第八話 ガッツ!
左脚はぴんと立てたまま、右足でリズムを取る。
落とした視線の先に映る自分に合わせ、右手を前に出す。次に、手を振る動きに右脚を追わせていくように大きく回し体の向きを右へと変える。
問題ない。どこかが欠けているようにも見えず、流れも粗なく綺麗だ。特訓の成果は間違いなく反映されている。これなら―――
「ひとみ」
「……あ、はい!」
審査に使った動画を見返していたところを、
待たせたわね、と笑う月乃に手を振ってそんなこと、と返しながらも、ひとみは自分が想像以上に落ち着けていないことを改めて自覚した。
既に、一次審査の締切から十日が経過していた。左枝たちによれば、もうじき審査の結果、そして通過していれば二次審査の詳細な内容が通達される頃合らしい。
絶対に通過している、という自信はある。しかし、初の大型オーディション、加えて大手事務所にいるアイドルからのライバル視という事実はひとみの心を逸らせるに余りあるものだ。この先、二次予選からは直接ぶつかる可能性も飛躍的に高まってくる。そうなった時、
そこまで考えて、やめよう、と一度思考を断つ。それを考えなければいけないのは、実際に直接対決という事態に直面してからだ。それに、誰が相手になろうとやるべきことは変わらない。自分が審査員にとって能う限り十全に近いパフォーマンスをする、それだけだ。
「すぐ出るんですか?」
「いいえ、まだ少し待っていて欲しいそうよ。審査の結果も気になるでしょうけど、勉強も抜かりないって言える?」
いたずらな笑みを見せられながらも、ひとみは間髪容れずに肯定する。元より心配などしていなかったのか、月乃も満足そうに頷いた。
と、廊下の奥でエレベーターの扉が開く。自然と吸われた視線の奥で、慌てた様子の前野が飛び出してきた。かなり急いでいる様子で、途中で躓いて靴を片方落とすのが見えた。
やがて二人の元へやってくると、興奮を抑えられないと言わんばかりの勢いで尋ねてくる。
「今事務所二人だけ!?」
「はい、どうしたんですか?」
「出たの! 一次審査の結果!」
その一言で唾を飲み、頬に冷や汗が伝った。これだけ急いで、それも直に報告に来たということは、余程良い報せか余程悪い報せのどちらかだろう。
拳を握り、覚悟を固める。
―――大丈夫。わかりきっていることを、通過したっていう事実を聞くだけ。絶対通ってる。私たちも、ましろたちも。
「……聞かせてもらえますか」
☆
内容はオーディション運営から届いた通達を一部抜粋したものだが、楽園から出場した十二組は全ユニットが一次予選を通過していた。とはいえ、これ自体は二人にとって当然、ひいては自分たち以外の結果は眼中にないと言ってもいい。自分たちは大手のアイドル、レッスンの質も仕事の量も他とは大きく違う。それでなお落選するようであれば努力が足りないだけ、という考えは二人の間で一致していた。
だからこそ、睨みを効かせるのは続く二次予選の詳細。
「礼、次で当たるかなー、って思ってるでしょ?」
どこか茶化すような聞き方をしてくる朱鳥を、礼は大して気にも留めず端的に返す。
「少しね。でもその必要は感じないっていうのが大半。あの実力を買うなら、今当たっても面白みがないでしょ」
「叩きのめすなら生放送で、ってこと?」
そこまで乱暴にするつもりはない、とでも言いたそうに訝しげな視線を投げながら、礼は画面を閉じる。
「やるならできるだけ高い位置で競いたい、っていうこと。それに、二次審査まで通過できないようなら私の……
「向こうは一次で落ちてるかもしれないしね」
身も蓋もない言葉は無視して、冷淡に言葉を並べながら立ち上がる。やることは決まった。
「次の審査にジュエリーガーデンのユニットが来ても来なくても、私たちの目的が優勝であることに変わりはない。勝つ、そのためにレッスンする。他に何も要らない」
