04:花精霊と虹色の蝶

 恐ろしい魔物の咆哮が森に響き渡った。

 反射的に振り返ったけれど、私の視界には緑が広がるばかり。


 木の根元に生えた草から手を離し、うずくまったまま、じっと身を固めて様子を窺う。


 十秒ほど待っても、特に異変は起きなかった。

 少なくとも私の目に映る範囲内に脅威となるような魔物はいない。


 左手の地面でうねうね動いているスライム状の魔物や、自分自身の根で走る植物のような魔物たちは怯える必要のないものだ。


 小さな雫が額を打つ。

 曇天の空から小雨が降り始めた。


 身体を冷やすわけにはいかない。

 薬も医者も、服の着替えも、身体を横たえる清潔なシーツもない現状では、風邪が原因で死ぬ危険性がある。


 私は野草の採取を中断し、身体の右脇に置いていた草とキノコを持って崖の下の小さな洞窟に戻った。


 洞窟は薄暗く、ひんやりとした空気に満ちている。

 この洞窟が、いまの私の『家』。


《オカ エリ ナ サイ》

《オ カエリ! りーりえ!》


 洞窟に足を踏み入れるなり、私の手のひらくらいの大きさの精霊がすっ飛んできた。


 頭に白い花を乗せた、十歳前後の女の子を象った二体の精霊。

 彼女たちの背中には半透明の四枚の羽根が生えている。


 頭に乗せた花からして、彼女たちは花の精霊なのだろう。


 この子たちとは《黒の森》に追放されたその日のうちに出会った。

 体力のあるうちに水場だけでも確保しておこう。

 そう思って、けもの道をかき分けながら前に進んでいると、突然、この子たちが目の前に現れて両手を広げ、通せんぼしたのだ。


 精霊たちは片言ながら、この先に魔物がいると警告し、比較的安全なこの洞窟に案内してくれた。

 それだけではない。湧き水から水を汲むときは見張り役をしてくれたし、食べられるキノコや野草を教えてくれた。


 何故こんなに親切にしてくれるのかと聞くと、精霊たちは《アナタガ ナイテ タ カラ》《コマッテル ヨウニ ミエタ カラ》と答えた。


 人間より、野にいる無垢な精霊のほうがよっぽど優しかった。


 優しさが染みて、私は泣いてしまった。

 私が泣き止むまで、精霊たちはずっとオロオロしていた。


 この弱々しい人間は私たちがついていないと駄目だと判断されたらしく、精霊たちはこの三日間、ずっと私の傍にいてくれた。


「ただいま」

 私は微笑み、精霊たちを連れて竈に向かった。


 竈といっても、家に備えつけてあるような立派なものじゃない。

 適当な石を並べただけの、即席の竈だ。


 竈の前に座り、大きな葉っぱの上で採取してきた植物の茎を二つに割って、丁寧に筋を取る。


 精霊たちは私の左右に浮遊しながら、私の手元を興味深そうに見ていたけれど、すぐに飽きたらしく空中で戯れ始めた。


 雨音を聞きながら、ぼんやりと考える。

 心優しい精霊たちのおかげでなんとか無事に過ごせているけれど、精霊たちだっていつまでも私の傍にいてくれるわけではないだろう。


 精霊たちに見捨てられたら、そのときこそ私の人生は終わる。

 なら、精霊たちをこのままずっと私の傍に縛り付けるのか。


 頼むから私の傍にいてくれ、私を守ってくれと、みっともなく泣いて縋って。

 そうまでして生きたところで、何になるのか。


 状況は既に詰んでいる。死を先延ばしにしているだけだ。


「…………」

 また、耳鳴り。

 私は茎の筋取りを止めた。

 洞窟の壁際にうずくまり、冷たい壁に背中を預ける。


 精霊たちが心配して寄ってきた。

 大丈夫かと聞かれたため、笑って大丈夫と答えると、精霊たちは安心したらしく、適当に遊び始めた。


 楽しそうな精霊たちを見ながら、私の思考は再び重く沈んでいく。


 私は誰に助けを求めれば良いのだろう。

 いくら祈ったって神様は助けてくれない。


 自国の人間には捨てられた。

 では他国の人間なら――他国の人間に私を助ける義理があるのだろうか。


 私はもう聖女じゃない。

 何の価値もなくなった私を命懸けで助けてくれる人なんて、どこにも――


 唇を噛んだ直後、ひらりと。

 天井から、世にも美しい一匹の蝶が舞い降りてきた。


 七色に煌めく羽根を優雅にはばたかせながら、見惚れるほど美しい蝶が私の前を舞う。


「えっ?」

 目を疑った。


 私は以前、この幻想的な蝶を見たことがある。

