古傷 03

「本だ」

「はい、本です」


 案内された部屋に入って、最初に目に付いたのは大きなテーブルの上に積まれた大量の本だった。丁寧な装丁の大きな本もあれば、紙束を紐でまとめただけの粗末な冊子もある。そのテーブルを囲むように丸椅子が何脚か置いてあるが、なぜかどれにも上に物が載っていた。そのうちの一つからティーポットをどかして、女はワズに椅子に座るよう勧めた。


「ご紹介が遅れましたね。私はネデリス。歴史の研究をしている者です。そしてさっきのご老人が私の先生のデーグさんです」

「先生?」


 聞き覚えのない単語に首を傾げる。ええ、と湯を沸かしつつネデリスは頷いた。


「先生はこの大陸の様々な国々の歴史研究をしている方で……あの、知らずにここに来たんですか? やっぱり何かの間違いなんじゃ……」

「ユーアにここに行って売るように言われたから間違ってないぞ。やっぱり売れないのか?」


 お茶の用意をしていたネデリスは首を横に振り、改めて彼に向き直った。その眉はどこか申し訳なさそうに下がっている。


「確かに私たちはこういった書物の買取をしていますし、資料を売って頂けることは歓迎すべきことです。ただその……それで納得して頂けるかはあなた次第でして」

「どういう意味だ?」

「言葉通りじゃ」


 がちゃりと開かれた扉から老人が入ってくる。椅子にどっかりと腰を下ろし、デーグは自らの髭を触りつつ続けた。


「わしら学者は誰よりも高く歴史的資料を評価する。じゃが、その評価に見合った報酬を払えん。要するに金がない。学者なんぞ、儲かる仕事でもないからの」

「先生? 当たり前のように私が空けた椅子に座らないでください」

「この家の椅子は全部わしのもんじゃろうが」

「もう……」


 奇妙な客人と退く気配のない老人にそれぞれ湯気の立つカップを渡して、ネデリスは渋々と新しい椅子を探す。気にせずお茶を啜るデーグをじっと観察していたワズは、その真似をして啜り、そのまま一杯を飲み干してから口を開いた。


「払えないのに価値を高くする意味はあるのか?」

「当然あるに決まっとる。これらの本は、先人の知恵と経験の結晶じゃ。わしらはそれに敬意を払わねばならん。たとえ、その相手が既に失われていたとしてもな」

「そういうものか」

「そういうもんじゃ。しかしのう、歴史書にも格の違いはある」


 いつの間にか、老人は一冊の本を手にしていた。少し草臥れたそれをパラパラと捲る。


「お前が持ってきたこの本はの、既に滅んだ魔術大国の魔術士が書いた日記じゃ。こういう日常的なもんは今日日ほとんど残っとらん。しかも、これは国が在ったころではなく滅んだずっと後のものじゃ。あの国の魔術士は国の滅亡と共に滅んだというのが通説になっとる。もしも残っていれば、魔術がここまで衰退することはなかった筈だとな。しかし、これを見ればそれは間違いじゃと分かる」


 ふと、デーグは横を見る。そこでは戻ってきたネデリスが垂涎の眼差しで日記を見つめていた。二人の視線に気づいた彼女は、苦笑いをしてそっと目を逸らす。小さくため息をついてその手に日記を押し付けるように渡し、デーグは再びワズに視線を戻した。


「他も同様に、凄まじく歴史的価値の高いものじゃ。値段をつけるのなら、この家を何軒売ってもまるで足りんほどになる。当然、わしらには払えん。それでも良いんじゃろうな?」

「おれはここで売るように言われてる。対価は――」


 どうでもいい、と言いかけて止まる。ワズは少し考えてからテーブルに目を向けた。


「そこの本も同じくらいの価値があるのか?」

「ああ。じゃがそれらは売りもんじゃない。対価にはできんぞ」

「読むのも駄目か?」

「……なんじゃと?」

「ちえとけいけんのけっしょう、は対価にならないか?」


 デーグは大きく目を見開いて固まる。駄目なのかと思ったところで、老人は豪快に吹き出した。


「対価に知識を求めるか! 物を知らぬくせに知の本質をよく分かっとる! 中々に面白い奴じゃ!」


 突然大笑いを始めたデーグの言葉は、ワズにはよく分からなかった。手がかりを求めて隣を見てみたが、ネデリスはひたすらに日記に集中していてこちらの会話は全く耳に入ってないようだ。


「小僧、名前は何という?」

「ワズだ」

「ワズ……なるほどな。よき名じゃ」


 うむうむ、と自身の言葉に頷き、デーグは両手を広げた。


「よかろうて! 存分に学ぶがいい、この大陸でかつて何が起きたのかをな!」



***



 銀色の月が、寝静まる王都を照らしていた。


 それをバルコニーから見下ろし、ゼレムナ国王ロードンは深く息を吐く。十数年前王位を継ぐその前から、こうして夜の城下を眺めるのは彼の日課だった。


 ゼレムナは、この大陸の均衡を司る大国の一つだ。魔術の繁栄期に興ったこの国は、様々な歴史のうねりの中で形を変えながらも今日まで続いている。そして、また新たな騒動の種がこの国にもたらされようとしていた。


 小さな灯りだけを残した寝室で、ロードンは執務室の机に残してきた二通の文を思い出す。


 一通の差出人はウトラ国王。あまり仲の良くない隣国の、あまり仲の良くない王だ。内容は、数日後の建国記念式典の招待に対する返答。この時期には毎年周辺国へと招待状を送っており、ウトラは欠席するのが常だった。それでも形式的に送り続けていた訳だが、どういう風の吹き回しなのか今年はウトラ国王直々にやってくるという。


 ウトラ国王といえば、同じく王であるロードンですら他国での式典で遠目にちらりと見かける程度であり、国としての不仲は諸国に周知されている関係だ。彼個人としては明確な悪感情があるわけではないのだが、こうもいきなり掌を返されては何か思惑があるのではないかと疑ってしまうのも無理はない。


 頭の痛くなる問題だ。しかも、考えたところで向こうの情報が不足している今の状況では徒労になるかもしれない。


 そして、もう一通の差出人は――


 ふと、ロードンは部屋を見回す。寝室は静かな暗闇に包まれており、誰かがいるはずもない。だがこういうときに誰かが現れるのが常だったような、そんな気がした自分に首を傾げる。数年前からたまにこんな思いに駆られる。『こういうとき』がどんな時かも、『誰か』が誰なのかもまるで分からないのに。


 やはり疲れているのかもしれない。小さく首を振り、寝に入ろうとしたところでドアがノックされた。


「何だ?」

「ウトラについての報告があります。お聞きになりますか?」

「ああ、入ってよい」


 失礼します、と扉を開いたのは、王になる前からの友人である男だ。数日前、実に二年ぶりにその顔を見たときロードンの胸に飛来したのは安堵だった。城を去った理由が理由なだけに、もう二度と会えないのではないかと思っていたのだ。きな臭くなっている情勢の中で、忠臣である彼が戻ってきてくれたのは数少ない幸運だ。


「では報告を――ケイン」

「はい、仰せのままに」


 胸に手を当てて、柔らかい微笑を浮かべた男は一礼をした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る