「ん、じゃ行こっか。早めに現場入りしとこ」
続いて立ち上がる朱鳥の表情もまた、いつもと変わらないものだった。それが緊張であるのか楽観視であるのか、今の礼には判断がつかない。
しかし、それでも。彼女には、朱鳥の努力が本物であるという揺るぎない確信があった。
自然と、昨年の始めを思い出す。それは今の確信が、定かでない浮ついたものだった頃。
―――二人組でユニット、ですか。そうですね…………なら、
「なに、なんかついてる?」
知らず知らずのうちに顔を覗き込んでいたらしい。不思議そうに見返してくる朱鳥を見て、礼は少しだけ口角を上げた。
そう、何も変わらない。最も信頼できる相方がいるという事実も、変わらない。
「次で身内と当たっても、油断しないでね」
「しないから!」
☆
「よーっし……んじゃ開くよ」
「は、はいっ……!」
関東某所の劇場、楽屋。ちょうど公演終わりのタイミングで一次審査の結果が出たことを知らされた
思わず目を半分閉じて顔を逸らしたものの、隣の
『Brand New Duo一次審査、全員通過! おめでとう!』
「うそ全員!?」
「よ、かった、ぁ」
事務所全体へのグループチャットには、左枝より全員が一次審査を通過した旨が送られてきていた。約八十組が半数まで減らされる以上、誰かが落選していてもおかしくはない。誰しもが自分たちは通るという自信と共に、落選するユニットが出るかもしれないとどこかで考えていた。
そんな中でまったくの予想外である全員通過という吉報は、JGP全体を舞い上がらせるに十分なものだった。
弦音は思わず深冬の手を取って跳ね、物足りなかったのかその直後に強く抱き締める。驚きながらも深冬は笑顔でされるがままにした。
正直なところ、二人には少しの不安があった。ひとみが過去に言った通り、一期生である二人の実力はどう贔屓目に見ても、ゼロ期生に及ばない部分がある。また、ダンスとボーカルに重きを置いた審査という面でも見ても、
そういった理由から、口には出さなくとも心のどこかで通過できなかったらどうしよう、と不安に思っていたことは間違いない。
「ほんと良かったぁ……」
「はい、弦音さんのお陰、です」
「お互い様ね! あーしら二人でえれくと☆ろっくだし!」
ひとしきり喜び合った後、劇場を出て東京へと戻る。公演の疲れに加え緊張が一気に解けたせいか、帰りの車では二人ともぐっすり眠っていた。
数時間後、事務所に戻った二人を前野が出迎える。
「お疲れ様! 悪いけど、二次審査について話したいからもうちょっと付き合ってもらえる?」
そう言われて会議室に通される、その途中でLuminous Eyesとすれ違う。
「ひとみ、お疲れ! おめでとー!」
「お疲れ様、二人もおめでとう」
「喜ぶのもいいけど、まだ予選よ。ここからより厳しくなるって、覚悟していきなさい」
短い会話を交わす。その中で、深冬は二人の表情が僅かに険しくなっていることに気が付いた。それが二次審査に対する感情なのか尋ねたかったが、どのみち今の自分たちはそれを聞きに行く道中。余計なことを考えないようにと、前を向いて歩き出した。
そんな深冬たちとのすれ違いを終え、しばらく歩いてからひとみが口を開く。
「……やっぱり、ちょっと作為的に感じますよね」
「どうしても、ね」
月乃も落ち着かない様子で首筋や髪の毛先を触りながら返す。
伝えられた二次審査の内容は、大型の会場へ赴いての審査。課題曲は共通のものに変更されるほか、一次を通過した四十組のユニットから、八組ずつが五つのブロックに分かれることが通達された。
しかし、問題はその振り分け。JGPから出場した五ユニットは、
Aブロック……えれくと☆ろっく
Bブロック……Luminous Eyes
Cブロック……ステラ・ドルチェ
Dブロック……Classical Wing
Eブロック……ファンタジスタ!
と、見事にバラバラに分かれたというのだ。
楽観的な見方をするのであれば、身内同士での争いまで一歩遠のいた分プレッシャーが減ると言えるだろう。しかし、月乃とひとみはこれを見て即座にPrincipalが自分たちを気にかけている、という話を連想してしまっていた。
無論、予選の審査に参加しない彼女らが関わっているとは思えない。二次審査を通過できるのは各ブロック一組ずつということを考えても、楽園をはじめとした他のアイドル全員に勝つなど夢物語もいいところだ。
しかし、上手くいけば全員で準決勝、という偶然にしては出来すぎた事実は、危険な甘さを伴っている。
「……ううん」
小さな声に月乃が視線をやった瞬間、ひとみは自分の両頬を強めに叩いた。ぱん、と大きな音が響き、突然のことに月乃は少し驚く。
「上手くいけば、なんてない。私たちしか通過できないかも知れない……でも、私たちが優勝する。どれだけ目をかけられていても、最後は実力勝負。ですよね」
向けられた瞳には、強い意志が込められていた。まだ社会人になったばかりの高校生、何度覚悟を固めても揺らぎはそれ以上に訪れる。それに打ち勝つ芯を持つことが、先に進むために必要な成長だ。
「……そうね。決まったことにあれこれ悩んでも仕方ないもの。勝ちましょう、必ず」
出来ることは限られている。今の自分たちにできることは、与えられた条件の中で勝てるよう努力を積む、それだけだ。
二人は頷くと視線を前に戻し、歩みを早めた。二次審査までは少しだけ期間がある。無茶の範囲を踏まない限り、レッスンが多いに越したことはない。
「恐らく、楽園から出場するユニットとはほぼ確実に当たります。ここを越えれば、自信もつくはずです」
「あんまり、あの二人とは会いたくないけど」
対面した二人に良い印象のない月乃はどこか辟易した様子で息をつく。それがどこか愛らしく見え、ひとみは小さく笑った。
☆
「うわぁ……わ、わぁ……!」
「あらあら~」
タレント寮ロビー。二次予選の説明を受けた彩乃は、スマホを両手で握り締めながら忙しなくロビー中を歩き回っていた。その様子を眺めながら、千里は頬に手を当てて息をつく。
一次審査を通過できたことが予想外だったのか、頬を紅潮させ目を輝かせてうろうろと動き回るその様はどこか幼くも見える。
「と、通ったんですよね、あたしたち……ど、どうしよ」
「落ち着いて~彩乃ちゃん。こういうの、慣れてない~?」
スポーツ一家で育った彩乃であれば、過去に何らかの大会に出ていてもおかしくはない。そう判断しての発言だったが、当の彩乃はうっと声を上げて気まずそうな表情になる。
「あたし、昔から、プレッシャーに弱いっていうか、ビビりで……こういう大っきい大会とかオーディションとか、めちゃくちゃ緊張しちゃって、落ち着けなくて……すみません」
足こそ止まったものの、申し訳なさそうに項垂れる彩乃。それを見た千里は立ち上がり、ゆっくりと近づいていき彼女を優しく抱きしめた。
「大丈夫。練習の成果がちゃんと出たのよ~。きっと次も通過できるわ」
気を遣わせている、ということに落ち込みながらも、彩乃は千里の胸に頭を預ける。自分よりも高い身長と長い腕に包まれると、自分がまだ子供であると再認識させられたようで、恥ずかしいようなやるせないような、形容しがたい気持ちが湧き上がってきた。
体の温もりと柔らかな香りで、気持ちがゆっくりと落ち着いていく。もう大丈夫、と言おうとした口を噤み、彩乃は少しだけ子供でいる時間を延ばした。
「でも、ちょっとだけ羨ましいわ~。私は緊張したことないし……できなかったから~」
「……できなかった?」
顔を上げると、視線が合う。千里の目は、慈しむような懐かしむような、不可思議な感情を乗せていた。
「私ね、母が有名人でしょ? だから、昔からヴァイオリンのコンクールなんか出るとね、みんなすぐ私だってわかっちゃうの」
自然と、千里の手は彩乃の頭を撫でていた。理由も意識もないその行動が、母親との数少ない想い出に起因することに、彼女が気付くことはない。
「賞は取って当然、負けたりしたら母の名に傷が付く。その時だけ、私は他の子の物差しになっちゃうの。教えてもらったことなんて、全然ないのにね」
いたたまれない気持ちになった彩乃は、再び視線を落とす。千里はそれを気に留めることなく、回顧するように目を閉じて続けた。
「他の子っていうより、その親御さんが熱くなっちゃってね。出るだけでずるいって言われたり、ちょっとしたミスでひそひそ言われたりして、子供ながらなんで、ってず~っと思ってて。そんなだから、中学に上がる頃にはもう二度とコンクールなんか出てやるもんか~って思ったの」
無意識のうちに、彩乃は手を強く握っていた。自分が何か言うべきではない、今は黙っている時だ。それを理解し実行するだけの理性はあったが、本当は言い返したかった。
