水底に落つ 06
温度のない銀色の目が、ケインをただ見ていた。剣を向けられているというのに、その表情が変わることはない。目の前の少女の命を握っているのは確かに自分のはずなのに、柄を握る指先が僅かに震えて背中を冷たい汗が流れるのを感じる。
「ケイン、やめて」
魔女がすぐ後ろで服を引く。
「……無理だ」
「そんなことをさせるためにこの話を聞かせたわけじゃないの。お願いだから、剣を下ろして。何が正しいことなのか、あなたなら分かるでしょう?」
「君が殺されるのをただ見ていることが正しいなら、僕は正しくなくていい。だっておかしいじゃないか。君は何も、」
「ケイン」
視界が暗くなる。後ろから伸ばした両手で彼の目をそっと覆い、魔女は耳元で囁いた。
「本当は、城を離れるときにあなたの記憶も全部消してしまうつもりだったの」
思わず振り向こうとしたケインは、自分の体が動かないことに気がついた。
「結局、私は中途半端に記憶を濁らせただけだった。たとえ幻だと思われてもいいから誰かの中に残りたいと、そう思ってしまったの。そのせいで、あなたをこんなに苦しませてごめんなさい。……でも、もう大丈夫。こんな場所まで来てくれてありがとう。最期に会えて嬉しかったわ」
やめてくれ。そう言いたいのに口が動かない。そんなこと言わないでくれ。まるで、もう二度と会えないみたいじゃないか。
「この国も、あの城も、あなたも、皆大好きだったわ。――ちゃんと覚えていてね、この国にも魔女がいたことを」
目隠しをしていた両手が離れていく。背中の温もりが消える。
緩んだ手から滑り落ちた剣が音を立て、固い床に転がった。
***
「ユーア、魔女ってなんだ? 魔術士と何が違う?」
本棚とそこに収まっている大量の本、簡素な机と椅子、服と人骨。研究室という名前の小部屋にあるものについて一通り聞き終えたワズは、ずっと気になっていたことを聞く。
「お前、そのことも知らずにさっきまで話を聞いてたのか?」
手元の古い紙束を捲りながら、ユーアは続ける。
「魔女はその国のためにいる魔術士だ。その国に属するものとして国内の特殊な厄介事を引き受ける……要するに、流れの魔術士とは別の生き方をしている魔術士を区別するためにそう呼ぶんだ」
「ユーアはどこの魔女だ?」
「……は?」
「前にそう名乗ってたぞ」
顔を上げて眉をひそめたユーアは、しばらくしてから納得したように声を上げた。
「ああ……あの時は注目を集めたかったからな。せっかく魔力封じまでしたのに、サリアが見つかったら意味がない」
「なんで嘘ついた? 魔術士じゃ駄目だったのか?」
「政治的に魔女の方が話題性が高い」
「……?」
「お前は分からなくていい」
もしもここにケインがいれば、顔を顰めつつも口を噤んだだろう。その口の中に留まるのは「情勢を無意味に引っ掻き回さないでくれ」になる。だが、ワズは素直に頷く。ユーアがこう言ったときには、たとえ仔細を説明されても今の自分では理解出来ないのだ。そのうち理解出来るようになるだろう。それが何年後か何十年後か何百年後かになるかは分からないが、ワズは気にしない。
「エリシェを形作っていた術式にはいくつも不十分な点がある。その最たるものが、人の体に乗り移るという性質だった。それでも人格を持ち魔族として存在できていたのは、作った魔術士の能力が高いからだ」
「高い?」
読み終わった紙束を丸めて、あらぬ方向へと投げ捨てたユーアは頷く。壁に跳ね返り足元に転がってきた紙束は、ワズが手を伸ばすと一瞬で燃え尽きて崩れた。
「エリシェはあえて不完全に作られたらしい。確かに魔族として不完全でありながら、存在としては完成していた。依代にする人間を見つける前にこの魔術士が死んだのは幸運だろうな。一体何がしたかったんだか」
ユーアが床に落ちている服を掴んで引き上げれば、中から白い骨たちが軽い音を立てて零れ落ちる。散らばった人骨の中に妙なものを見つけて手を伸ばす。今度は燃えずに拾えたそれは、平たくてきらきらと光っている。表面に刻まれた凹凸に首を傾げ、裏側の出っ張りをつついた指先で折ったところで、ワズは自力での理解を諦めた。
「ユーア、これ何だ? ……ユーア?」
何も言葉が返ってこないことを不思議に思って顔を上げれば、服を握ったままのユーアと目が合う。ワズの手の中へと視線を落とした少女は首を横に振った。その仕草に、妙な違和感を覚える。
「さあな。肌身離さず持っていたんだから、きっとこいつにとって大切なものだったんだろう。――さてと、私は資料を処分してから行く。ケインにそろそろ出ると伝えてこい。あれを無事に連れ帰るよう頼まれているからな」
「ユーア」
机の方へと向かっていたユーアが、足を止めて振り返る。
「なんだ?」
その表情はいつもと同じだ。感じたはずの違和感の正体が、するりと逃げていく。言い知れぬ感覚に納得がいかずじっと銀色の目を見つめ、やがてワズは項垂れた。
「……分からない」
「ほら行け」
追い払うように手を振って、少女は背を向けた。
***
“駄目だ。このやり方ではあの方を甦らせることはできない”
研究資料の片隅にある走り書きを指でなぞって、少女はそっと目を伏せた。
「――フェーデルシア、か」
***
鳥の鳴き声や木々のざわめきを聞き、ようやく現実に戻ってきたような気がした。思えば、あの遺跡では虫一匹見かけなかった。朝靄が薄くかかった村の中には、畑の世話や散歩で出ている村人の姿が数人見える。
「ワズ、宿の主人に挨拶してこい。世話になっただろう?」
森と村の境で立ち止まったユーアが振り返る。
「わかった」
「私は外で待っている」
「――待ってくれ」
そのまま離れていこうとする少女に声をかければ、背を向けたまま足を止める。
「……ありがとう。剣を向けて、すまなかった」
何とか絞り出した言葉には沈黙が返ってきたが、きちんと受け取られたことが分かった。
***
「ユーアの用事が終わったからもう行く。それと挨拶しに来た。おはよう」
「あらそうなの? 元気でやるようにね」
一つ頷くと、青年はそのまま踵を返して宿屋から出ていった。
「…………本当に挨拶だけしていった」
「そういう子だからねぇ」
遠のく背中を唖然と見送るケインの横で、鳶色の目を細めた女主人が笑う。
「そういえば、あんたの探し人は見つかったのかい?」
ふとそう問われて、この森で起きたことが頭を過ぎる。水の獣、水没した遺跡、銀目の少女、異形の青年――消えた魔女。たった一日とは思えないほど、多くのことが起きた。
「……見つかったよ」
「そうかい。そりゃ、あの遺跡に入った甲斐があったね」
相槌を打ちかけて、ケインはふと違和感を覚える。今の言い方は、まるで女主人自身がその目で遺跡を見たことがあるかのようだ。いや、そもそも――人探しをしているなんて、彼女に言っただろうか?
「……あなたは」
片目を閉じた女主人は、机の上の九分咲きの花瓶に触れて何かを囁く。いくつかの咲きそうな蕾がゆっくりと綻んで、花が咲く。満開になった花瓶から手を離した彼女は、おどけたようにひらひらと手を振った。
「あたしに出来るのはこれが精一杯。だからこの村でのんびり暮らすのが性に合ってるのさ」
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