2 夜に潜む

       

「このあたり、洗濯機に入れとくか?」

「ああ……」恭平は、手のひらで目頭をもんだ。

 井上は部屋に散乱したシャツやタオルを、ひょいひょいと拾い上げていく。その動きを樹里が壁際から目で追った。

「樹里、コタツに入ってな……」

 身体をひきずって、恭平はキッチンに立った。

 ケトルに水を注いでいると、井上が後ろを通り過ぎた。洗濯機に汚れ物を放り込み、鼻歌交じりに洗剤を投入する。

……井上って、あんなにしっかりしてたっけ?

 ぼんやりと眺めているうちに、ケトルの蓋が揺れ始めた。

 コーヒーを用意しようとしたら、井上が肩を押した。

「恭平は休んでろよ。飯も飲み物も買ってきたから」

「別に病気でもないんだし、そんな世話焼くなよ」

「なんだ。謹慎中だったのか」

「療・養・中。こめかみの腫れが治るまで休めって言われた」

「これ?」

「触んな……」

 暖簾の隙間から樹里がこちらをじっと見ていた。「どした?」

「……うちもそっちに行っていい?」

「なんで尋ねる?」

 アディダスの靴下と、甲高な裸足と、高校指定のソックスがキッチンマットに並ぶ。

「樹里ちゃん、隣においでよ。美味いコーヒーの淹れかた教えてあげるよ」

 反射的に井上の脇腹に肘を入れた。「キレすぎー」

 けらけら笑いながら、井上はコーヒーのハンドルを握った。ものすごい勢いで豆が粉砕されていく。

 キッチンに響くボリゴリガリゴリという素朴な音は耳触りが良いわけではなかったが、和太鼓を聴くようなすがすがしさがあった。

 ふいに、スウェットの裾が引かれた。

「ひげ」

「え?」

 樹里が小さく首を傾げた。

「ひげが生えてる」

「ああ……」顎周りを撫でたら、確かにざらついている。

「恭平の、初めて見た」

「まあ……あんまり生やすのは好きじゃないから」

「恭平みたいな薄い顔には似合わないよなー。樹里ちゃん、俺はどう? 顎ひげとかよさそうじゃない?」

「ヤクザにしか見えねえよ」

「そういう、心底疲れた顔で言うの、やめてくださる?」

 井上はミルを空回りさせた。



「――んで、いまどうなってんの、会社?」

 コタツに座ってすぐ、井上に切り出された。

「……保険については、トラック共済が動いてる」

「休んでる間に恭平がすることって、なにかあんの?」

「たぶん、ない……」

「じゃあ存分にだらけられるな」

「は?」

 部屋の隅に置いてあったボストンバッグを井上は引き寄せた。レンタルビデオ店の不織布バッグから、ⅮⅤⅮと大量のマンガが出てきた。

「球団には、明後日まで休むって言ってあるから、のんびりやろうぜ!」

 イーハー!と、井上はマグカップを掲げた。「さあて、どれから観る? てか、俺もスウェットに着替えていいか?」

「泊まる気か?」

「このラインナップを見て、なんで帰ると思うんだ?」

 コタツに広げたポテトチップを、井上は恭しく示した。

「うち……なにも準備してない」

 愕然とした顔で、樹里が制服を見つめる。

「帰る一択だろ……」

「そうだね、樹里ちゃんは夜になったら帰ろうな。駅まで送ってあげるよ。なあ恭平、デッキの電源ってどこだ?」

「お前って、ほんっと……」

「――明日、休みだよ?」

 電源を入れようとしたら、背後から声がした。「うちも、泊まるのは……」

「なし! 絶対なし!」

 肩を震わせる井上を、ケースの角で殴りたくなった。



「うわっ、さむ」

 井上は、二の腕をさすった。外に出ると、ピアスから熱が奪われていく。骨がきしむような内側からの震え。「あー、こたつから出ると、めちゃめちゃ寒く感じる」

「井上さん、脂肪少なそうですもんね……」

 口元までマフラーをすっぽり巻いて、樹里は地面を睨みつけた。「エンドロールの途中で帰れって……恭平の鬼」

 ローファーに小石が当たって、脇の草原に転がっていった。

「まあ、8時過ぎてたしね。『バイオハザード』こんど一緒に続編観ようね」

 二人は線路沿いの歩道を歩いた。枯れずに残ったススキが、風に吹かれてさわさわと鳴っていた。

 井上はダウンコートの襟をあげた。頭上の雲間から、満月が見えた。月明かりに照らされて錆びた銀色をした雲が、みるみるうちに流されていく。

 満月に向かって息を吐く。月は一瞬かすみ、また輝きを取り戻した。

「――樹里ちゃん。今日は、来てくれてありがとう。部活も休ませてごめんね」

 樹里の足が止まった。

「どしたの?」

「うち……なにか役に立てたんでしょうか」

 井上が背中を曲げて樹里を覗き込んだ。

「どうしようって考えてばっかりで……結局、変なことしか言えなかった」

「――緊張してた?」

「……怖かったです。身近な人が交通事故を起こしたの、初めてで……」

「起こしてない。起こしてない」

 樹里が、はっと顔をあげた。「恭平は、誰も轢いてないでしょ?」

 ススキが、さざ波のようにうねった。

「……そうですね」

「そうだよ」

 遠くで、踏切の遮断機が下りる音が聞こえる。

「別に、いいこと言ってやらなくていいんだよ。特に樹里ちゃんは」

「……馬鹿にしてますか」

「いやほんと。これは樹里ちゃんにしかできないことなんだから……」

 井上が、おもむろに手を伸ばした。

 樹里は、びくりと身体を引いた。

 肩から落ちかけていたマフラーをつまみ、井上は、樹里の顔周りに巻き直した。

「樹里ちゃん……」

 微細に揺れる樹里の瞳――恭平から「ノネコ」と呼ばれて慕われている彼女の瞳――を、井上は覗き込んだ。「恭平の側にいてやって。もうダメだって思う、ぎりぎりまで」

 線路を削るような音を立てて、ワンマン列車がプラットフォームに到着した。

 窓越しに、樹里は井上を見つめ続けた。井上も、電車が見えなくなるまで、ひらひらと手を振り続けた。



「たーだいま、っと」

 部屋に戻ると、恭平は2本目の映画を見ていた。「お、風呂はいったん?」

 新しいスウェットを着て、髭も綺麗に剃られている。こめかみに貼ってあったガーゼがはがされて、真っ青な痣がむき出しになっていた。

「髪、濡れてんじゃん。風邪ひくぞ」

「……樹里は、ちゃんと帰ったか?」

「改札まで見送ってきたよ。さて、大人の時間を始めますか!」

 持ち手が伸びたコンビニの袋を、コタツにどかりと置いた。

 缶ビールとスピリッツの小瓶がずらりと並ぶ。

 ため息をついて、恭平はスミノフアイスの蓋をひねった。

「いまなに見てんの?」

「――なんも」

 恭平の前髪からしずくが落ちた。「こんなときに……頭になんか入るかよ」

 恭平は天板にひたいを押し付けた。丸まった背中に、肩甲骨の輪郭が見えた。

「――聞き流すだけでいいじゃん」

 ベッドの脇にもたれかり、井上は缶ビールのプルタブを曲げた。

 ハンス・ジマーのBGMと、ド派手な効果音と、俳優たちの雄弁なセリフは、特になんの感動も与えず部屋の中に溶けていった。

 それでよかった。

 今日はそういう日を過ごすつもりで来たのだから。

 井上はビールをあおった。

 さあ、夜は始まったばかりだ。

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