鱗の石 05
吹き込む風に流された黒髪が水に落としたインクのようにふわりと広がる。質素なワンピースから覗く白い肌は夜に薄く染まっている。一枚の絵画のような光景に、サリアの口から無意識に吐息が零れた。
「挨拶もできないのか? ああ、人の言葉を解さない生き物だったか」
花弁のような唇が動いて辛辣な言葉が紡がれる。痛烈な皮肉と共に絵画から抜け出した少女は、重さを感じさせない動きで床に降りた。輝く月の光を集めた銀色の目が、部屋の中の人々を静かに睥睨する。
「……あなた、誰? 私に何の用?」
強ばった笑みを浮かべて女が長椅子から立ち上がる。塔の主として振舞っていたその姿も今では矮小に見えた。黒髪の少女は僅かに目を細めて手を差し伸べる。その掌に音もなく現れた光球に、サリアは警戒も忘れて釘付けになる。
「お前ごときに用はない」
放たれた光球は真っ直ぐに女の体へと吸い込まれていき、勢いを減じることなく突き抜けた。逃げることも抵抗することもできない、一瞬の出来事だった。己の胸元に空いた拳大の穴を呆然と見下ろして、そのまま力なく仰向けに倒れた女は動かなくなる。あっさりと死んだ女を見下ろしてサリアはただ呆然と立ち尽くす。近くにいた女の部下たちが、糸の切れた人形のように崩れ落ちる音が遠く感じた。
「ワズ」
すぐ傍で少女の声がしてサリアの心臓が大きく跳ねる。いつの間にか近くに来ていた少女は、大きくため息をついて腕を組む。その視線の先にいるのはあの黒髪の男だ。そう、そういえば彼はワズと名乗っていた。
「どうしてお前はこうも的確に厄介事に頭を突っ込んでくるんだ」
「どこにも頭なんて突っ込んでないぞ」
「これは比喩表現というものだ」
自分の頭を触ってワズが首を傾げる。心配して損した、とぼやきながら少女は男に背を向けた。
「さて、と」
先程までと何も変わらない声色なのに、ぞわりと肌が粟立つ。
「謝罪の一つでもあれば聞くが、そんな気もなさそうだな」
「あ……」
その銀色に捉えられ、サリアの背筋に冷たいものが伝った。無意識に引こうとした足が動かない。動けない。逃げることなど許されない。態勢を崩して尻餅をついたサリアの両足には、見えない太い縄に拘束されたような跡が刻まれていく。ぎりぎりと縄がきつくなるのを感じて、サリアは痛みに顔を歪めた。
「逃げられると思わないことだ。私は優しくない」
目の前に立った少女は、静かにその手をサリアへと向ける。その銀色の瞳には、呆然とへたり込む自分が映っていた。
――これが魔術。自分のような粗末なものではない、本物の魔術なのだ。殺されるのだろうか。そんなことを受け入れられるはずがないのに、いくらそう考えても身体に力が入らない。シェリンを守るためなら、何をしてでも生きていくつもりだったのに——どうして消えてしまいたいなんて思っているのだろう。
妹が狙われていたのはサリアの血縁だったから。ドミアスが危険に晒されたのはサリアの知人だったから。自分さえいなければ、危険が及ぶことなんてなかった。本当に守りたいのなら、サリアにできることなど一つしかなかった。
気がつけば、サリアは祈る様に両手を組んで静かに目を閉じていた。痛いほどの静寂の中、圧倒的な力が迫ってくるのを感じる。瞼の裏に二人の顔を思い浮かべ、サリアは唇を噛んだ。
頬を、剃刀のような刃が浅く切り裂いていく。少しの疑問を抱いたのも束の間、びちゃりと身体に降り掛かった冷たい感触に思わず目を見開く。
「……な、ん」
目の前に転がっているのは大きな蛇の骸だった。サリアの足を拘束していたその身体は力を失って緩んでいく。
「まったく、最後まで諦めの悪い蛇女だ」
独り言と共に少女がつま先で転がしたのは、切り落とされた蛇の頭だ。牙の並んだ顎を大きく開いて、まさに噛み付く瞬間のまま絶命している。濁り始めた目に既視感を覚えてソファーの方を見れば、そこには血に汚れた服だけが落ちていた。
「まさか……」
魔物、という単語が頭の中に浮かぶ。幼い頃、寝物語に出てきた人を襲う恐ろしい存在。作り話だと思っていたそれがサリアのすぐ近くに潜んでいた。現実味のない事実に眩暈がする。
「足が折れていないのなら立て」
黒髪の少女は、当たり前のようにサリアの手を引いて立ち上がらせる。思ったよりも強い力にふらつく足元で火の手が上がる。飛び退いたそこでは、あの蛇の骸が白い炎に巻かれていた。見る見るうちに黒くなった死体は、やがてその形を維持できずに崩れて塵になる。少女が手を振れば、炎は燃え広がることもなく静かに消えた。
血が滲んだ頬に、白磁のような手が触れる。
銀色の目がまっすぐにサリアを見ていた。その手を思わず叩いて振り払い、一歩後ずさってから青ざめる。軽く首を傾げた少女は己の手に目をやって、立ち尽くす彼女を鼻で笑った。
「私が怖いか? お前だってその手で人を殺しただろうに」
ひゅ、とサリアの喉から音が洩れる。
「作っただけなんて言い訳はしないことだ。お前が作ったものが人を殺した。嵌められたとはいえ、それは紛れもない事実だろう?」
脳裏に蘇るのは初めて見た死人の姿。宝石の呪いで精神を病んで、自ら露台から落ちて死んだのだと聞かされた。見覚えのある指輪が、耳飾りが、首飾りが、その血の気のない体を彩っていた。
初めて依頼された仕事だった。精一杯頑張って作った作品だった。父のような、美しいものを作る職人になりたかった。なのに、どうしてこんなことをしているのだろうと何度も自問自答した。やがて疲れきって、考えるのをやめた。
「それはお前が背負うべき命だ。決して、忘れてはならない」
冷たくも温かくもない、ただ言いかせるような声で少女は言う。その言葉が深く己の胸に突き刺さる痛みに思わず目を伏せ、サリアは数秒目を閉じる。しかし再び顔を上げた彼女は目の前の白銀を見つめ、己の意思を示した。
「いいだろう」
サリアの頷きに、少女はひどく大人びた笑みを浮かべる。緊張の糸が緩み、崩れ落ちそうになったサリアは彼女に受け止められた。瞼が重くなってそのまま意識が遠のいていく。
「……今まで、よく耐えた。ゆっくり眠るといい。そして――」
少女の最後の言葉を聞き取る前に、サリアは意識を手放した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます