。
フィルディス様を刺した魔物は、レッドウルフと同じように、私の眼では捉えられない速度で飛び回っているのだろうか?
「でも……」
「大丈夫だ」
心配する私に、フィルディス様は根気よく繰り返した。
「レナードさんをここに連れてくる。おれは外に出るが、何があっても絶対に守るから心配するな。あいつらにビンタされたくないしな」
フィルディス様は笑ってみせたけれど、とても笑い返す余裕はなかった。
「……はい。お気をつけて。一応これを持って行ってください」
私は鞄から
解毒剤は追加で必要だろうか。一度飲んだら大丈夫なのだろうか?
「ありがとう」
解毒薬も渡すかどうか悩んでいるうちに、フィルディス様は瓶を受け取って懐に入れた。
送り出すことしかできない自分が歯がゆい。
何故私は聖女の力を失ってしまったのだろう。
神聖力があれば回復だってできたし、魔物を弾く結界を張ってフィルディス様と共に戦うことだってできたのに。
無力感に苛まれて俯く。
すると、フィルディス様が両手を伸ばし、私を抱きしめてきた。
「!?」
「よし。リーリエのおかげで活力が漲った」
不意打ちに唖然としていると、フィルディス様は優しく微笑み、私の頭を撫でた。
愛おしそうに白髪を指で梳かれ、こんなときだというのに胸が高鳴る。
「じゃあ行ってくる」
私を見つめて名残惜しそうな顔をしたのもつかの間。
フィルディス様は決然と表情を引き締め、馬車から出て行った。
十秒も経たないうちに、再び扉が開いた。
フィルディス様に連れられて、御者のレナードさんが馬車に乗り込んでくる。
「お邪魔します」
「はい、どうぞ」
レナードさんは申し訳なさそうな顔で私の向かいに着席した。
フィルディス様は私と目を合わせ、一つ頷いてから扉を閉めた。
足音が遠ざかり、すぐにその姿は見えなくなる。
……本当に大丈夫だろうか。
「凍れ!!」
程なくしてフィルディス様の叫び声が聞こえ、私はびくっと肩を震わせた。
とっさに窓に張り付き、可能な限り首を伸ばす。
フィルディス様は視界の外にいるらしく、その姿を確認することはできなかった。
「……大丈夫ですかね……」
斜め向かいでレナードさんが呟いた。
落ち着かない様子で手を揉み、身体を揺すっている。彼の灰色の瞳は不安に揺れていた。
「大丈夫ですよ」
私は窓から身体を離し、根拠もなく微笑んだ。
戦場での役割を思い出す。
不安に駆られた人々を励ますのも聖女としての私の役目だった。
かつての気概を思い出せと自分に命じる。
恐怖と戦え。胸を張れ。
ここでレナードさんと一緒に震えているだけなら、私は本当にただのお荷物だ。
命懸けで戦っている彼らに合わせる顔がない。
「フィルディス様もエミリオ様たちもお強いですから。彼らならきっと大丈夫です」
「……そうですよね。大丈夫ですよね」
弱々しくはあるけれど、レナードさんは微笑み返してくれた。まるでフィルディス様に励まされた自分を見ているような気分だった。
「はい」
表面上は微笑を保ったまま、私は左手首の組み紐を強く握った。
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