水底に落つ 04

 それはある何でもない日のことだった。


 いつものように書類を片手に廊下を歩いていた彼は、侍女の一人が倒れていることに気づいた。駆け寄って確かめて見れば、どうやら深く眠っているらしい。だが、軽く頬を叩いてみても一向に目覚める気配がない。


 ひとまず人を呼ぼうと思ったところで、ふと顔を上げた。まだ昼過ぎだというのに――この城はこんなにも静かだっただろうか。


「あら、まだ起きている人がいたなんて」


 すぐ後ろで、聞き覚えのある声が聞こえた。その声の主のことはよく知っているはずなのに、なぜかその名前を思い出すことができない。女の両手が彼の肩に軽く触れ、そして離れていく。


「心配いらないわ。少しすれば皆目を覚ますから」

「君は……誰だ?」

「…………さあ?」


 クスクスと笑いながら、声の主は彼のすぐ横を通り過ぎていった。その瞬間、彼の四肢から力が抜け落ちる。


「全部ただの夢よ。忘れてしまいなさい」


 伸し掛るような眠気に襲われ、意識が白く濁る。床に伏した彼が最後に見たのは、廊下の先に現れた見知らぬ森、そして鏡のような湖面に消えていく背中だった。



***



「見事に追い込まれたな」


 広間のような空間の先に通路がないことを確認して、少女は振り返る。


「あの女がお前の探し人だろう。殺されかけたのがよほど衝撃だったのかは知らないが、早く正気に戻れ」

「……あ、ああ……いや、違うんだ。本当に彼女がいるなんて、まだ信じられなくて」


 震える手で顔を覆い、男はゆっくりと息を吐く。単に恐怖や息切れとは思えないその様子を見て、少女が眉をひそめた。


「ここに居ると思ったから来たんじゃないのか? まるで存在を疑っていたかのような口ぶりだな」

「そう受け取ってくれていい。彼女のことを覚えているのはもう僕だけみたいだから」

「……どういう意味だ?」

「言葉のままさ。誰も覚えていないんだ。彼女がこの国の魔女だったことを」


 くぐもった唸り声で、男は通路の奥からゆっくりと歩いてくる水の獣に気がついた。剣の柄に手をかける。


「下がっていてくれ」

「待て。話はまだ終わってない」

「話をしている暇は――」


 早口に返す途中で襟元を強く下に引かれ、男は態勢を崩す。抗議の声を上げようとした男は、少女の銀色の目を見て固まった。頭の奥を覗き込まれるような感覚に、男の呼吸が止まる。


「お前は魔女を城に連れ戻しに来た人間ではないのか?」

「ち、がう。僕は……城を去った理由を、彼女の口から、聞きたいんだ」


 永遠にも感じる静寂の後、少女が離れていき男は思い出したかのように息を吹き返した。頭に手を当てて男は呼吸を整える。


「今……一体何を」

「強引な手段で悪いが、確かめておきたかったからな。まあ、そんなところだろうとは思ったが」


 通路に目をやれば、そこには無表情の女が立っていた。その横では、足を踏み出す格好で水の獣が氷漬けになっている。床を侵食する氷から逃れるように数歩下がって、魔女は肩をすくめた。


「直接聞くなんて思わなかったわ」

「想定していなかったのはお前の落ち度だな」

「ええそうね」


 ため息混じりに魔女が指を鳴らせば、氷になった獣は木っ端微塵に砕け散った。きらきらと水に溶けていく氷の欠片を見下ろしながら、女は呟く。




「なら拾い上げるわ――私は魔女だから」




「っ、後ろだ!」


 一足先に気づいた男が叫ぶが、少女が逃げるには間に合わない。再構成された水の牙が少女の頭を噛み砕く――その直前。


 それら全てを静観していた生き物は、暗がりから飛び出した。



***



 少女の姿が突如として暗闇に覆われたのを見て、剣を抜く途中の姿でケインは固まった。まるで空間の一部分を黒いインクで塗りつぶしたかのような不自然さに、本能的な恐怖が湧き上がる。


「な……」


 後ろから聞こえた声に振り向けば、魔女は目を見開いて立ち尽くしていた。対峙していたことも忘れて呆然と眺めていた二人の前で、不意に暗闇がふわりと解ける。


「……まったく、出てくるなと言ったはずだろう」


 先程と変わらず立つ少女の傍らには、先程までいなかった人間らしきものの姿がある。その両手で鼻先を鷲掴みにされていた水の獣は強引に拘束を解いて跳び下がり、己の攻撃を防いだ相手を警戒混じりに見据えた。


「ユーアが危険なら守るのは当たり前だ」


 ケインがその青年を人間と断言できなかったのは、その胸元から下がいたからだ。陶器が砕け散る途中で時を止めたかのように体のは不自然に留まり、その内側から零れ落ちた不定形な闇が朧げに体を形作っていた。


「……ワズ?」


 ひびの入った顔が見知った青年と同じものであることに気づき、ケインは思わず声を洩らす。闇色の双眸が一瞬だけ彼に向くが、青年が口を開く前にユーアが手を叩いた。


「よし、獣はお前に任せる。この場所はできるだけ壊すな。水没すると面倒になるからな」

「わかった。魔女は――」


 言葉の途中で、青年の体は大きな前足に弾き飛ばされ壁へと叩きつけられる。そこへと水の獣がくぐもった咆哮を上げて突っ込んでいった。舞い上がった水が霧になり、青年がどうなったのかは確認できない。


「ワズ!?」

「あれの心配は要らない。お前の相手は向こうだ」


 思わず駆け出そうとするケインを、ユーアが制止した。視線で促されて振り返れば、そこには苦い顔をした魔女が唇を噛み締めて立っている。


「魔術士と戦ったことはあるか?」

「……彼女と何度か手合わせをしたことはあるよ。でも手加減されていたはずだ」

「あるならいい。魔術士は近距離に弱い。距離をとられないことを第一に動け。それで届かない分は私が手を貸そう」


 傍らに立った少女が口の中で小さく詠唱する。同時にケインの足元から現れた銀色の糸が、一瞬で複雑な紋様を組み上げた。音もなく空気に溶けたそれを見て、自分がそれほど驚いていないことに気がつく。


「結界は張った。死にさえしなければどうにかしてやる。全力でぶつかってこい」


 力を持つ言葉に背中を押され、ケインは水の張った床を蹴った。



***



 剣戟の音を聞きながら、ワズは目の前の獣を観察する。


 水の獣は攻撃の時には氷のように硬い体で襲いかかるが、それ以外のときには水のように柔らかい体で攻撃を受け流す。


 その受け流しが万能でないことは分かっている。最初に森で会った獣は、遺跡まで蹴り抜いたワズの力に耐えきれずに破裂した(ついでに彼の体を人の形に留めていた術式も破裂した)。だが、壊すなと言われている以上あまり大きな攻撃はできない。そしてその範囲での攻撃は、獣が耐えきるものにしかならない。


「難しいな」


 水の獣へと沈みこんだ己の手を見て、ワズは唸り声を上げた。手を突き込まれた獣は不快そうに身を捩り、その前足を振り下ろす。ワズは轟音と共に床に叩きつけられるが、当たり前のように起き上がる彼に傷が増えることはない。人間ではまずありえない頑丈さに、獣はたじろぎ後ずさった。


 身を低くしている獣の体の中心には、よく見ると大小の輪が立体的に組み合わさったものが回っている。通常の視力ではまず見えることのない物体。先程魔女が氷像と化した獣を壊したとき、氷の中に閉じ込められていたそれが逃げていくのをワズは見ていた。握り拳ほどのそれが、ただの水を獣たらしめているものなのだ、多分。


「駄目ならまた考えればいい」


 自分の結論に一人頷く青年に、痺れを切らした獣が飛びかかる。自分から近づいてくるなら幸いとばかりに、ワズも地面を蹴った。


 ――仮に本物の獣であれば、己の攻撃が何一つ効果を発揮しない相手に尚も立ち向かうことはなかっただろう。だが、水の獣の本質は水であり、その行動の選択肢に逃亡と撤退は組み込まれていなかった。


 そしてそれが、初めから決まりきっていた勝敗を確定的なものにする。


 向かってくる獲物の頭を食いちぎらんとしていた獣は、己の内側から響く小さな破壊音を最後に、全てを失った。

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