11:夜の訓練場でのトラブル?

 驚いたことに、私はあれから四時間も眠っていたらしい。

《黒の森》での三日間は私の心身に相当なストレスを与えていたようだ。


 あの場所ではいつ魔物に襲われるかわからず、気が抜けなかった。

 絶えず風の吹き込む寒い洞窟では、どんなに寝ようとしても熟睡なんてとてもできなかったものね。


 午後十時を回った、夜の訓練場。

 昼間はこの場所で騎士や兵士たちが有事に備えて一生懸命鍛錬しているのだが、陽が落ちたいまは誰もいない。


 いや、一人だけいた。

 夜にも関わらず、剣を構え、自主的に鍛錬に励んでいる人が。


 ギスラン様は流麗な動きで剣を振り回していた。


 まるで完成された剣舞を見ているような気分だった。


 斬り上げ、薙ぎ払い、斬りおろし、踏み込んでの突き。

 動きが早すぎて目で追えない。


 まるで魔法のように銀線が走り、想像上の敵が次々と切り裂かれていく。

 一切の淀みのない、剣の閃き。死のダンス。


 ……凄い。

 気づけば私は心を奪われていた。


 彼の美しい剣技に。

 夜中に一人、黙々と鍛錬に励むそのひたむきさに。


「何か用か?」

 訓練場の隅っこでぼうっと突っ立っていると、不意にギスラン様が金色の目をこちらに向けた。


 いつから気づいていたのだろうか。

 まるで盗み見していたような気分になり――いや、実際そうなのだけれど――私は慌てて大樹の陰から出た。


「すみませんっ。ギスラン様の卓越した剣技があまりにも美しくて、ついつい見惚れてしまいました」

「何か用かと聞いている」

 ギスラン様は手にしていた剣を腰の鞘に納めた。

 御託はいいから早く用件を言え。冷たい口調と表情がそう言っていた。


「あ。いえ、あの。特に用があるわけでは……」

 威圧的な態度にすっかり萎縮してしまい、私は俯いた。


 やっぱりエミリオ様の言ったことは嘘だったのだろう。

 ギスラン様が私に好意を寄せているなんて、そんなことありえない。


 戦場で彼は何度も私を庇ってくれたけれど、それは治癒の要だった私に倒れられると戦線が崩壊して困るから。ただそれだけだ。


 無事で良かった。そう言って、彼は微笑んでくれた。


 それで再会の挨拶は終わったはずなのに、なんで俺に付きまとってここにいるんだと、不愉快な気持ちにさせてしまったに違いない。


 ……おかしいな。なんで私、泣きそうになってるの。


「鍛錬の邪魔をしてしまってすみません。帰りますね」

 肩を落として帰ろうとすると、手を掴まれた。


「――やっぱり、触れるのか……」

 独りごちるような、ギスラン様の呟きが聞こえる。


「え」

 戦闘中でもない平時に触られたのは初めてだ。

 びっくりして振り返ると、ギスラン様は手を離して言った。


「待て。なんで泣きそうな顔をしてるんだ」

「な、泣きそうな顔なんてしてません」

 身体ごと彼に向き直って強がる。


「してる」

「してません」

 ぼろっ――と、大粒の涙が溢れて頬を滑り落ちた。


 気まずい沈黙。


 夜の風が二人の間を通り抜けていく。

 ざわざわと、訓練場の隅の樹木が葉擦れの音を立てた。


「……。ああ。俺のせいか。いや、別に怒っていたわけではなく……謝らなくていいから、用件は何だと言いたかっただけで……悪かった」

 言い訳するように言って、ギスラン様は親指で私の目元を拭った。

 まるで壊れ物を扱うような、意外なほど優しい手つきに、心臓が跳ねた。


「いえ、こちらこそ泣いたりしてしまってすみません。いきなり押しかけて泣くとか、意味がわかりませんよね。すみません」

「もう謝るな。わかったから。とにかくお前は特に用もなく訪れてきたと、そう解釈して良いんだな」

「いえ……その……エミリオ様に、一度ギスラン様と話して来いと言われまして……」

「俺と? 何故?」

「……その……」

 迷った末に、私は正直に打ち明けることにした。


「エミリオ様は明日、午後七時になったら私と、恋敵を連れて来いと国王様に言われたそうです。それで……ギスラン様も来なくて良いのかと……その確認をして来いと……」

 私は地面を見つめ、小さな声で言った。

 恐る恐る顔を上げて、ギスラン様の表情を窺う。 


「俺はお前に求婚した覚えはないが」


 ギスラン様は鉄壁の無表情。

 ……こいつは一体何を言っているんだと、呆れ果てているのかもしれない。


「ですよね! やっぱりギスラン様が私に好意を寄せているなんてこと、ありえませんよね!」


 猛烈に恥ずかしくなり、赤面しながら両手を振る。

 ほっとしたような残念なような――って、残念? 何が?


 自分で自分の感情がよくわからないまま、私は早口でまくしたてた。


「ではそういうことで! お時間を取らせてしまい、すみませんでした! 失礼致します!」


 くるりと背を向け、脱兎の勢いで逃げ出した瞬間、私は地面の窪み――恐らく、騎士たちが鍛錬の際に空けたのだろう――につまずいて盛大に転倒した。


 鈍い私はうまく受け身を取ることもできず、轢かれた蛙のようにべったり地面に張りついたまま、痛みに悶絶。

 い、痛い……これ、絶対、膝を擦りむいた……。


「大丈夫か!?」

 ギスラン様が珍しく慌てた様子で駆け寄ってきた。


「すみません、大丈夫です……」

 ああ、私はこの短時間で何回ギスラン様に謝ったのだろう。情けない。


 痛みとは違う涙を流しながら地面に手をつき、急いで起き上がろうとした――のだけれど。


 私が起き上がるよりも早く、まるで芋の入った小袋でも抱えるように、ひょいっとギスラン様が私を抱きかかえた。


「!!!?」

 逞しい腕に横抱きにされ、私は再び真っ赤になった。


 鍛え上げられたギスラン様の硬い胸筋や、その体温を肌越しに感じる。

 すぐそこに――目の前に彼の秀麗な顔があって、心拍数が跳ね上がった。


「本当に大丈夫ですから! ほんのちょっと膝を擦りむいただけですから、下ろしてください!」

「黙ってろ。舌を噛むぞ」

 ギスラン様が走り出す。

 必然、抱えられている私は上下に揺れた。


「ひゃあっ――!? あの、肩を掴んでもいいでしょうか!?」

「聞かなくてもいい。好きにしろ」

 私はギスラン様の肩を掴ませてもらい、彼にしがみついた。


 ……実はこのとき、ギスラン様はほんの少しだけ楽しそうな顔をしていたのだけれど、私はそれに気づかなかった。

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