視界が歪む。膝に力が入らない。


自分に何が起こっているのか、木戸は理解しようとしていた。そして、同時にこれまでの自分の人生がフラッシュバックしていた。


木戸康弘は、この社会をどうやって生きて行くべきなのか、全くと言って良いほど、分からなかった。


腹の立つことばかりだ。

人の自尊心を平気で傷付け、軽視し、侮蔑し、踏みにじろうとする。他人の言葉は木戸にとって、刃物を投げ付けられているようなものだったし、他人の視線は拳銃でも突き付けられているような気持ちになった。


他人からしてみれば、ちょっとした冗談や、取るに足らないような軽口なのかもしれない。まともな人間からしてみれば、何気なく向けた視線でしかないのかもしれない。


そんなことでも、木戸にとっては、大きな悪意を向けられているのと同じであり、それらから自分の身を守らなければならなかった。その手段と言えば、木戸は一つしか方法を知らない。拳を振るうだけだである。


両親に身をもって教えられたのは、それだけだったのだ。


しかし、そんな生き方が社会で順応できるわけがなかった。彼は高校を卒業して、すぐに働き出したが、どこに行っても長く続かなかった。一度も上手くやれなかったのだ。


そんな木戸にとって、唯一の安らぎは百地優花梨だった。


何度も同じことを繰り返す木戸に、優しく微笑んで


「大丈夫、次は上手く行くよ」


と言ってくれる彼女だけが、木戸にとって救いであり、まさに太陽のような存在だった。それなのに、百地が短大を卒業した頃、彼女は突然、木戸に別れを告げるのである。


「色々考えたの。でも、悪いけど…もう一緒にはいられない」


それでも、彼女が木戸の前に姿を現すことはあった。思い出したかのように、木戸の前に現れて、一晩過ごすと幻だったかのように消えてしまう。彼女は昔とは違い、表情も少なく、本当に幽霊みたいだった。だが成仏するように、彼女が現れる頻度は少しずつ減って、いつの日か全く会えなくなってしまった。ある日、彼女に電話をかけても、使われていない番号だとアナウンスされてしまったのだ。


彼女が自分を拒絶したのだ、と知っても、木戸は自分が軽視されているとも、侮蔑されているとも、思わなかった。怒りも湧くことはない。この頃になって、彼はやっと、自分が普通の人間と違って、この社会に順応できない人間だ、と気付いたのだ。だとすれば、百地が自分から離れたい、と考えて仕方のないことだ、と理解もできた。だから、今まで自分に縛り付けてしまっていたことを、むしろ申し訳ないとすら思った。




それから、木戸の人生は、我慢だけの毎日になった。自分が間違っていると気付いたところで、人の言葉は恐ろしく、人の視線は耐え難いことに変わらない。針の山を進み続けるような日々。これが続き、いつの間にか力尽きて、そのまま死んでしまうのだろう。木戸はそう思った。


我慢したところで、彼が社会と上手く付き合えるかと言えば、やはり別の話である。どうしても、ただ我慢するだけで、仕事ができるわけではないし、周りに認められるわけでもない。彼は職を何度か変え、ただ食つなぐだけの日々だった。長くは生きられないだろう、と思い出すように考えることが増える。


そして、そんな時間は不安を感じるだけでなく、過去の想い出も再生される瞬間だった。彼にとって、過去とは、百地がいた時間のことだ。自分が社会から弾き出されてしまうような感覚に襲われる度、百地のことを思った。


彼女がいれば、この苦痛が和らいだかもしれない。


彼女がいれば、不安に襲われても立ち上がれるのかもしれない。


彼女がいれば、自分は変われるのかもしれない。


これは傍にいてくれた彼女を大切にできなかった自分への罰なのだ、と考えた。もし再び、彼女が自分の傍にいてくれるなら、何だってしよう。すべて彼女の言う通りにして、彼女が喜ぶように、彼女が願うままに、そのためだけに自分という命を捧げるのだ。


しかし、どんなに考えても、それは「もしも」の話でしかない。失ったものが、都合よく帰ってくることなど、なかった。彼女が再び木戸の前に現れることはなかったし、生活が変わることもない。