 自然界には存在しないこの特殊な蝶は、風の精霊王シルフィが契約者に与えた力。


 この蝶を扱えるのは世界中でただ一人――ユーグレストの第二王子エミリオ・マーシア・ユーグレストだけだ。


「エミリオ様!?」

 驚いて叫んだけれど、蝶が答えることはない。蝶は喋れない。


 必要とあれば無色透明にもなれるこの蝶は、あくまで情報収集のためのもの。


 エミリオ様は蝶の周囲にいる音や声を聞くことができるけれど、蝶を通じて自分から声を発することはできないのだ。


「なんでこの蝶がここに……」

 何故蝶がここにいるのか。

 そんなの、決まっている。可能性は一つしかない。


 エミリオ様は私を探していたのだ。


 恐らくはユーグレストで何か事件が起こり、私の神聖力を当てにして、助けを求めてきたのだろう。


「……エミリオ様」

 私は悲しく笑った。


「どうしてあなたが私を探していたのか、事情は存じ上げませんが、私はもう聖女ではないのです。恐らく神聖力を使いすぎたのでしょう。半月ほど前に私の額の《聖紋》は消え去ってしまいました。もしエミリオ様が私の助けを求めておられたのだとしても、残念ながら、いまの私では何のお役にも立てません」


 蝶はひらひらと舞っている。

 美しい蝶と比べると、襤褸切れのような薄汚れたワンピースを着た自分があまりにも惨めで、私は俯いた。


「実はその……情けない話なのですが、聖女でなくなった私は必要ないと、王太子カイム様から婚約破棄されてしまい……さらに、冤罪ではあるのですが、妹を毒殺しようとしたとして、《黒の森》に送られてしまったのです。私はいま、《黒の森》の洞窟にいまして……」


 言っていて、あれ? と、思った。


 待って?


 私が《黒の森》の洞窟にいることは蝶を通じてわかっているはず。

 エミリオ様は何故私がこんなところにいるのかと疑問に思っただろう。


 そして、聡明なエミリオ様は疑問をそのままにしておくようなお方ではない。

 メビオラに蝶を放ち、私が《黒の森》にいる理由を突き止めようとしたはずだ。


 夜空を激しい雷光が貫くように、脳裏に閃くものがあった。


 もしかして、逆なの?


 エミリオ様は聖女の私に助けを求めたのではなく。

 


 もしそうだったら嬉しい。

 嬉しすぎて、きっと私は泣いてしまうだろう。


 でも、本当に?

 何の力もなくなった私を、エミリオ様は助けようとしているの?


 ごくりと唾を飲んで、私は真偽を確かめるべく再び口を開いた。


「……エミリオ様。もしかしてあなたは……助けるために私を探しておられたのですか? もしそうでないのならば……聖女としての私を探していたのであれば……私はその期待には応えられません。どうか、私のことは諦めて、このまま蝶を飛び立たせてください」

 審判を待つような気分で蝶を見つめる。


 もしエミリオ様が私の情報を全く知らず、かつての聖女としての私を探し求めていたのだとしたら。

 カイム様のように、『ただの人になり下がったお前に価値はない』と思ったのなら。


 この美しい蝶は、私を見捨てて飛び去ってしまうだろう。


 祈るように蝶を見つめ続けて、十秒。二十秒。

 どれほど時が経とうとも、蝶は私の傍に浮遊し続けた。


 決して、離れようとはしなかった。

 だから――きっとそれが、エミリオの答えなのだろう。


「………………」

 鼻の奥がつんとして、目頭が熱くなる。唇が震える。それら全てが、どうしようもない。堪えることなどできるわけがなかった。


「エミリオ様は、私の事情をご存じだったのですね……全て承知の上で、広大な森の中を……どこにいるのかもわからない私を……ずっとずっと、探していてくださったのですね……」


 何百。何千。あるいは何万か。

 私の居場所を探し当てるために、どれほど多くの蝶を彼は世に放ったのだろう。


 彼は精霊王と契約できるほどの絶大な魔力の持ち主だ。

 しかし、大量の蝶を放って平気なわけがない。


 どれほど心身の負担になったことか。

 それでも、彼は私のために無茶を押し通してくれた。


 私の無実を信じ、聖女ではないただの私を大切に想ってくれる人は、ちゃんといた。


「――っ」

 堪らず、私は泣いた。

 声を上げ、子どものように泣きじゃくった。

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