◆
次の日も、初日とそれほど変わらなかった。
簡単な仕事や単調作業を教え、空いた時間に自分の仕事を進める。そんなことをしているうちに、あっという間に午前中が終わる。
「入嶋さん、今日もランチ、皆で行かない?」
入嶋にそう声をかけたのは、昨日と同じく萩原だった。萩原は細田からすると、如何にも軽薄に見える男だ。茶髪で無精髭を生やし、スーツも着崩している。上司が不在であれば、仕事とは無関係の話をして、二言目には
「飲みに行こう」
と口にするのだ。そんな男なのに、女関係では困っていないらしいから、細田は人間というものが信じられなかった。
きっと、男性にとっては軽薄に見えるような男でも、女性はこういう男が頼りになるように見えるのかもしれない。芸能界でも、だらしなさそうな男と清純派と言われるような女優が結婚することだってあるくらいだ。
きっと、入嶋も萩原の誘いを受けて、一緒にランチに行くことになるだろう。もしかしたら、数か月後には萩原から、入嶋に関する聞きたくもない話を聞かされることになるかもしれない。
細田はそんなことを考え、できるだけ心の耳を閉ざして、感情も閉ざすようにした。しかし、細田は予想もしなかった言葉を聞く。
「すみません、私…昼食を持ってきているので」
入嶋は、萩原の誘いを断ったのだ。萩原は
「そうなんだ。じゃあ、また今度」
と言って、他の社員たちと外に出て行ったが、内心では気に入らないと思っているだろう。そういう男なのだ。
だが、入嶋はそんなことは気にしないのか、淡々とした様子でバッグから包みを取り出すと、手作りと思われる弁当を広げた。気付けば、オフィスには細田と入嶋の二人きりである。細田にとって、オフィスに誰もいない昼休みの静けさは、唯一気が休まる時間だったのに、それが失われてしまった。
細田が思った通り、二人の時間は異様な緊張感があり、細田は呼吸するのも慎重になった。二人だけだからこそ、自分の気持ちの悪さが、相手に伝わってしまう機会は多い。細田はできるだけ気配を消した。
「お昼、食べないんですか?」
入嶋に聞かれ、細田は驚きのあまり肩が持ち上がった。
「食べますよ。後で…コンビニに行くから」
「外食はしないんですね」
「そうですね、騒がしいところが好きじゃないというか、苦手だから」
「……私もです」
細田の思考が、一瞬止まった。
少し茫然としてから、どういう意味だろうか、と考える。
いや、意味なんてないはずだ。ただの共感ではないか。
それなのに、なぜか入嶋の一言に意味があると思っているのだろうか。細田は自分の浮き立つような気持ちがあることを、必至に否定した。
別に、誰もが賑やかな場所が好きとは、限らない。入嶋のような華やかに見える女性だって、それは同じのはずだ。細田は自分に苛立つ。
なぜ、自分のような人間が、ただ二人きりの空間にいる、というだけなのに、意識しているのだろうか。
自己否定を繰り返し、何とか冷静を保った。せっかくの昼休みに、これだけ疲労を感じていては、身が持たない。これが毎日続いたら、どうすれば良いのだろうか。それなのに、毎日…と考えて、口元が緩みそうになった。
いや、そうではない。
今日だけのこともかもしれない。
だとしたら、窮屈な時間が続くわけではないし、変に気持ちが浮き立って苛立つこともないはずだ。冷静になろう。細田はそう思うようにした。
それなのに、次の日も、また次の日も、入嶋は昼食を細田の隣で食べるのであった。
入嶋の歓迎会をしよう、という話があった。
萩原が幹事となり、店から日程、出席者まで取り纏められる。出席の意思があるものは、萩原が作った用紙の、自分の名前のところに丸を付けなくてはならない。それはクリップボードに挟まれ、共有デスクの上に置かれていた。
入嶋はそのデスクの横を通る度に、その紙を確認しているらしかった。どうやら、誰が出席しているのか、気にしているらしい。
歓迎会の出欠の期限が迫ったある日のこと、昼休みの時間に入嶋が声をかけてきた。
「あの、細田さんは…歓迎会、出てくださらないのですか?」
意外な質問に、細田は返事を忘れた。細田は会社のメンバーと外食することだけでなく、飲みに行くことも稀だった。それが、歓送迎会だったとしても、自分のような人間がいては、空気を悪くしてしまうだけだろう、と考えている。
今回も、きっと自分のような人間よりも、萩原を始めとする、賑やかしが得意な人間がいれば、入嶋からしてみても十分だ、と無意識に感じていた。
「僕、そういう場が苦手なので。申し訳ないのですが、欠席させてください」
細田は何とか笑顔を見せて、何とか印象を取り繕うとした。すると、入嶋は思ってもいないことを言った。
「特別な予定があるんですか? もしかして、彼女さんと大事な予定を入れているとか」
からかわれている。
そう思うと、顔が赤くなるのを止められなかった。
「そんな相手、いませんよ。どう見ても、そういうタイプじゃないし」
自分の照れ笑いが気持ち悪いのを知っていても、それをコントロールすることができない。入嶋がどう思ったかは分からないが、彼女は少しだけ身を乗り出し、距離を詰めて言った。
「そんなことはないと思いますけど…だったら、出てもらえないでしょうか。私、細田さんがいないと…不安で」
「ふ、不安?」
「はい」
彼女の目は、真剣そのものであるように見えた。本当に、細田を必要としている。そんな気にさせられたのだ。
「わ、分かった。うん、出席…します」
「良かった」
そう言って、入嶋が笑顔を見せた。そう言えば、彼女が入社してから、一週間は経過していたが、笑顔を見るのは、初めてのことだった。
歓迎会は会社の殆どの人間が参加した。十人と少しの会社なのだから、ほぼ全員と言っても良いだろう。その中でも、殆どの人間は入嶋と積極的に会話をしたいと考えているようだった。特に萩原はその傾向にあった。
だが、なぜか入嶋は細田の横から離れず、多くの人間と関わろうとしなかった。それでも、彼女の受け答えはしっかりしていたし、誰かを不快にさせるようなこともなく、笑顔も見せていた。
だが、その笑顔はとても控え目なもので、細田が見たものとは、随分違うものだった。萩原が自信満々で話し出した、過去の失敗談は、多くの人が声を出して笑ったが、入嶋はやはり控え目な笑顔を見せるだけである。
どうして、笑わないのだろう、と細田は考える。
愛想を振り撒けば、きっと多くの人に好かれるはずだ。いや、それは自分のような人間の浅はかな考えだ。入嶋は、これだけの美人なのだ。きっと、男に媚びを売る必要はないし、誰かに好かれようと心がけるつもりもないのだろう。
人に好かれる必要はない。その気持ちの根幹に何があるかは別として、自分と入嶋には、そういう共通点があるのかもしれない、と思った。
「細田さん、今日は本当にありがとうございました」
入嶋にそう言われたのは、歓迎会が終わって、駅まで向かう途中だった。何に礼を言われたのかは分からない。でも、入嶋とは上手くやれる気がした。
きっと、悪い人間ではない。
だからこそ、自分は不快にさせないよう、とにかく注意しよう。そんな風に思った。
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