しかし、千里は一転して明るい口調になる。
「だからね、今はとっても楽しいの~! だって私、今はただの新人アイドルでしょ? 負けちゃったら悔しいけど、誰も理不尽に責めたりしない。それに、こうやって彩乃ちゃんと一緒にやれてるんだもの。こんなに嬉しいの、私生まれて初めてなのよ~?」
抱き締める力が、より一層強くなる。そこに生まれた温もりは、きっと物理的なものではないのだろう。
他に誰もいないロビーに音はない。少しずつ外が暗くなっていく中、暖色の照明は身を寄せ合う二人をスポットライトのように切り取っていた。
しばらくして、千里は我に帰ったように口元に手を当てた。
「ごめんね~、私のお話ばっかり~。励まそうと思ったのに、逆に聞いてもらっちゃったわ~」
照れ隠しの笑いと少し赤くなった顔を悟られないように、もう一度彩乃の頭に手を乗せる。すると、今度は彩乃が静かに言葉を紡ぎ始めた。
「……あたし、兄二人も、姉も、みんな優秀っていうか、出来がいいっていうか。三人とも全然緊張しないし、ビビらないし。だから、ちっちゃい頃は自然とあたしもそうなるんだろうなって思ってたんです」
俯いたまま、ぽつりぽつりと呟く様には未だ拭えない感情が見えた。それが具体的に何であるのかはわからずとも、今までずっと抱えていたものであろうことは理解できた。
「でもあたし、あんまりスポーツ長続きしなくて。何か一つに絞れないんです。兄も姉もみんなバラバラのことやってるから、何か違うことしなくちゃって、焦って」
それまで下げられていた腕が千里の背に回り、決して弱くない力がかかる。
「中学に上がって、色んな運動部に勧誘されたんですけど、結局絞れないし、大会なんか緊張しちゃうから、どこにも入らなかったんです。どこでも練習相手とか助っ人はやるけど、公式の試合とかには出ないって。その時あたし、別に選手になりたい訳じゃないんだなって、思って。運動は好きだけど、家族とは違うことしたいなって思うようになったんです」
「それで、アイドル?」
ゆっくりと頷く所作が、そこにある恥じらいを示していた。柄でもない、という思いは実際にアイドルとなった今もまだ捨てきれないのだろう。
「正直、まだ自信ないです。あたし、ましろみたいに才能あるわけじゃないし、ひとみほど頭良くもないし、弦音みたいにおしゃれでもないし……でも、今こうしてアイドルやらせてもらってるのは偶然じゃないと思う、から、えっと」
言いたいことが渋滞したのか言葉に詰まり小さな声になっていく彩乃に、千里は嬉しそうに笑いかけた。
「大丈夫よ~。彩乃ちゃんのダンスはましろちゃんと全然違うし、ちゃんとファンの人たちもついてきてくれてるでしょ? それに、踊ってる時の彩乃ちゃん、凄くかっこいいもの!」
「かっ、こいい……ですか?」
完全に予想外の言葉をかけられた彩乃は思わず顔を上げ、きょとんとした目を千里と合わせる。
「ええ。私ずっと思ってるわ。彩乃ちゃんってとってもかっこいいの。言われたことない?」
小さく首を横に振る様を見て、千里はどうしてかしら~、と首を傾げる。が、しばらくして彩乃を離して大きく手を叩くと、
「じゃあ、次も勝って、いろんな人に見てもらいましょ、彩乃ちゃんのかっこいいところ!」
と小指を差し出した。彩乃も少し戸惑ったあと、恐る恐る右手を差し出して小指を結ぶ。
「が、頑張ります、あたしっ。家族、安心させたいし、兄……見返したいし」
「あら、お兄さん?」
「下の兄、よくバカにしてくるんで……」
「そうなの~、兄妹って大変ね~」
☆
日が落ちかける時刻、弦音は事務所を出て深冬を家まで送っていた。昼のうちはまだ暑さが消えないものの、日が落ちると途端に肌寒くなる。寒さには弱いのか、白い頬を紅くさせる深冬に弦音は寄り添うように歩く。
「深冬、寒くない? だいじょぶ?」
「あ、平気、です……むしろ、冬、の方が、好き、なので。寒いと、嬉しい、くらいで」
ゆっくりと言葉を紡ぎながら柔らかく笑う深冬を見て、弦音も絆されるように微笑んだ。
明かりの灯り始めた街はまだ騒がしく、大通りは人で溢れている。立ち並ぶ店のいくつかは既にハロウィンに向けた装飾を始めており、頬を撫でる冷風と重なって、暦がもうすぐ変わることを肌で感じさせた。
「今年はハロウィンパーティとかできそーにないなぁ」
「パーティ、ですか」
オーディションに向けての動きが本格化する以上、遊んでいる暇はそうない。そのことを残念がってぼやく弦音の顔を、深冬は見上げるように覗き込む。
まるで聞き慣れない単語を聞いたかのようなその反応には、親族以外と祝い事をしたことがない彼女の羨望が少なからず含まれていた。
