水底に落つ 05

「――そろそろ、話をしないかい」


 蛇のように襲いかかる炎を切り捨てて、男はそう問いかける。結界に阻まれてほとんど攻撃は通っていないはずなのに、構えた剣越しに見える彼の顔は苦しそうだ。そんな顔をさせているのは己なのにと、思わず浮かんだ自嘲を魔女は余裕の笑顔で誤魔化す。


「あなたこそ、何も見なかったことにして帰る気はないの?」


 指先で生み出した無数の氷槍を矢のように飛ばせば、相手は一息に叩き落として更に踏み込んでくる。振り下ろされた剣を結界で弾き、その勢いを利用して後ろに飛び退いた。


「ないよ。君が全てを話してくれるまで」

「そう」


 吐息さえ感じられるほどの近距離をこうも保たれると、いくら相手に殺意がないと分かっていても、複雑な術式を組み上げることができない。もっとも組み上げたところで、後ろで見ている魔術士の少女が見逃すことはないだろうが。


 ――もう、全て打ち明けてしまおうか。


 そんな考えが頭をよぎったのは一瞬で、しかし戦いにおいてそれが致命的であることを、魔女である彼女はよく知っているはずだった。




「……え?」




 体が焼けるように熱い。瞠目する彼の剣に返り血が跳ねる。


 信じられないような思いでゆっくりと見下ろせば、自分の胸の辺りが真っ赤に染まっていた。集中を欠いて結界を張り損ねたのだと、少し遅れて気づいた。


「あ……」


 体にうまく力が入らない。せめて溢れ出る血を抑えようと傷口に手を当てたところで、意識が大きく揺らいだ。目の前の男が剣を投げ捨て、崩れ落ちる彼女に手を伸ばし必死に何かを叫んでいる。だが、痛みに思考が塗りつぶされて聞き取ることができない。


 死ぬことは怖くない。だがこのまま死んでしまったら、彼が。散逸しそうな意識を必死にかき集めて術式を組み上げようとするも、うまく形にならない。体の芯が足元の水よりも冷たくなっていく。瞼が重くなる。






「言っただろう? 死にさえしなければどうにかしてやる、と」






 どこか呆れたような口調と共に、重くのしかかる死の気配が遠のく。


 沈みゆく意識が急速に浮上する。

 開いた瞼の向こうで黒髪の少女が首を傾げるのを、彼女は焦点の合わない目で見つめていた。血を失い過ぎたせいか、痛みが消えたというのに頭が働かない。


 傷を治療しながらしばらく何かを考え込んでいた少女は、不意にぽんと手を叩く。




「ああ、何か手応えが妙だと思ったら――お前、人間じゃないな」



***



「君は……誰だ?」



 その問いへの答えを、とうに彼女は失ってしまったから。



***



「――エリシェ」


 馴染みのある温もりに抱きしめられて、彼女は正気を取り戻した。横たわっていたはずの身体は、いつの間にか立ち上がっている。少し離れたところで、見知らぬ青年らしき生き物が何かから庇うように黒髪の少女を抱え上げている。


「……何で、私の名前を」

「ずっとその名前を忘れていた。だから君の存在そのものが、僕の妄想なんじゃないかと何度も疑ったよ。でも、もう思い出した」


 ケインが顔を上げる。穏やかな目に見つめられて、体の奥で暴発寸前まで集まっていた強大な魔力が霧散したのを感じた。


「エリシェ、どうして皆の記憶を消してしまったんだ。どうして僕の記憶だけ残していったんだ。どうして……どうして居なくなってしまったんだ。あの城は君にとって、そんなに悪いものだったのかい?」

「……」


 すぐに答えるには、彼女には隠し事が多すぎた。口を噤んで俯く魔女に、ケインはどこか寂しげな笑みを浮かべて口を開く――途中で耳を引っ張られて声を上げた。


「いつまで半裸の女にくっついているつもりだそこを退け」


 頭一つ分背の低い少女は、ばっと手を離して赤面するケインを横に追いやり、自身のローブの留め具を外す。自分の服装を見下ろしたエリシェは、服の胸元が大きく破れているのに気がついて額に手を当てた。これでは娼婦の方がまだ慎ましい。差し出されたローブで体を隠す彼女を見て、ユーアは小さく肩をすくめた。


「悪かったな。さすがに私も配慮がなかった」


 それが服のことではないと察した彼女は、苦笑を浮かべて首を振る。


「いえ、謀るようなことをした私が悪いの。あなたが謝ることではないわ」


 脱力して目を閉じた彼女に、傍らのケインが気遣わしげな視線を向ける。大丈夫だと微笑み安心させたいのを堪え、エリシェは目を開いた。




「私は、魔族よ」



***



 人間の言葉を話し、魔術を使う。その点では魔族と魔術士と変わらないのかもしれない。


 だが、魔族が魔術士と違うのはそもそも人間ではないということだ。魔族の本質は大きな魔力の塊。彼らの体は、その指先に至るまで魔術術式で構成されている。悪魔とも呼ばれることのあるその性質は享楽主義。運が悪く目をつけられた人間は、人生を狂わされてやがて悲惨な死を迎えるとさえ言われている。


「城を離れる一月ほど前のことだったわ。魔族の男と出会ったの。私は偶然のつもりだったけれど、向こうがどうだったのかは分からない。人間に交じるのはそんなに楽しいのか。そう聞かれて、私は……私は彼が一体何の話をしているのかまるで分からなかった」


 こめかみを押さえて、エリシェは小さく首を振る。その美しい顔には疲労と諦念が色濃く滲んでいた。


「私、城に来る少し前までの記憶がないの。気がついたときにはこの遺跡に倒れていたし、当たり前のように魔術を使えたわ。ここを出て、ゆく宛もなく道を歩いていたところを行商人に拾われて、そのまま城に連れていかれて魔女になったの。当然のように自分を人間だと思っていたし、それ以外で自分のことなんて気にしたことさえなかった。でも、私が何も知らないのが分かって愉快そうに去っていったあの男を見て、気になってしまったのよ。


 調べるほど不可解なことばかりが出てきたわ。そのうち行き詰まって、この遺跡のことを思い出した。ここなら、私に関係する何かが残っているかもしれない、と。結果は当たり。この遺跡には――私を作った魔術士が遺したものがあった」


 ケインが息を呑み、ワズが首を傾げる。


「私は魔術士によって作られた不完全な魔族。人間の体に入っていないと存在を維持できないの。この体はエリシェという少女のものよ。でも『エリシェ』という人間の精神はもう残っていない。十年前、私が彼女の体に入ったときにその精神を食い潰してしまった。この体が死んだとしても、近くにいる人間の体を乗っ取って私は蘇る。……まるで怨霊みたいだわ」


 己の血で赤く染まった手を額に当てて、魔女は自嘲気味に微笑んだ。


「私は、彼女の犠牲の上で成り立ってきた人生を肯定できない。私の周りに居てくれる人間の精神を食い殺して尊厳を踏み躙る、私という存在の在り方を認められるはずがない」

「なるほどな」


 腕を組み、じっと聞いていたユーアが不意に口を開いた。ケインは、半ば無意識に剣の柄に指先をかける。


 なぜだか、少女の口にする言葉のその先を聞いてはいけないような気がした。






「だから初めに私に聞いたわけだ。――魔族を殺すことができるか、と」

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