閑話・手に届く星

 ふわり、と夜風に混じった甘い香りが鼻をくすぐる。


 机の上のランタンを灯りにして本を開いていた少女は、顔を上げる。窓の向こうにあるのは白い花の咲く木だ。夏の始まりを感じさせるその香りに彼女は頬を緩めた。


 ふと何かを思い立った少女は椅子から立ち上がり、近くの小さな扉からバルコニーに出る。空を見上げたその白銀の瞳には、視界を覆い尽くすほどに光る星々が見えた。




「ユーア」




 名前を呼ばれた彼女が振り向けば、開いたままの扉から夜に溶け込むような黒髪の青年が顔を覗かせている。何かあったのかと問いかける間もなく、青年は手に持っていたものを彼女に差し出した。 


「……何だ?」

「体を冷やすとよくないって、昼間言ってた」


 丸めた毛布を差し出しながら、青年はいつも通り説明になっていない説明をする。少し考え込んだ少女は昼間の会話を思い出した。



***



 今晩泊まっているこの宿は街外れにあり、営んでいるのは若い夫婦だった。しかしながら宿屋の主人には身重な妻がおり、心配で仕事へと手が回っていなかったらしい。そういった事情を丁寧に説明して、申し訳なさそうに宿泊を断ろうとする主人を押し留めたユーアは、それならばと宿の手伝いを申し出たのだ。


 確か件の会話は、一段落したあたりで妻が礼を言うために出てきたときのことだ。


『私たちのことは気にするな。無理せず部屋へと戻るといい。あなたも身体を冷やすのはよくないだろう』



***



「ワズ、その会話は身重の女に向けたものだ。私には関係ない」


 ワズと呼ばれた背の高い青年は目を丸くして首を傾げる。


「みおも?」

「腹に子供がいる女のこと」

「……そうなのか」


 目に見えて萎れた青年が背を向け、とぼとぼと部屋の中に戻っていく。あからさまに落胆した姿にため息をついた少女は、その手から毛布を抜き取って肩に掛けた。


「ほら、これでいいのか?」

「ユーア!」

「喧しい。せめて声を抑えろ」


 嬉しそうに毛布ごと抱き抱えられて少女は眉をひそめるが、青年に気にする様子はない。バルコニーにあった木箱に腰を下ろした彼は、そのまま彼女を膝に乗せて落ち着く。いつものように抱え込まれた少女は、諦めて空を仰いだ。


「ユーア、何見てる?」

「星だ」

「ほし?」

「たくさん光っているものが見えるだろう? あれが星だ」

「ほしを見るとどうなる?」

「どうもならない。ただ見てるだけだ」


 難しい顔になった青年が空を見つめる。少し考えた彼女は、おもむろに毛布から出した手で上を指さした。


「あの星とあの星、それから右に並んでいる星を繋げれば竜になる」

「……?」

「星座と言って、星を線で繋げて絵を描く遊びだ。お前は感覚で物を語るくせに感覚的なものに鈍いな」

「頑張る」

「頑張るようなものでもないが……まあ、どうせ時間はたくさんある。少しずつ知っていけばいい」


 頷いた青年は、まるで目に見える星の位置を全て覚えようとでもするかのように、その漆黒の双眸でじっと空を見つめる。好きにさせておこうと彼女も再び空へと目を向けた。


「……おれは、ユーアは空から落ちてきたんだと思ってた」


 ぽつりと、不意に青年が頭の上で呟く。


「暗い底から見たユーアがあんな風に見えた。だから、ユーアは空から落ちてきた星だと思った。でも星は落ちてこないしユーアは人間だから、それでよかった。あんな高いところまで行くのは大変だ」


 気ままな生き物は、言いたいことだけを言ってまた口を閉じる。しばらくその言葉を咀嚼して考え込んでいた少女は、毛布の中で無意識に握りしめていた己の手に気づいてそっと目を細めた。



***



「ワズ、星はたまに落ちてくるらしいぞ。落ちてきた星の古い記録を見たことがある。その星の欠片も」

「光ってたか?」

「いいや。私には、ただのよくある石ころにしか見えなかった」

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