緩やかに老いて、ただ死を待つ。ますます、そんなことを考えるようになった。




木戸が再会を諦め、緩やかに死へ向かう人生を受け入れ始めたとき、彼の前に太陽が再び現れた。


木戸が休日、何もすることなく、家で横になっていると、家の戸が叩かれた。高校生のとき、親に追い出されて、この家に住むようになってから、誰かが訪ねてくることはなかった。何かの勧誘すらなく、百地が去ってしまってからは、自分が出入りするだけだったはずのこの家に、人が訪ねてきたのだ。


木戸は嬉しいわけでも、怪しむわけでもなく、無感情に扉を開けた。すると、太陽の光を背に、女が立っていた。


優花梨だった。


木戸にとっては、本当に太陽が目の前に現れたかのような奇跡だった。


「ヒロ…よかった、ここにいて!」と彼女は言った。


懐かしかった。

自分の名前を親し気に呼んでくれる人が、目の前にいるというだけでも、彼からしてみたら、非現実的だった。しかも、それが優花梨だということは、奇跡としか言い様がない。


なぜか涙を流し始める彼女を家に入れ、何とか宥める。少しずつ、自分の状況を話し出す彼女だったが、昔と全然変わらない態度に、少し驚いた。


彼女はいつからか自分に冷たくなって去ってしまったし、他のどこかで幸せになっていて、自分のことなど忘れているか、恨んでいるかのどちらかだろう、と考えていたから。


だから、木戸は優花梨という存在そのものが、何かおかしいことに、すぐ気付いた。それだけではない。彼女がここまでやってきた経緯…それも奇妙なものだった。


「昨日、夜にコンビニへ行こうと思ったんだけど、外に出たら急に具合が悪くなって…それで財布を忘れていたから、家に戻ろうとしたら、なぜか鍵が合わなくて入れなかったの。電話も持ってなくて、途方に暮れていたら、急にドアが開いて。助かった、と思ったら別の人が出てきたの。ついさっきまで、私がいたはずの家なのに、知らない人が出てきたんだよ? それで私、怖くなって…」


それで優花梨は、一晩かけて、何とか徒歩で木戸の家までやってきたらしい。木戸には何が起こっているのか、理解できなかった。状況を整理するにも、優花梨の方も混乱していたため、とにかく一緒に優花梨の家に行ってみることにした。


優花梨の家の前で、住人が出てくるのを待った。案外、早く出てきたので、すぐに問い詰めると、その男は数年も前からここに住んでいる、と言い出した。部屋の中まで見せられ、それを証明されてしまったので、木戸も優花梨も何も言うことはできなかった。


木戸は優花梨を泊めることにした。混乱して何度も同じ内容の話を繰り返す、優花梨に木戸は黙って耳を傾ける。だが、少しずつ落ち着きはじめると、優花梨は言うのだった。


「なんか、ヒロ…変じゃない?」


木戸は自分も奇妙に思っていることが、たくさんあったが、それを説明する自信はなかった。お互いに不安と不審を抱えていることはあったが、その日は休むことにした。




次の日、木戸は仕事で出なければならなかった。優花梨はその間、友人に会って、自分に何が起こっているのか探ってくる、と言ったので、交通費と自由に使える資金、それから部屋の合鍵を渡した。

仕事中、木戸は優花梨の存在が何かの幻なのではないか、と不安に思った。しかし、帰ってみると彼女はそこにいた。ただ、百地は深く傷付いている様子だった。涙が止まらず、やはり混乱している。木戸はどうにかしてやりたかった。


「お前が困っているなら、何でもする。もし、お前の助けになれるなら、俺はすべてを捨てる覚悟だ」


そう言う木戸に、優花梨は少しだけ笑顔を見せた。


「ありがとう、優しいんだね。でも、ヒロは…たぶん、ヒロじゃないんだね」


優花梨が何を言っているのか、木戸には理解できなかった。だが、一週間後、彼女がどういう状況に陥っているのか、木戸も理解することになる。

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