「そーそー、次の審査……五組しか受かんないとは言えさ、通った人はレッスンしないとじゃん。そんな頑張ってんのに、落ちた人だけオーディションないからーって遊んでんのはダメっしょ?」
事も無げに言う言葉の中に、必ず誰かが次の審査も通ること、遊びよりも仕事を優先しなければならないこと、パーティをするなら全員が揃ってこそ、という弦音らしさが滲み出ており、それに気が付いた深冬は思わず笑ってしまった。
「んぇ、どした?」
「ふふっ……『頑張ってる人を応援するために、パーティするのもいいんじゃない?』」
「あ、それいい! クーちゃんめっちゃイイコト言うじゃん!」
笑いながら歩いているうちに、大通りから住宅街へ続く道が見えてくる。
ここまででいい、そう深冬が言おうとした瞬間、先に弦音の足が止まった。何かあったのかと振り向くと、ポーチの中に手を入れながら頼まれる。
「んね深冬、ちょっと目つむっててくんない?」
「え、あ、はい」
「んで、ちょーっち顔触るね」
顔を触る、という中々他人に言われない言葉に疑問を抱きつつも言われた通り目を閉じていると、頬に手を添えられ唇を何かでなぞられる。
いいよ、と言われ目を開けると、片手にリップスティックを持った弦音が、もう片方の手で取り出した小さな鏡をこちらへ向けていた。
深冬の唇は淡いローズピンクで彩られており、飾らない程度の艶やかさが”何か変わった”という事実を明瞭に表している。
初めて見る自分の顔、としか形容できないそれに目を奪われる深冬に、弦音が少し照れながら言う。
「一次予選、通過したらプレゼントするって言ったじゃん? けっこー悩んだんだけどさ、深冬は肌キレーだし、リップがいっちゃんいーかなって」
「あ……」
忘れていた訳ではない。しかし、二人で同じことに挑む以上、その条件で一方的に物を貰うのは違うだろう、と考えていたために何も求めていなかった。
左手をとられ、その中にリップを滑らせ手ごと握られる。寒くなり始めた季節のなか、弦音の手はまだ少し暖かく感じた。
「あの、わたしも、何か」
「いーのいーの! あーしがやりたくてやってるだけだし! これだって、ちゃんとした高いやつって訳でもないしさ」
どうにか言葉を返したかったが、対人経験の浅さから何も言えなくなる深冬。
数秒の沈黙の後、弦音は落ち着いた口調で続けた。
「あとさ、押し付けみたいで言うか迷ったんだけど、おまじない。深冬がつっかえないで喋れるように、あーしにできることって、練習相手になるくらいだからさ。ほら、メイクって自信つけてくれたりさ、楽しく出かける魔法じゃん? だから、深冬の口にも、夢が叶うようにって」
言っているうちに恥ずかしくなってきたのか、弦音の顔は露骨に赤くなっていく。そして、遂に耐えられなくなり大きな声で誤魔化し始めた。
「あーごめんやっぱ今の聞かなかったコトにしてくんない!? 恥ず過ぎてやばばのばばなんだけど! あーしそーゆーのガラじゃないってわかって」
「ありがとうございます」
普段の深冬からは聞かない、芯の通った大きな声。思わず黙って顔を見ると、深冬は左手にリップを強く握り締め、唇をきゅっと結んで弦音の目を真っ直ぐ見据えていた。
「わたし、弦音さんのそういう真面目なところ、凄く好きですし、頼りにしてます」
やや早口で力みすぎてはいるものの、これまでとは比べ物にならないくらいの”はっきりとした喋り”。ここ一番の緊張を込めたのか空気が抜けたように肩を落とす深冬を、弦音は自然と抱きしめていた。
「んーーーーーっ!」
「むぐ」
「……絶対勝と、次も!」
「はいっ」
☆
二週間後、オーディション会場。
一次予選を通過した四十組、八十人にのぼるアイドルとその関係者、更には本放送や宣伝用の映像を撮影するテレビ局関係者などで建物内は溢れかえっていた。
運営関係者に加えて、準決勝からの審査を一任されているプロフェッショナル―――振付師や元アイドルの歌手ら五人も各ブロックに分かれて審査を行うという。
幸いにも、同じ楽園からの出場で最も危険視していたIG-KNIGHTとは別ブロックとなったため、身内を強く意識する必要は減った。となれば、次いで気になるのはジュエリーガーデンプロモーションから誰が来ているか。
「それでは、ただいまより各ブロックごとに審査を行います! 誘導に従って移動お願いしまーす!」
スタッフが声を張り上げると、各ブロックのゼッケンを着けた誘導員が所属と名前を確認しての案内を始める。
ふと、隣にいる
その右手を強く握り締め、向けられた視線に返す。
「大丈夫。私と歌音なら、絶対勝ち抜ける」
「……うんっ! スズちゃん、ありがと!」
いつも通りの朗らかな笑顔に戻る歌音を見て、それでいい、それがいいと頷く。
―――力を抜いて、こうやって口の端っこをクイッて上げるの。ほら、できた! 可愛い笑顔! マネージャーさんお願いします、わたし相川さんと活動したいです!
