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細田真は自分の人生は、暗くて不快な湿気に満ちたようなものだ、と評していた。
何をするにも、楽しくはない、ということはもちろんで、むしろ自分の考えや行動なんかは、何一つとっても、他人を不愉快にさせるものでしかない、と思っていた。
そんな考えをもとに思春期や青年期を過ごした彼は、もちろん自信に溢れた大人になることなく、背筋は曲がり、常に小声で喋るような男になった。
友達も少なければ、異性との経験も皆無と言って差し支えない彼は、就職も決して上手く行かず、それでも運良く、ネットショッピングを運営する、小さな会社に勤めることになった。
毎日、将来に希望を持つこともなく、うだつの上がらない暮らしを続ける細田だが、それでも特に不満はなかった。不満がない、というよりは、既に何も期待していないというだけだ。
そんな彼の人生に転機が訪れたのは、二十八歳になった日のことだ。それは、一人の女性が、彼の勤める会社に転職してきたことが、きっかけだった。
入嶋晴香。二十三歳。
短大を卒業後、クレーム対応の仕事をしていたが、精神的に疲労を感じて、転職してきたそうだ。
彼女を見て、細田は「美人だ」と思った。しかし、それ以外に何か思うことはない。どれだけ魅力的な人間に出会ったとしても、彼にとっては、決して関わることのない人間だ。せいぜい不快な気持ちにさせないよう、できるだけ距離を保とう。
その程度に思ったのだ。最初は。
「細田くん。入嶋さんの教育係、君にお願いするよ」
上司にそう言われたとき、正気を疑った。自分のような気味の悪い人間を、あれだけ良い人生を送ってきただろう女性と関わらせるなんて、考えなしにも程がある。下手をしたら、辞めてしまうのではないか、と。
「僕で良いんですか?」
と細田は言った。
すると、上司は眉を寄せて
「何だって?」
と鋭い視線を返す。
これは細田の声が小さくて、聞き返されただけなのだが、彼は「上司を不快にさせてしまった」と思ってしまった。
「何でもありません」
「そう、じゃあお願いね」
「はい」
細田はその日から、入嶋に仕事を教えることになる。
「よろしくお願いします、細田さん」
丁寧に頭を下げて、細田の隣に座る入嶋。緊張しているのか、表情に乏しい女だった。
もしかしたら、自分のような気持ちの悪い人間と一緒に働くことが嫌で仕方がないのかもしれない。
細田にできることは、可能な限り不快にさせないよう心がけるだけ。それでも向こうが不快に思うなら、我慢してもらうしかない。細田は申し訳ないと思ったが、気を使わなければならないのは、窮屈で仕方なかった。
昼休みの時間になると、細田以外の社員は外食するため、オフィスには彼一人になる。入嶋はどうするのだろうか、と考えていると、車内でも賑やかな性格である萩原という男性社員に誘われ、数名で外食へと出かけた。
細田は緊張しっ放しで、肩がこって仕方がなかった。やっと訪れた休憩に、細田は食事を取ることも忘れ、ただ感情をオフにして空虚を見つめるだけで時間が過ぎた。そうしている間に、外食に出ていたメンバーが戻ってきた。
「どうでしたか?」
と戻った入嶋に細田は聞いてみた。
本当に何となく、相手に不信感を与えないためにも、最低限のコミュニケーションは取っておこう、という気持ちで聞いただけだった。
「美味しかったです」
そう答える入嶋の顔には、笑顔はない。本当に嫌な想いをしなかっただろうか、と細田は疑問に思った。
「細田さんは、何を食べたんですか?」
唐突に入嶋に聞かれ、細田は何を食べたのか、考え込んでしまった。
「あ、食べるの…忘れていた」
「忙しかったんですか…?」
「そういうわけではないけど」
午前中は、入嶋に仕事を教えているばかりで、確かに自分がやるべきことは何もしていなかった。だとしたら、忙しいのはこれからだろう。食べておくべきだった、と少しだけ後悔する。
「あの、大したものじゃなくて申し訳ないのですが…これ、食べてください」
そう言って、入嶋が自分のバッグから取り出したのは、小さなチョコレートだった。
「あ、ありがとうございます」
「すみません、私のせいで、忙しい思いをさせてしまって」
「そんなこと、ないですよ」
チョコレートを受け取るとき、入嶋の手が自分の手に触れるのを感じた。自分の表情が変わっていなかったかと、不安に感じるが、彼女は特に嫌悪感を浮かべているわけではないようだったので、取り敢えず胸を撫で下ろした。
その後、細田は入嶋から受け取ったチョコレートを食べた。それは、どこにでも売っている、誰でも知っているようなチョコレートでしかなかったが、細田は初めて食べたような気がした。
午後も少し仕事を教え、何とか入嶋の初日を終らせられた。彼女の前で、変な発言もしなかったはずだし、気持ち悪い挙動も見せなかったはず。これからも、下手はできないと思うと、先が思いやられた。
それでも、彼は妙な達成感を覚えていることに気付く。この日を終えたとき、細田は珍しく、明日はどんな日になるだろうか、と考えていた。
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