鱗の石 06

 瞼の向こうに光が見える。うっすらと目を開けたサリアは、枕元の椅子に誰かが座っているのを感じた。


「まだ寝ていなさい」


 そっとその目元が手で覆われる。心地よい微睡みに再び沈みかけたサリアは、朧げに昨夜のことを思い出して飛び起きた。


「し、シェリンは!」

「そこで寝てる」


 示された隣に、健やかに寝息を立てる妹が眠っていることを確認して、安堵と共に体の力を抜く。サリアの体がぽすんと寝台に沈んで巻き上がった埃が薄い陽射しの中で輝く。ぼんやりとそれを見ていた彼女は、傍らで小さく笑う男に目を向けて口を開いた。


「おじさん、体は大丈夫?」

「平気だ」


 その顔にも手当の跡があるが、ドミアスが気にする様子はない。衛兵として働いている人だ。サリアにとっては痛そうでも大したことはないのかもしれない。そんなことを考えている彼女にドミアスは不意に深く頭を下げた。


「すまなかった。気づいてやれなくて」

「お、おじさんは何も悪くない。私がもっと、」

「そんなこと言わせてる時点で、保護者失格だ」


 そう言われてしまうと謝ることもできない。だが、サリアの個人的な事情に巻き込まれたのはドミアスの方だというのに。形にならない謝罪を言い淀む彼女に、顔を上げた男は苦笑した。


「エルラは魔術士だった」

「……母さんが」

「あいつは昔から隠し事が下手だったからな」


 懐かしむように遠くに目をやったドミアスにサリアが何かを言おうとしたとき、部屋のドアが軽く叩かれた。返事を待たずに入ってきた人物を見て、サリアは尾を踏まれた猫のように飛び跳ねる。寝台から転げ落ちそうになった彼女を、ドミアスが危なげなく受け止めた。


「目が覚めたか?」

「な……な……」


 サリアははくはくと口を動かしてその人物を凝視する。その稀有な美しさと静かな銀色の瞳は、間違いなくあの女を圧倒的な力で叩き潰した黒髪の少女だ。呆然とする彼女の耳に更に近づいてくる足音が届く。


「ユーア」


 少女の後ろから黒髪の男がひょっこりと顔を出す。その手にあるものにサリアの目は釘付けになった。彼女が加工をしている途中だった赤い宝石、そこからびっしり生えているのは奇妙な形をした結晶だった。


「それは……?」

「鱗だ」


 サリアの疑問にワズが答えた。その手から宝石をつまみ上げた少女が続ける。


「お前が使っていた宝石は全てあの蛇女から渡されたものだろう? あれは自分の鱗を宝石にしていたんだ。その方が術式を刻みやすかったんだろうな。そして刻まれた式を、集中していると勝手に魔力を洩らすお前が発動させて宝石の呪いの完成」

「ま、待ってください。それはどういう」

「呪いとやらに関して、お前に原因はないということだ」


 その言葉の意味をサリアはゆっくりと理解する。気がつけば、その大きく見開かれた目から涙が溢れ落ちていた。



***



「明日の朝にはこの街を発つ。何かあればそれまでに宿を訪ねてくるといい。ユーアと言えば分かるはずだ」

「了解した」


 簡潔なドミアスの返答に一つ頷き、少女——ユーアはどこからともなく取り出したローブを纏う。顔の隠されたその姿は底知れぬ印象だが、フードの下の稀有な美しさを知っている彼にとってはむしろ、こちらの方がまだ現実味があるように思えた。遠のく小さな背中が角を曲がって消えたのを確認して、彼は知らず知らず押し殺していた息を吐く。


 ――魔術士というのは、一国に一人居るか居ないかという程の珍しい存在だ。魔術とは既にほぼ失われている力である。だからこそ国はそれを求める。名乗り出て保護されれば、王族にも等しいほどの扱いを受けることができるだろう。


 しかし、それは同時に自由を認められないということだ。魔術を少しでも発展させるために、魔術の研究をすること以外はほとんど認められない。魔術士は血によってその力を継ぐと言われていることから、自由に誰かを愛することはできない。だからこそ、サリアとシェリンの母親だったエルラはその力を隠して旅をしていた。


 国に属さない流れ者である少女が、なぜ今回ここまで手を貸したのかは分からない。だがどんな理由があったとしても、彼女が手を貸してくれたことは事実なのだ。彼女が何者であろうとそれは変わらないはずだ。


 部屋に戻ってきたドミアスを、椅子に座って本を読むサリアが迎える。


「何か不調はないか? 痛みは?」

「大丈夫だよ」


 心配しないで、と微笑むサリアの頬には一本の傷痕が走っている。あの少女の話ではそれはただの傷ではなく、サリアの魔力を霧散させる魔術が込められているらしい。一生残る傷痕を顔に残されたサリアがそれを嘆く素振りはない。これは覚悟だから、という言葉の意味はドミアスには分からないが、本人が納得しているのなら口を出すつもりはなかった。


 賑やかな声が聞こえる。見れば、窓の外では近所の子供たちが楽しそうに遊んでいる。その中に混じるシェリンも昨日ならず者たちに狙われていたと聞いた。もしも今回の件でシェリンに何かがあれば、サリアの心に大きな傷を残すことになっていただろう。


