貫通
増田朋美
貫通
その日は、雨が降って、なんだか寒い日であった。朝は暖かかったが、昼は日が出ないせいで気温が上昇しなかった。こんな寒い日もあるのに、翌日が晴れれば16度まであがるというから、なんだか非常に落差が大きな気候になったものだ。日本も中東のドバイとか、そういう場所と、同じようなくらいの暑さになってしまうかもしれないと思えば、、、。なんだか、辛い思いをしてしまうものだ。
そんなふうに、天候が不安定になってしまうと、精神も不安定になってしまう人が出てくるのだろう。今日も、製鉄所を利用したいという女性が、製鉄所にやってきた。名前は野田瑶子というちょっと風変わりな名前だが、そのような奥ゆかしいところは何もなく、目の下に大きなクマをこしらええていて、ぶくぶくに太った、おばけキノコのような女性だった。一緒に連れてきた母親が、えらく小さくて、それで激しく疲労困憊している姿を見て、ジョチさんは、彼女が抱えている事情がなんとなくわかってきたような気がした。
「野田瑶子さんですね。それでは、ちょっと教えてください。まず初めに、診断名はなんと言われていますか?」
ジョチさんは、そう彼女に聞いた。
「ええ、お医者様には、統合失調症と言われています。」
と、代わりに、母親がそう答える。それならもう病気のことについて詳しく聞く必要は無いとジョチさんは思った。それに、そういう診断名をつけられていたとしても、症状は人によってかなり違うので、教科書どおりの症状を出す人は、極めて稀であったから、聞かなくてもいいと思ったのである。
「そうですか。わかりました。それでは、こちらでしばらく過ごしてみましょうか。まず、利用時間は、10時から17時まで。これはちゃんと守っていただかないと困ります。少なくとも、子捨ての場ではありませんから。ちゃんとご家族の前で過ごす時間を作ってください。それは約束してくれますね。」
ジョチさんがそう言うと、野田瑶子さんの母親は、すぐに落胆の表情を見せた。
「そんな顔されたって、ルールを帰ることはできませんから。野田さん、それはちゃんと遵守していただかないと。それに、瑶子さん自身も家の人達に見捨てられたという意識を持たれてしまうと、これは非常に難しいところになります。それを矯正するのは大変なことですからね。まず初めに、親子の信頼関係は、保持してもらわないと。」
ジョチさんは、そう瑶子さんのお母さんに注意した。
「そうですか。私が楽になれるというわけでは無いのですね。」
「はい、ありません。」
ジョチさんは即答した。
「そういうところと勘違いされては困ります。それに、そういう人を頼みたいなら、引き出しやと呼ばれる職種を頼ったほうが良いと思います。ただそうなると、瑶子さんはお母様に見捨てられたことで、大きなキズを残すと思われますが、それは覚悟してください。僕たちは、親御さんをらくしてあげる福祉施設ではなくて、あくまでも居場所を作ってもらって、友達を作ってもらうという目的でやっている事業ですから、それは、勘違いなさらないでください。」
「そうですか。でもそれでも良いです。短時間だけでも、私が一人になれるのなら。それに、瑶子もしらない人と話をして、ちょっと、感じすぎるのをやめてくれるようにしてくれれば、それで良いと思います。」
お母さんはそう言っていた。ジョチさんは、
「それでは、瑶子さん本人に伺いますが、家を離れて、こちらに来ることに抵抗というか、見捨てられた気持ちはありますか?」
と、瑶子さんに聞いてみた。
「ええ、来る前に話し合って置きましたから、」
とお母さんがすぐに答えてしまうが、ジョチさんはそれを止めて、
「お母さんに聞いているのではありません。瑶子さんに聞いているんです。」
と言った。
「いえ、この子もちゃんと行くと言ってくれましたから、大丈夫です。まさか本人に来る意志が無いから中止するとかそういうつもりでは無いでしょうね。」
お母さんは思わず本音を暴露してしまうが、
「大丈夫です。どうせ私なんか誰にも必要となんかされてないんです。どこへ行っても、私は、いらない人間でどうせほったらかしなままでしょう。それなら、家を離れて、ここへ来たほうがよほどマシです。大丈夫です。私は、どうせ行くところも無いし、脱走したり、秩序を破ることもしませんから。安心してください。」
と瑶子さんは言った。それはある意味重大な問題でもあった。もし瑶子さんの言うことが事実であれば、必要とされる人間になるまで訓練が必要だと言うことになるからだ。世間というか、世の中は、人間を必要としていない。いわば、人間は金を得るために働いて、働かせる側も、ただ自分の事業をされるために、人間を利用しているだけに過ぎない。それを知っておかないと、人間は世の中を渡り歩くことはできないのである。
「わかりました。」
ジョチさんは、瑶子さんの言葉を聞いて言った。
「じゃあ、そういうことでしたら、利用していただいて大丈夫です。毎日来てくださってもいいですし、特定の曜日だけ来てくれるという利用の仕方でも構いません。それはご本人に任せますから、好きなやり方でこちらにいらしてくれて大丈夫です。ただ、お母様と人間関係がこじれてしまうようなことはしてはいけない。これが第一条件です。」
「ありがとうございます。少しだけでも私が自由になれましたら、また接し方も変わってくるのではないかと思います。」
「ええ、そうしてください。欧米ではとっくにそういうことは平気で行われています。そして、ご家族の方は、専門家に引き渡すのが最善策であるということも行き渡っています。子供さんが精神的な問題を起こした場合、ご家族だけでなんとかしようと思うのは大きな間違いです。それを日本では、無理やりやろうとしてしまうから、子供さんはなかなか解決しないんです。それを望んでいるのなら、どうぞお楽しみくださいませ。」
そういうお母さんに、ジョチさんは、すぐに言った。瑶子さんはもう自分はいらないんだと言うようなかおをしている。お母さんはやっと、自分が子供の呪縛から解放されたという顔をして、ではよろしくお願いしますとだけ言って、瑶子さんをおいて帰ってしまった。
そんなわけで、野田瑶子さんは、製鉄所の利用者の一員となったのだが、何よりも彼女が抱えている問題は、気分の切り替えというか、仕方ないとか、そう思うことができないことであった。だからこそ、それを切り替えるために薬を大量に飲んで意識をなくすとか、自傷行為を繰り返してきたと彼女は言っていた。それがなぜ、獲得できなかったのかは不詳だが、その理由を探しても仕方ない。それよりも彼女をどのように今の世の中に順応できる人間にするか、が大事なところだった。とりあえずジョチさんは、八重垣麻矢子さんと相談して、彼女を、家事使用人として、働かせることを目標としてあげたのだが、多分それも、難しいと思われた。それくらい、彼女は、気持ちの切り替えというものができなかった。ちょっとしたトラブルでもすぐ泣いた。そして薬を大量に口へ放り込み、意識がなくなるまで飲む。その後は強烈な便秘になったり、食欲がわかなかったりすることもあるので、食事もままならない。そんな女性だった。毎日、10時にやってきて、17時に帰っていくのであるが、テレビのニュースを見て怖いと泣き出したり、他の女性たちが話していることに反応して泣き出したりして、なんだかこの世に居るのが可哀想なくらいになるほど、よく泣きはらす女性だった。
「困りましたね。」
ジョチさんは、瑶子さんが帰っていくのを眺めながら、思わずそうつぶやいてしまった。
「彼女は、多分ですけど、感じすぎるのでしょうね。痛いとか、辛いとか、そういうところを感じすぎる。だから、この世にいられないというのもよくわかります。」
「でも、そういう人間であっても、いきていなければならんのだよね。彼女が自殺でもしたら、僕らも自殺幇助で逮捕されちまうんだぜ。」
人参を切りながら杉ちゃんが言った。
「そうですね。あの有名な歌舞伎役者も、大スターだったのに、自殺幇助で逮捕されちゃいましたからね。それとは違っても、僕たちは、そうなってしまうのかな。」
ジョチさんは、大きなため息をついた。
「それならどうしようって言うんだよ。」
杉ちゃんが言うと、
「まあ、とにかく仕方ないと思うことができないというのは、非常に重大な問題だと思いますよ。世の中、叶うことより、仕方ないと言って諦めることのほうが圧倒的に多いことを、彼女に知らせる必要があるでしょう。そして、社会はお金をつくる道具としか人間を必要としないことも教えないとね。」
ジョチさんはそういった。
「そういうことは本来、学校で教えてもらうはずなんですがね。あの感じすぎるということは、彼女の生まれ持った特徴なのかもしれませんが、それをきちんと薬を飲んで治療するということが必要であると、担任教師や、そういう人たちは、教えなかったんでしょうね。きっと、扱いにくいお荷物さんと見てしまったんでしょう。非常に難しいですね。そういうちょっと他の人とは違っている生徒さんを受け持った場合、担任教師がそれを矯正して、正しい方向に導いていくという本来の役割ができていない教師が多すぎますよね。」