世界が灰色に見える、そんな自分を変えたくて飛び込んだ場所。そこで出逢った彼女は、今まで見たことがないくらい、色鮮やかに見えた。そして、その真摯な瞳は、自分の中にいるまだ知らない自分を見つけて、連れ出してくれる。
あなたの未来のため、未来の私のために。絶対に勝つ。
「楽園エンタテインメント、Legato a due。
「はいっ!」
「はい」
案内された先の部屋には、審査員用のものと思われる机と多数の撮影機材が並んでいた。今はバラバラに分かれている審査員が、一次と二次の予選の映像を準決勝として審査する。つまり、前回と今回のパフォーマンスも通過すれば準決勝として扱われるのだ。
目の前の審査員だけでなく、他のブロックにいる審査員の目も奪う、そのつもりでやらなければならない。
覚悟を新たにしながら歩く涼穂の目に、入室してくる千里と彩乃の姿が目に入る。どうやら同じブロックに来たJGPのユニットはClassical Wingだけのようだ。
パフォーマンスは入室順、自分たちは三番手でClassical Wingが七番手。油断できない相手ということを踏まえても、先手を打ってプレッシャーを与えたいためにこの順番は嬉しかった。
場馴れしていそうな千里はともかく、彩乃は公演やSNSを見る限り緊張に弱いタイプ、他のアイドルにも意識が向きやすく他者に圧倒されやすい、というのが涼穂の見立てだった。
逆に、歌音は一度解れてしまえば、他人に触発されてテンションが上がるタイプのため本番に強い。互いにコンディションを整えて今日に挑めていることに加え三番手という立ち位置、勝利はほぼ確実。
そう分析している最中、審査員が入室してくる。同じ楽園に所属する四十代後半の女性歌手が一人、スーツを着た運営らしき男が一人。そして、色の薄いサングラスをかけた長髪長身の女性が一人という構成だった。
ふと、違和感を覚える。歌手の女性は準決勝でも審査する最終決定権の持ち主だろう、運営の男性も理解できる。しかし、残った一人の女性はどういった関係の人間だろうか。服装は私服らしく運営側の人間とは思えない。
不思議に思って目を凝らす。距離はあるが、どことなく
「っ……!」
気付いた。否、気付く前に予想しておくべきだった。周知した通りに動くような器じゃないことは知っていたはずだ。
―――Principalの、
予選の審査には参加しないと言われていたイレギュラーの参入。ウィッグを用いた変装もあって周囲に気付いている者はいないようだが、このことに気付けているかの差異は大きい。いつもの仕事であれば滅多に緊張しない涼穂も、この時ばかりは焦りを感じずにはいられなかった。
あまりに視線を注ぎすぎたか、視線と共に微笑みを返される。見抜かれることを意に介していない、試されている。
気を取られているうちに、一組目のパフォーマンスが始まろうとしていた。涼穂は表情を引き締めて、歌音の方を見やる。
言うべきだろうか。しかし、下手にやればプレッシャーになりかねない。戸惑いが顔に出ていたのか、歌音は指先で涼穂の肩をつついて、口の動きで伝えてきた。
スマイル、スマイル!
