水底に落つ 03

 小さな唸り声と共に、少女は顔を上げた。


「どうかした?」

「連れの馬鹿が何かやらかした気がする」

「あらまあ」


 姿のない会話相手がクスクスと笑い声を上げる。


「それは楽しそうね」

「楽しそうに見えるか?」


 額に手を当て、彼女は面倒事の予感にため息をついた。



***



 彼らの目の前に、『それ』は唐突に現れた。


 『それ』は四足で地に立ち、鋭い牙を持つ肉食獣の形をしている。しかしその体は、その向こうが透けて見えるほどに純度の高い水で形作られていた。


 色のない水の眼が呆然と立ち尽くすケインを捕らえ、獣は僅かに後退する。しかし、それは決して退くためではない。一瞬ののち、引き絞られた弓から解き放たれる矢のように、水の獣は彼に飛びかかった。


 その体に水の牙が深く食い込む、その直前。


 腹部に強烈な衝撃を受けたケインは意識を手放した。



***



 ひらりと木の上に着地したワズは、肩の上で動かないケインを見て首を傾げた。


「なんで寝てる?」


 それはワズが彼を助ける際に、勢いを殺さずに腹部に腕を引っ掛けてそのまま飛び上がったからである。つまるところ、ワズのせいである。だが、残念ながらワズに『気絶』という知識はまだない。


 後でユーアに聞こう、と考えを保留したワズは下に目をやる。


「小さい生き物はすぐ死ぬ。危ないからやめろ」


 周りをうろつきながら二人が降りてくるのを待っている水の獣は、反応らしい反応を返さない。仕方がないとワズは会話を諦め、ユーアに言われたことを思い出す。


『人前では、元の姿に戻るのも魔術を使うのも禁止だ』


 その意味をしっかりと吟味した彼は、意識を失ったままのケインを後ろ向きに担ぎ直す。


「人の後ろだからいいな」


 自分の出した結論に満足気に頷き、ワズは空中へと身を躍らせる。そういう意味じゃない、と否定してくれる少女は残念ながらここには居なかった。



***



「お仕事、頑張ってるのね」


 鈴を転がすような声を聞き、彼は顔を上げた。武器庫の中空に寝そべって頬杖をつく少女は、その瞳に好奇心を滲ませてこちらを見ている。長いまつ毛に縁取られたそこには、まだ未熟さの残る青年が映っていた。


「僕はまだ新人ですからね」

「敬語はやめて」

「……君こそ、そんなに自由にしてたら怒られるよ」


 形ばかりの注意に、彼女は頬を膨らませてそっぽを向く。


「だって暇なんだもの。せっかく魔女がいるのだから、それこそ頼むべき仕事なんてたくさんあるはずなのに」

「魔女様をそんなにこき使えないよ」

「魔術士ってそういうものじゃないの?」

「どこの常識?」

「……どこ、かしら?」


 きょとんと首を傾げた少女は、考えるのに飽きたのかペンを手のひらで転がす――と、手元を見ればいつの間にか握っていたペンがない。


「返してくれ」

「嫌。構ってくれないから」

「……どうしたら返してくれる?」


 小さなため息と共にいつもの言葉を言えば、少女は尖らせていた唇を笑みの形にした。



***



 意識を取り戻したとき、ケインは自分がどこにいるのか分からなかった。


 自分の指先さえもほとんど見えない暗闇は、目を開いているのか閉じているのかさえ判別が難しい。背中に感じる冷たさにゆっくりと体を起こし、自分が浅く水の溜まった石造りの床に倒れていることを知る。滴り落ちる水の音が絶え間なく聞こえる。


 どうしてこんな場所に居るのか、記憶を遡っても思い出せない。自分は森に居たはずだ。あの水の獣はどうなったのだろうか。それに、案内してくれた青年はどこに行ったのか。腰の剣を確かめて辺りを見回せば、離れたところでランタンの小さな灯りが揺れていた。その側に誰かが座っている。


「……ワズ?」


 口から零れ落ちた小さな声に、座っていた人物が顔を上げた。随分と小柄なその姿に、人違いだと気づく。


「目が覚めたか。あの馬鹿ならうるさいから先に行かせた」

「君は……」


 ランタンを片手に近づいてきた人物は、ケインの傍で膝をついてフードを外した。暗がりに溶け込むような黒髪が揺れる。


「私の名前はユーア。この遺跡を調べている者だ」


 橙色の光を映した瞳を細めて、少女は言った。



***



「あそこに光が見えるだろう?」


 少女が指さしたのは、遥か頭上にぽっかりとあいた大穴だ。差し込む白く弱々しい光が、岩壁に覆われた広大な空間をぼんやりと照らしていた。


「お前は馬鹿と一緒にあの穴から落ちてきたらしい。下が水没していて幸運だったな」

「一歩間違えれば溺死だったけどね……助けてくれてありがとう」


 ユーアの話では、ここは彼の目指していた湖のさらに地下にある遺跡らしい。出口に案内しようとする少女を引き止め、こうして深部へと同行しているのは、彼の目的が単に湖に行くことではないからだ。


 まだ湿っている服の裾を再び水で濡らしながら、ケインはきょろきょろと辺りを見回す。石造りの遺跡には、所々に神殿のような荘厳さのある装飾がある。


「ここの遺跡は何のために作られたんだろう」

「さあな。少なくとも、ここはまだ生きている遺跡だ。ただの廃墟と思うなよ」

「生きている?」


 少女は天井を指し示す。頭上を見上げたケインは、思わず息を呑んだ。大きな亀裂のある石の隙間からは、青い湖水とそこに差し込む光が見えている。しかし、透明な障壁があるかのように、そこから水が落ちてくることはないようだ。


「今も形の残っている遺跡は、ほとんどが魔術士の時代に作られたものだ。だから建物自体が魔術で建てられていたり、何かしらの魔術罠があったり、本来の機能としての魔術機構を残していることがある」

「そんな場所で彼を先に行かせたのかい?」

「あれは簡単に死なないから気にするな。お前が遭遇した水の獣も、遺跡の防衛魔術の一つかもしれない」

「……でも、あそこはまだ遺跡の中じゃなかった」

「侵入者を排除することに特化したものかもしれない。こうして内部を調べていても、私は一度もそれには遭遇していないしな……だが……ふむ……」


 口元に手を当て、少女は視線をどこかに固定したまま思考の海に沈んでいく。それでも通路を曲がる足が止まらないのは、さすがといっていいのか。十五かそこらに見えるが、こうして話しているとそれを忘れそうになる。あの変に無邪気な青年と連れ立っているのなら、案外釣り合いがとれているのかもしれない。


「こういう遺跡に人が住んでいることはあるんだろうか?」

「人? ああ、お前は魔術士……魔女を探しているんだったか。別に住むのは不可能ではないだろうが――」


 不意に言葉を途切れさせたユーアが振り向く。同時に冷たいナイフを首筋に当てられたような殺気を感じ取り、ケインは少女を抱えて横に跳んだ。さっきまで少女がいた場所を、何かが通り過ぎていく。轟音と共に石壁を砕いたその威力に背筋が凍った。


「勘がいいのね」


 場違いに穏やかな声に振り向けば、いつの間にかそこには一人の女が立っていた。その傍らには、森で見たより一回り大きい水の獣が追従している。


「もう会うことはないと思ってたわ。久しぶりね」


 数年ぶりに出会った魔女は、あの日と変わらぬ姿で艶然と微笑んだ。

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