「ほんとだほんとだ。それに、学校の先生なんて、大声をあげて怒鳴れば、すぐに従わせられると勘違いしちまう先生が多すぎるんだよな。本当は、感情をぶつけちゃいけないってよく言うじゃないか。ほんと、理想的な人間を作り上げるのには、なんか難しいものがあるよね。」
杉ちゃんとジョチさんがそういう事を言い合っていると、四畳半からえらく咳き込んでいる声が聞こえてきた。多分咳き込んでいるのは水穂さんだ。それを、製鉄所の他の利用者が、水穂さん薬を飲みますかなんて声かけをしている。
「水穂さんも、いきているだけの人だけど。」
杉ちゃんは、ちょっと考えるように言った。
「それでも、彼は、いなくても良いとか、そういうことは感じないんだよね。なんでかなあ。水穂さんは、大事な人だと思っちゃうんだよな。」
「ええ、確かにそうですね。」
ジョチさんも、そう感慨深くなるように言った。
「それは、なにか理由があるのかな。なんか理論があるのかな?水穂さんの事を、必要ないと思わなくなる理由がさ。」
杉ちゃんが言うと、
「そうですね。僕も、彼にはピアノレッスンなどで必要であるということはわかりますが、それ以外、理論的にどうなのかというと答えが浮かびません。それはやはり、僕たちが人間であるからだと思います。なんだろう、様々な理論があるんだと思いますが、それに当てはまらないで、相手にいてほしいと思うこともあるんですね。」
ジョチさんは考え込むように言った。
「そうなんだね。じゃあ僕らも完全に理論で生きている人間では無いってことだよな。それを忘れないで、生きていかなくちゃならんな。あの、野田瑶子さんのような人間は、悪いことには敏感だから、僕らが、感情ででまかせに言ったら、それをかんじとって、気に病んでしまうことうけあいだぞ。」
杉ちゃんに言われてジョチさんは、
「そうですね。」
と小さく言った。
「結局のところ、感動とは感じて動くということです。相田みつをさんが、理屈で動くということはないとおっしゃっていましたが、人間の最終決定権は、理論より感情であることは、忘れてはいけません。」
二人は、大きくため息をついた。結局そういうことなのだ。相田みつをさんの言うことは間違ってはいない。そしてもう一度言うが、人間は理屈で決定するのではなく、感情で決定するのである。そして、野田瑶子さんのように、心が病んでいるとされる人たちは、その決定権を正常に下せないという状態なのであった。
その次の日。野田瑶子さんは、いつもと変わらずに、製鉄所へやってきた。お昼時になって、杉ちゃんは昨日ジョチさんと話して計画した事を実行してみることにした。瑶子さんに、いわゆるミールキットというものを使って、料理を一品作らせるという作戦である。杉ちゃんは、瑶子さんが食堂に入ってくるのを確認して、
「ようお嬢さん。あのさあ、悪いけど、お料理作ってみてくれないか。何、ただ、料理を敷き詰めて、オーブンで焼くだけのことだ。これで、全員分の料理を作ってくれ。味付けは、この小袋の中にある味のもとをつかえば大丈夫だ。よろしくお願いします。」
と言って、彼女に、ミールキットの袋を渡した。中に入っていたレシピを確認すると、ポテトのグラタンと書いてあった。作り方は確かに簡単だ。電子レンジで、細かく砕いたポテトを加熱し、そのままホワイトソースと付属の味のもとを入れて混ぜて、あとは電子レンジのトースター機能で焼いてしまうだけである。
「わかりました。やってみます。」
と、野田瑶子さんは素直にそれを受け取って、まずじゃがいもを切り始めた。じゃがいもは主役ということもあり、大量にあった。それを包丁で皮を向き、水につけてしばらくおいてアクを抜く。野田さんは、包丁の使い方に慣れていないせいか、その作業だけでも20分の時間を要した。それだけでも偉く疲れてしまったようだ。次に耐熱容器にバターを塗り、じゃがいもをその中に入れる。そしてラップを掛けて、電子レンジで、5分ほど加熱して柔らかくするのである。それも野田さんはしっかりこなした。電子レンジの操作の仕方も最近はちゃんとわかってくれているようだ。そして五分経って、耐熱容器を取り出すのであるが、それもやけどするのが怖いようだったけど、取り出すことができた。その次は、その中にホワイトソースと、味のもとを投入する。瑶子さんは、ホワイトソースの缶を開けて、急いで中身を取り出してまんべんなくじゃがいもにかけた。味のもとは、小さな袋を開けて、中身を取り出せばいいだけだ。ホワイトソースと味のもとをあえて、全体に切ったチーズをまぶす。