 と、ドミアスの視界を何か大きなものが横切った。思わず目で追って、彼の顔に困惑とも呆れともつかない表情が浮かぶ。当たり前のように子供たちに混じっているのは黒髪の青年だ。一緒に遊ぼうと誘うシェリンに即答で了承し、夜までには戻るようにと呆れ顔のユーアに釘を刺されたワズである。大の男が全力で子供の遊びを楽しんでいる様子を、果たして微笑ましいと思っていいのだろうか。彼はワズという、ある意味でユーアよりも理解不能な存在を扱いかねていた。


 結局、彼は何者なのだろうか。



***



 夕暮れの薄闇の中、建物と建物に挟まれたその場所で何かが蠢いていた。鎌首をもたげた小さな蛇は、宿の裏手から窓を睨みつけてちろちろと舌を動かす。


「何してる?」


 唐突にかけられた不思議そうな声に、蛇はびくりと体を震わせて壁の隙間に逃げ込もうとする。しかしそれより前に素早く尾を掴まれた蛇は、逆さ吊りになりながらなけなしの抵抗に威嚇の声を上げた。


「何で怒ってる?」


 首を傾げる青年を、蛇は――彼女は知っていた。しゅるしゅると舌をしまい込んだその口が開き、艶のある女の声が響く。


「お前さえ私に従っていれば、今頃あの小娘なんて殺してやったのよ。絶対に、絶対に許さない」

「サリアなら自分の家だぞ。迷子か?」


 目を丸くした青年に彼女は苛立ちを募らせた。女の目的が誰なのかなど、わからないはずもない。塵になった鱗から僅かな魔力をかき集めて復活した彼女に、害する力がないと馬鹿にされているのだ。


「邪魔をするなら先にお前を殺してやるわ」


 飛びかかった蛇の牙はその首に深く深く食い込み、びくりと青年の体が跳ねた。油断していた青年にろくな抵抗などできるはずがない。後は毒が効くのを待つだけだ。その間に、この青年の魔力を奪い尽くしてやろう。


 にまりと蛇は笑い――そうして、そのまま絶命した。



***



 朝日を浴びたユーアが欠伸をする。


「ユーア、あの生き物は何だ?」

「馬。人や荷物を運ぶ」


 一昨日までの祭りの気配は既に消え、街を去る商人や旅人の姿がちらほらと見える。


「おれもあれに乗りたい」

「馬は臆病だから多分お前を怖がる」

「じゃあ、おれが馬になるからユーアが乗れ」

「お前……どうしてそんな語弊のある言い方を……」


 取り留めもない話をしつつ人の流れに沿って歩く二人は、街の出口が見える辺りでその足を止めた。入るときには衛兵が二、三人人立っていただけだったそこは、いつの間にやら大規模な何かになっていた。ワズの知識にないそれは検問所だ。この街の衛兵とは違う服装の兵士たちを見て、ユーアがため息をつく。


「塔の件の後処理はドミアスに任せたんだが……まあ、限界はあるか」

「あれは何だ?」

「この国の兵士だ。魔術士を探してるんだろう」


 踵を返したユーアの背を追いながら彼は首を傾げる。門のあたりにいる兵士たちは、わざわざ避けるほどの相手だとはとても思えない。なのに、どうして戻る必要があるのだろうか。ワズの疑問に、ユーアは笑った。


「せっかく探してくれてるんだ。存分に見せつけてやろうじゃないか」



***



 検問所で商人の荷物を検めていたその兵士は、地鳴りのような轟く音に顔を上げた。


「あれは……」

「魔物、なのか……?」


 隣にいた同僚が呆然と呟くのを聞き、彼は自分が狂ったわけではないことを知る。


 その存在は街の中で一際高い塔の上で街を見下ろしていた。闇を塗り固めたような鱗が、朝日を受けて美しく輝いている。その巨大な翼が開き、黒い魔物は咆哮と共に塔の上部を蹴り壊して飛び立つ。


 暴風が激しく吹き荒れ、検問所の屋根が木の葉のように吹き飛ばされた。目で追った彼は、その落下点に幼い少女が立っていることに気がついて顔を青ざめさせる。魔物に目を奪われた少女は気づかない。重い木の板が少女の体を叩き潰す、その直前。


 虚空から現れた光の盾が瓦礫を弾く。


 目を見開いてへたり込む彼女の目の前で、瓦礫は力なく地面に転がる。頭上の魔物に目を向けた彼は、その上に誰かが乗っていることに気が付いた。


「……魔術士だ」


 誰かの口から零れ落ちたその言葉に、自分たちがわざわざ夜を徹してこの街に派兵された意味を理解する。だが、一体どうやってあのような存在を捕らえろというのだろう。剣を抜くこともできずに、街を飛び去る魔物をただ見送る。


 風を纏った魔物はそのまま遥か遠く、隣国がある山脈の向こうへとその姿を消したのだった。



***



 街を突如として襲った暴風は、誰一人として怪我人を出すことなく過ぎ去った。またいくつかの証言から、暴風を起こしたその魔物は『黒竜』と呼ばれることになる。


 そして堂々と群衆の前でその名を名乗った『黒竜の魔女』本人については、なぜか居合わせた誰一人としてその姿も声も覚えていなかったという。

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