その笑顔を見て、涼穂は思い直す。それでいいと、そう思ったばかりではないか。
条件はひとつ変わった。しかし、それは審査基準の厳正化を示すだけ。元より勝つつもりで挑んでいるなら、むしろ好条件と言っていいはずだ。
手を握り、涼穂は前へ向き直る。ここからが、本番だ。
☆
審査開始より約一時間後。パフォーマンスを終えたましろと
身長を活かして辺りを見回していた恭香が、やがてましろに向き直る。
「私らの楽屋にはいなさそうだな~。私、右城さん探してこの後のこと聞いてくるね。ましろは先に戻ってて」
「はーい」
手を振りながら群衆に消えていく恭香を見送ると、ましろはその場で右手を見つめ、何度か握ったり開いたりを繰り返す。まだ、体の火照りが冷めずに残っている。
会心と言っていい出来だった。勝負に勝ちたい、という気持ちはあれど、何よりも楽しむことを最優先とした二人にとって、基準点は自分が納得できるパフォーマンスをすることだ。
その点で言えば、これほどまでに楽しく、体が自由に動いたことはなかった。個人として見ても、恭香とのコンビネーションとして見ても、今の自分が出せる最高峰に近い。次第に大きくなる舞台に合わせて、自分のボルテージも上がってきているようだった。
手応えと自分の成長を噛み締めていたところへ、後ろから声をかけられる。
「悠姫ましろちゃん、お疲れ様」
名前を呼ばれて振り返ると、先ほど審査員を努めていた女性がそこにいた。ましろからの印象は、見たことのあるようでない人、といった感じで、初対面の相手だがどこか拭えない違和感を覚えていた。
とはいえ、話しかけてきた相手に失礼を働く訳にはいかない。まして相手は審査員だ。
「お疲れ様です」
「凄かったね、キミのダンス。とってもキラキラしてて、私気に入っちゃった! ね、キミ、普段どんなこと考えながらアイドルしてるの? どういうアイドルになりたい?」
唐突な褒め言葉から、矢継ぎ早に質問を繰り出される。しかし、ましろは大して驚きもせず、また悩むこともなく即答した。
「わたしは、お客さんが忘れられない景色を作るアイドルになりたくて、そうなるにはどうしたらいいかな、って考えながらがんばってます」
その回答に満足したのか、女性はうんうんと頷く。
「目標もしっかりしてる、技量もある。もう少し場馴れしたら、面白いことになりそう!」
「ちょっと」
ふと、女性の後ろからまたも審査員らしき人物が現れ、女性を強引に引っ張ろうとする。それに対し踏ん張ってもう一言、と告げると女性は顔を近づけましろに耳打ちした。
「
きょとんとした表情のましろに手を振りながら引きずられていき、オーディション参加者とは意図的に離された位置の楽屋に入る。
そして、苛立った様子でウィッグとサングラスを取った
「な・に・し・て・ん・の・よ、あんたは」
「えへへ~、気になっちゃって声かけちゃった」
大して悪びれる様子もなく笑うクリスに、玲良は眉間のしわを一層深くして詰める。
「あのねバカクリス、あたしたちは準決勝からって話になってんの。ここで審査してるってバレたら騒ぎになるしまずいわけ、わかる?」
「わかってるって。なにもバラしに行ったわけじゃないし」
延々続きそうな問答に、玲良の後ろから声がかかる。
「でも、クリスちゃんのお眼鏡に適う子がいたってことだよね? それは凄いことなんじゃないかな」
穏やかな笑顔で語る
「宝多さんとこの子じゃなかった?」
「そう! ファンタジスタ!の悠姫ましろちゃん。良かったなぁ、キラキラしてた」
それ以外の語彙ないの、と呆れる玲良に対し、海月は相槌を打ちながら返す。
「デビューから一年経ってないと思って油断してたけど、かなりのクオリティだったね。私の見てた二人も想像以上だった」
感心した様子の二人を見て、玲良はふーん、と鼻を鳴らす。
「あたしからすれば、まだまだって感じだったけど。”パーフェクト”には程遠いわ」
「流石、パーフェクトシンデレラは厳しいな」
タイミングよく楽屋の扉が開き、入ってきたのは立葵美桜。部屋の奥側、海月の隣に座りながら話を続ける。
「まあ、意識しすぎるのもよくないだろう。審査員を任された以上、評価は公平にな」
「そういうこと。特にクリス! あたしたちは新人全員を見に来てんのよ。特定の事務所に肩入れするようなのはお互いに良くないの」
再三再四釘を刺す玲良だが、当のクリスは相変わらず笑顔のまま手をひらひらと振りわかってる、と返す。