ところが、あとは焼くだけという時点で問題が起きてしまった。
「ああどうしよう。どうしたら良いのかしら。」
瑶子さんは、電子レンジの前で、困った顔をしている。
「電子レンジにトースター機能というものが無いのよ。それで10分焼けば出来上がりなんだけど。」
でも誰も、彼女に教えてくれそうな人はいなかった。ジョチさんも書き物の仕事で忙しく、杉ちゃんの方は、水穂さんに着物を着させる手伝いをしている。いわば手が離せない状態だった。
台所でまた泣き声がしてきたので、誰かが立ち上がった。杉ちゃんが止めても、彼は放っておけないといった。
瑶子さんが、台所で泣いていると、水穂さんが現れて、一体どうしたのと優しく聞いた。なんだか小さな子どもにしているみたいな態度だったけど、そうしなければ、彼女は自傷行為やオーバードーズに走るかもしれないし、それを止める必要があった。
「この電子レンジにトースター機能というものが無いんです。それだから、グラタンを焼くことができないんです。」
彼女のような人は、泣いている内容を、成文化させるのが難しいのだった。だけど、彼女は今そういうことができたのであれば、あまり重大なダメージではないと言うことかもしれなかった。
「そうですか。それなら、オーブン機能で焼いてみますか。とりあえず、グラタンというものは、200度から250度くらいで焼くのが適切ですよね。」
水穂さんはそう優しく言った。
「それを何分焼くんですか?え?どれくらいすればいいの?そして、ソフト仕上げとかそういうことはどうしたら良いのですか?え!え!え!」
だんだん言葉になっていなくなってしまうことが、彼女が病んでいる証拠でもあった。水穂さんはそっと彼女の肩に手をやって、
「まず落ち着きましょう。薬に頼ってはいけない。それでは、まず初めに、オーブンを200度で10分、予熱してください。ソフト仕上げは、グラタンなのでいらないと思います。」
と指示を出した。瑶子さんは、指示を得られて、なにかを得てくれたような顔をして、すぐにオーブンの操作ボタンを乱暴に押して、オーブンを余熱した。最近のオーブンは予熱も数分でできる。予熱が終わったと、オーブンが知らせてくれると、彼女は、オーブン皿に、グラタンの皿を乗せて、こわごわ、スタートキーを押した。その間も偉く緊張しているのだろう。ずっとオーブンが動くのを眺めていた。とりあえず、10分が終わった。水穂さんは、
「一度取り出してみてください。そして、じゃがいもの一片を出して柔らかくなっているか、確かめてください。そして、もし硬かったら、再度10分焼いてください。このとき予熱はいらないと思います。」
と指示を出した。その時の指示の出し方もコツが有る。絶対にやってはいけないことがある。それはこんなこともできないのかとか言って、患者さんを批判すること。それよりも次に何をしたら良いのかだけ、指示を出せばそれで良い。
瑶子さんは、熱いオーブン皿を取り出すのは、怖がっていたが、
「早くしないと、オーブンの電源が切れて、一度やったことも終わってしまいますよ。」
と水穂さんが言ったため、勇気を出してオーブン皿から、じゃがいもの一片を取り出し、箸をぐさっと刺してみた。そして、まだ硬いですねといった。水穂さんが改めて、もう一度10分焼いてくださいというと、瑶子さんはオーブンの操作盤を操作して、また10分焼いた。
やはりオーブンをずっと見つめていたが、どうやら10分経ってくれたようだ。オーブンのアラームが鳴ると、瑶子さんは、グラタン皿を取り出そうとした。ミトンをしても、非常に熱かったから、タオルを持って慎重に取り出さなければならなかったけれど、それでもなんとかして、グラタン皿を出した。そして、またじゃがいもの一片を取り出して箸を刺してみた。今度は、ちゃんと焼けていたようで、箸はしっかり貫通してくれた。
「良かった。オーブンを閉めてください。」
と水穂さんが最後の指示を出すと、瑶子さんはオーブンの扉を締めた。美しい笑顔になって、
「ありがとうございました!」
と言った。
貫通 増田朋美 @masubuchi4996
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます