◆
次の日、細田はとんでもない決意をした。
入嶋と萩原。この二人が本当に何かしらの関係性を結んでいるのだろうか、事実を知りたかった。そのため、何か決定的な証拠を確認するまで、後を追ってみよう、と考えたのである。
その日、細田は定時になったら、すぐに会社を出た。そして、ビルの出入り口から少し離れたところで、入嶋か萩原が出てくるのを待つ。
まず、出てきたのは入嶋だった。
一人ではないか、と安心したのも束の間、十秒も経たぬ間に、萩原が出てきて、小走りで入嶋に追いつくと、二人で駅の方へ歩き出した。
細田は二人に悟られないよう、距離を置いて、追跡を開始する。遠目で見ると、二人は親し気に見えた。駅のホームは混み合っていて、細田が油断すると、すぐに二人を見失ってしまった。焦ったものの、入嶋がどこの駅で乗り換えるか知っていたため、何とか彼女の背中を見つけ出した。だが、萩原の姿はないようだ。
ここで帰れば良かったのだが、細田は変な好奇心が働いてしまった。彼女はどんな家でどんな暮らしをしているのだろう、と考えてしまったのである。
細田は彼女が降りた駅で降りた。改札を抜けた彼女の後を追う。こんなことをして良いわけがない。そう思いながらも、細田はやめられなかった。歩けば歩くほど、彼女のプライベートに迫る気がして、止められないのだ。あのコンビニを通り過ぎるまで、あの角を曲がるまで…そう考えて区切りを付けようとするが、無駄なことだった。
しかし、細田は突然、彼女を見失ってしまった。
閑静な住宅街で、いつ彼女がどこの角を曲がったのかも分からなかった。暗闇の中で、途方に暮れたが、すぐに細田は「これで良かった」と思い直す。帰ろう、と踵を返したときだった。
「細田さん?」
どこからか、入嶋の声が聞こえた。細田は咄嗟に走り出す。言い訳を考えるとか、別人のふりをするとか、そんなことを考える余裕はなかった。ただ、この場から逃げ出さなければ、という気持ち一つだけだったのだ。
細田は電車に乗り込んでから、死ぬほど後悔した。
どうして、あんなことをしてしまったのか、と何度も自分を責める。そして、入嶋に見られてしまい、彼女から
「どうして、あそこにいたのか」
と問われたら、何も返す言葉はない。終わった。彼の中にあった、生涯で初めて芽生えた青春の蕾のようなものは、永遠に失われてしまったのだ。
それでも、その次の日は、会社で顔を合わさなければならない。細田が出社して間もなく、入嶋もやってきたが、彼女はその件について、触れることはなかった。それどころか、視線を向けることすらない。
きっと、二度と彼女と会話することはないだろう。いや、もしかしたら、この仕事を辞めてしまうかもしれない。もしくは、自分がやめるべきではなのだろう。
もし、この仕事を辞めたとしたら…自分は他でやっていけるだろうか。何の才能もなければ努力もできない自分が、社会の荒波の中、真っ当に生きて行けるのだろうか。きっとできない。自分はどこかで挫折する。そしたら、少しずつ自分の将来は閉ざされて行くに違いない。
細田はそんな恐怖に、数日もの間、悩まされることになる。
だが、そんな細田を地獄の底に突き落としたのは、入嶋ではなかった。
ある日、細田が一人で昼休みを過ごしていると、珍しく萩原が一番に戻ってきた。いつもなら、何人も引き連れて、騒がしくオフィスに戻ってくる彼だったが、なぜか一人だった。
細田の左斜め後ろに位置する、自分のデスクに座った萩原は、荒々しくキーボードを叩き始めた。それを耳して細田は、彼が上機嫌なのか、それとも不機嫌なのだろうか、と勘繰ってしまった。すると、萩原が突然、細田に声をかけてきた。
「そう言えば、細田さんさぁ」
振り返ると、萩原はパソコンのモニターに目を向けたまま、口元には微笑みを浮かべていた。それを見て、細田は不吉な影を感じた。そんな不吉な表情のまま、萩原は言う。
「なんか、入嶋さんのストーカーしちゃったんでしょ?」
そして、視線が細田に向けられる。細田は何も言葉が出てこない。ただ、一瞬で今まで感じたことがない、冷たい汗が背中をつたうばかりだ。そんな細田に、萩原は半笑いのまま言った。
「良くないと思うよ、そういうの」
誰から聞いたのか。まず聞きたいことはそれだった。しかし、細田は動揺に震えるばかりで、言葉が出ない。それなのに、萩原は細田の感情を読み取ったかのように、続けて言う。
「俺が知っていると思わなくて、びっくりしたでしょ。でも、入嶋さんから聞いちゃったんだよねぇ」
細田にとって、その言葉は、ナイフで刺されるに等しかった。入嶋が、萩原に悩みを打ち明けるように、自分の話をしたのだろう。だとしたら、彼女にとって、自分は唯一心を許せる人間では、なくなってしまった。今では、自分よりも、萩原の方を信じているのだ。萩原はさらに続けた。
「困るんだよね、俺も。自分の女に、変な男が付きまとっていたらさ」
それから、細田の生活は地獄だった。
仕事中、萩原の声は大きく、稀ではあるが、それに入嶋も返事する声も聞こえてきた。萩原の声は弾んでいるようだったし、入嶋の声もどこか親しさを含めているようにも思えた。
それを耳にしながら仕事をするのは、常に怒りの炎によって、自らを焦がしてしまうようなものだった。指一つ動かすにも、息をするにも、強い怒りと自己否定に襲われる。何度もそれを封じ込めようとした。何度もそれを忘れるために、どこかへ消え去ろうとした。
しかし、彼はそんなことをできるほど器用ではなかったし、勇気ある男でもなかった。そして、だからと言って、溢れ出る感情を自分自身に向けることすらできなかった。
そんな彼が、行き着いた考えは、この怒りを他人にぶつけるしかない、ということだっいた。
どうして自分がこんなにも苦しむことになってしまったのか。自分は悪くはない。自分の気持ちを弄んで、混乱させたのは、あの女ではないか。
あれは誘惑だった。秘密の約束だった。それなのに、裏切ったのだ。
しかも、あれだけ軽薄な男を選んで、自分を貶めようとした。何が正しいのか、教えてやらなければならない。
細田は一つの計画を立てた。
入嶋の家に押し入ってやるのだ。彼女の後を付けて、家に入る瞬間に押し入ってやる。そして、刃物で脅して言うことを聞かせてやるのだ。
逆らえば、容赦しない。
少しずつ痛い目に合わせながら、自分に服従させてやる。
あの女が自分に助けを乞い、すべてに従うと言ったときの爽快感は、きっとどんな幸福にも勝るものはないだろう。
それが自分の生きる目的となった。そのために、生まれてきたとさえ思えた。自分の生きる目的が定まっているとは、これ程にも楽しいものなのか。
細田は自然と笑みが零れた。目標が決まったのなら、躊躇わない。後は行動に移すだけだ。細田の思考は今までにないほど、淀みなく、清らかに流れて行った。
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