第2話
如月がどうしても食べたい、と言う期間限定のハンバーガーを無事に購入し、店の前で信号待ちをしていると、また声をかけられた。
「す、すみません」
今度は先程の乱条とは正反対の声色で、振り返ってその人物を確認しても、やはり同じ印象を抱いた。何だか怯えているように見えるのだ。
ショートボブの黒髪に、黒縁のメガネ。服装も地味目でグレーのパーカーを羽織っている。人によっては冴えない女性、と形容するかもしれないが、新藤は乱条を見た反動のせいなのか、とても好印象を抱いた。
「はい、なんでしょう?」
女性の顔を見ると、どこかで見たことがある気がした。
「あ、あの…如月探偵事務所の方、ですよね?」
女性はどこか怯えているようだが、たぶん普段からこの調子なのだろう、と新藤は思った。
「はい。えーっと、どこかでお会いしました…よね?」
「あの、私…下に入っている会社で働いている、宮崎と言います」
「下に入っている会社…?」
「はい、二階の…」
「あー! はいはい」
何のことか、と首を傾げた新藤だったが、やっと彼女の言葉を理解する。新藤が勤める如月探偵事務所は、等々力ビルの三階に入っている。その下、二階には何をしているのか分からないような小さな会社があり、一階には如何にも流行らないだろう錆びれた蕎麦屋がある。
どうやら、宮崎と名乗った女性は、二階にある会社の従業員らしい。通りで彼女を見たような気がするわけだ。
「すみません」
と宮崎はなぜか謝った。
信号が青になったので、新藤はどうするべきなのか迷った。彼女もこの辺で昼食を済ませる予定か、ちょうど終えたところなのだろう。だとしたら、一緒にビルの方へ戻るべきなのか。そもそも、なぜ声をかけられたのだろうか。
「えーっと、僕は如月探偵事務所の第一助手、新藤晴人です」
取り敢えず、名乗られたのだから、名乗っておくべきか、と新藤は名刺を取り出す。
「あ、ご丁寧に。すみません、私…名刺を切らしていまして」
「あ、構いませんよ」
会話が終わる。
宮崎は新藤の名刺をじっと見つめ、一字一字を丁寧に頭の中に入れているみたいだった。そこで、新藤は「何か依頼があるのだろうか」と思い当たる。
「もしかして」
と新藤が言い掛けたとき、彼の携帯電話がけたたましく鳴り響いた。
宮崎も顔を上げて、新藤を見る。
「すみません、少し良いですか?」
新藤の問いに宮崎は頷いて、また名刺に目を落としたので、電話を確認すると、見知らぬ番号が表示されている。以前、仕事で関わった人間の可能性もあるので、新藤は取り敢えず電話に出てみることにした。
「おい、新藤くん。今どこだ!」
その声は、良く知る人間の声だった。
「あれ、成瀬さんですか? どうして僕の番号、知っているんですか?」
成瀬は警察の人間で、如月探偵事務所にとっては、時に情報を提供してくれる心強い男だが、時には敵に回る厄介な男でもある。新藤は彼と電話番号を交換するほど、親交を深めたつもりはなかったが、どこから入手したのだろうか。
「そんなことは、どうでも良い! 今は事務所か?」
「いえ、如月さんに言われて、ハンバーガーを買いに出てました。今から帰りますけど、何か…」
「まったく、君は本当に使えない男だ! ハンバーガーなんてどうでも良いから、すぐに事務所に戻れ!」
「え? 何でですか?」
「理由なんて後だ! 今は早く! 貴様のせいで葵さんが怪我したら、絶対に許さんからな!」
「如月さんが?」
新藤は電話を切ると、目の前にいる宮崎に言った。
「すみません! 僕、緊急の用事が入って、事務所に戻ります。何か困ったことがあったら、いつでも三階まで来てください!」
「は、はぁ。あの、でしたら…」
宮崎が何かを言い掛けたようだが、新藤は走り出していた。信号が赤に変わっていたので、迂回路を選択する。何があったか知らないが、成瀬の様子だと、如月に何かしらの危険が迫っているらしい。
昼休み中のサラリーマンたちをかき分け、等々力ビルまで全力疾走。五分はかかっただろうか。階段を一気に駆け上がり、三階の事務所に辿り着いた。
そこで、新藤は驚くべき光景を見る。
事務所のドアが開いていた。中を覗き込むと、事務所の中だけ台風でも発生したのか、と疑うくらいに荒れていた。いや、荒れ果てていた。デスクはひっくり返り、資料はぶちまけられ、窓ガラスまで割れている。
「……き、如月さん?」
如月の姿はどこに見当たらない。だが、新藤は彼女の無事を確認したいという一心で、もう一度彼女の名前を呼んだ。
「如月さーん!」
すると、事務所の隅にあったロッカーがひとりでに開かれた。そこから出てきたのは、白いブラウスに、ロングスカートを履いた、赤い髪の女…如月葵だった。
「し、新藤くん…!」
「如月さん!」
如月から「こんなときに何をしていたんだ、役立たず」と理不尽に怒られることを覚悟したが、彼女は意外な行動を見せた。床に散らばった資料やら家具やらを踏み付けながら、新藤のもとに駆け寄ると、まるで戦地から無事帰った夫を迎えるかのように、彼を抱きしめたのである。
「き、如月さん?」
「こ、怖かったよおぉぉぉー!」
泣いている。
「な、何があったんですか?」
しかし、如月は泣きじゃくるばかりで、何も答えない。如月葵は異能探偵と呼ばれ、数々の怪事件を解決してきた名探偵である。普通であれば遭遇しないような、奇妙かつ危険な状況を何度も掻い潜り、いくつもの修羅場を冷静に駆け抜けてきた人物である。その如月がこれほどまでに恐怖するとは、一体何が起こったのだろうか。
「き、如月さん…ほら、まずこれを食べて落ち着きましょう」
「うわぁ…十五夜バーガーだ」
恐らくは、トラウマ級の危機的状況に置かれていた人物が、ハンバーガーで落ち着きを取り戻すわけがないのだが、そこは流石の如月である。ハンバーガーを見ただけで冷静さを取り戻したようだ。
応接用のソファの上に散らばったものを退かし、そこに如月を座らせる。如月はハンバーガーを一口、二口食べると、表情を変えて行った。
「ふぅ、食べた食べた」
「それで如月さん…何があったんですか?」
如月はハンバーガーの包むを丸め、どこにと言うわけでもなく放り捨てると、溜め息を吐いた。そして、こう語り始めた。
「うむ。それは、あまりに突然のことだった」
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