「頭一つ抜けてたのは事実だしね。事務所背負ってる分、他よりもギラギラしたところがあるのかも」
そこへ最後の一人、
「だー暑っ苦しい! わざわざ変装してまで見る意味あったか!?」
「私は結構面白かったと思うけど」
「私も、意外といいものが見られたな」
勢いだけで言った言葉に正反対の回答を返され黙って緑茶を呷ると、香は美桜の隣に座る。
「アタシんとこは大方予想通りだったぞ。IG-KNIGHTで及第点ってとこだ」
「他は振るわなかったのか?」
意外そうに聞いてくる美桜に、香は当然といった様子でばっさりと即答する。
「純粋にクオリティ不足だ。試みの面白そうな奴なんかはいたけど、本番で仕上がってないからアウトだよ」
少しは期待があったのか、言葉や態度の節、溜め息からどこか残念がるような様子が見られた。
それを見てとってか、そうでないのかは定かではないが、玲良が真剣な声色で言う。
「けど、クリスと海月のブロック
☆
二次審査の九日後。ひとみはましろを連れて駅から事務所までの道を走っていた。
「ましろ急いで!」
「走っても結果は変わんないよ」
「みんな早く知りたいんだから、遅れる訳にいかないでしょ!」
審査結果が通達された、伝えたいので事務所に集合するように、という連絡は正午ごろに届いていた。流石に今回ばかりはひとみも午後の授業に集中しきれず、学校を飛び出すように出ていつもより一本早い電車に乗って今に至る。
一方で、連れられているましろは気持ちの逸りらしき様子が見られず、純粋に結果を楽しみにしているようだった。
事務所が近くなってきたところで、少し先を歩く
「蘭子!」
「どぅおぉお疲れ様ですお二人とも! いよいよですね!」
「ねー、楽しみだねー」
三人で事務所に入り、脇目も振らずにエレベーターへ乗る。三階に着き扉が開くと、既に千里を除いた全員が廊下に揃っていた。
「ほら、みんないる」
「ぅ遅くなりました!
遅れたと思って焦る様子を見せる二人を見て、座っていた
「お疲れ様。そんなに急がなくても、千里さんがもう少しかかるから大丈夫よ。ラン、こっち」
隣の椅子を叩いて座るよう促され、蘭子はすごすごと稔の方へ行く。ひとみとましろも、それぞれ月乃と恭香の元へ駆け寄っていった。
「お疲れ様です、月乃さん」
「ええ。結果が気になって仕方ない、って感じね」
待ち遠しい気持ちは紛れもなく本物だ。素直に頷いて返す。
「恭香さんお疲れ様でーす」
「お疲れ様~。楽しみだね、結果発表!」
挨拶と共にハイタッチ。恭香も待ちきれない様子だ。
そして待つこと十五分。千里は大して急いだ様子もなくエレベーターから登場し、そこで初めて自分が最後だと気付いたのか口元に手を当てた。
「あら~、私が最後だったのね~。待たせてごめんね~」
ようやく全員が揃った。稔の連絡を受けて、二分後に左枝たちが三階へ上がってくる。十人は社長室に通され、半年前のあの日と同じように並んだ。
しかし、今度は違う。書類を持った面々の表情は険しく、話が始まる前からただならぬものを感じさせている。
誰もが表情を引き締めたところで、宝多が口を開いた。
「今日はわざわざ集まってくれてありがとう。まず改めて、二次審査までの活躍、お疲れ様。私のところにも運営関係の各所から称賛が届いている。目覚ましい活躍だ」
そこまで言ったところで、宝多は左枝に視線を寄越す。左枝はこれまでにない程に真剣な顔で頷くと、言葉を継いだ。
「連絡した通り、今から二次審査の結果発表、そして今後どうしていくかをここで話す。……全員、落ち着いて聞いて欲しい」
誰も何も言わず、大きな反応も返さない。左枝は各々の顔を今一度よく見てから、再度ゆっくりと口を開いた。
「信じられない成果だ。あの場に集まった四十組のユニットから各ブロック一組、合計五組が二次審査を通過したが……その内訳は楽園が二組、そしてジュエリーガーデンプロモーションが三組となった」
空気が一気に明るくなる。信じられない成果、という言葉通りの結果だった。
しかしそれは、嬉しい半面喜べない部分との差異が大きなものになる、ということも意味していた。
「つまり、予選通過は三組。二組は、残念だが落選ということになる」
何人かが拳を握り締め、何人かが唇を強く結ぶ。わかりきっていたことだとしても、それを受け容れるのが容易ではないことも確かだ。
「それでは、二次予選通過ユニットを発表する」
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