水底に落つ 07

「娘がいたんだ」


 料理の手を止めずに女主人は口を開いた。促されるままに食事のための席についたケインは、とんでもなく空腹を感じていることに気がついた。思えばほとんど一日何も食べていない。


「あの森に行ったっきり、帰ってこなくなってね。何度も森に入って探したよ。だから知ってるの。あの森には何も無い――少なくとも、私みたいに大した力もない人間にとっては」


 自分の言葉に小さく笑って、彼女は続ける。


「それでも、最後に森に入ったときにあの子を見つけたの。でもね、あたしはただあの子がどっかに行くのを見てることしかできなかった……あの子、何年も経ってたのに居なくなった時のまんまで何も変わってなかったんだよ。それを見て、これ以上この森に居ちゃいけないと思ったの。たとえあの子が本物だとしても偽物だとしても、ろくな結果にはならないから。それからは一度も森に入ってない」

「それはいつのことだい?」

「八年くらい前だったかな。どうかした?」

「……いや、何でもないよ」


 それが、『彼女』が城にやってきたのと同じ時期なのは、きっと偶然ではないのだろう。


 遺跡の沈むあの湖の畔で、彼女の体は眠っている。喪失の痛みが消えることは、恐らくない。彼女を忘れないというのはこの痛みと共に生きていくことだ。


 それでもいつか穏やかな気持ちで彼女を思うことができるようになったら、彼女の物語を誰かに話してみようか。そうすればきっと、ケインが居なくなった後も彼女は誰かの中に残り続けるだろうから。



***



 緩い振動が、文字通り尻に敷いた他人の体を通して伝わってくる。ちらりと後ろを見れば、ユーアを膝の上に抱え上げた青年は、流れゆく景色に目を輝かせていた。


「暑苦しい……」


 思わずぼやいた言葉に隣から笑い声が上がった。御者台に座って危なげなく馬を走らせる行商人の男は、熊のような巨体を揺らして頭を搔く。


「いやすまんな。本当なら嬢ちゃんだけでも荷台に乗せてやりたかったんだが、そっちの兄さんが持ってきた野菜でちょうど一杯になっちまったんだ」

「野菜と交換で乗せてくれただけ十分だ。何も考えずに大量の野菜を受け取ってきたこいつが悪い」

「おいおい、言われてるぜ兄さんよ」

「ユーアはいつもこんな感じだぞ」

「うははっ、仲のいい兄妹だな!」


 男が手綱を引く。二頭の馬が嘶き、幌馬車は少しだけ速度を上げる。慣性で後ろに引っ張られる体をワズに抱え直され、謎の苛立ちに襲われたユーアは無言でその手を抓った。


「どうした、ユーア?」

「……別に」


 不思議そうに聞かれて、そういえばこの生き物にはほぼ痛覚がないのだと思い出す。無駄に終わった抵抗をやめてそっぽを向けば、また行商人に笑われた。兄妹と誤魔化したのはよかったが思春期の少女のように扱われるのは不愉快で、しかし馬車に乗せてもらっている上にあの大量の野菜まで引き取って貰えたのだから多くは言えない。


 しばらく考えてまあいいかと思い直す。過剰なスキンシップさえ気にしなければ、馬車の揺れで体が痛くなることも落ちる心配もない。それ以外の危険にも、やたらとユーアをか弱いものと思っている生き物が勝手に対応するはずだ。


 魔術で作ったワズの体にも人と同じ程度の温もりがある。体の力を抜いて目を閉じると、記憶の底からひどく懐かしい匂いが蘇った気がした。

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