第三章
1 ベンジャミンバトン、あるいはメメント
――ゆっくり思い出して。
警察署の男の声が、瞼の奥でこだまする。
カーテンを閉め切った部屋で、枕もとの携帯が光っている。恭平は待ち受け画面の日付を見つめた。
4月2日 7時14分。
――なにがあったのか、詳しく教えて欲しいんだ。
事故の日は……すごくすごく寒い日だった。
朝からどんよりした曇り空で、雪が降るんじゃないかと思うくらい……
35時間前(事故当日 3月31日 20時08分)
「――そもそも君は、なんで荷台のバンの中にいたの?」
取調室で、警察官が恭平を見据えた。
「大きい家具なんかがあると、たまに入るんです……崩落を防ぐためにも、荷物の見張り番として……」
こんな寒い日に大変だね。と警察官は眉をひそめた。
……本当は、バンに入る必要はなかった。上司も、俺が居たことを聞いて、きっと驚いただろう。
39時間前(事故当日 3月31日 16時03分)
いきなり身体が前にとばされて、床にこめかみを打ち付けた。
急ブレーキ? と思った次の瞬間、小さな衝撃が車体を揺らした。
子どもの頃、田舎の祖父の軽トラに乗せてもらったときに、道路に飛び出してきた鹿を轢いた振動に似ていた。
四つん這いの姿勢のまま、恭平は動けなかった。心臓がどくどくと脈打った。
外から悲鳴があがった。
「救急車!」何人かの叫び声。おそるおそる立ち上がった。トラックは止まっているが、うかつに扉を開けていいのか判らない。
助手席にいる
――水谷さん。
7回目で八木原の震える声が出た。
「なにがあった?」
受話器の向こうで、救急車のサイレンが聞こえた。扉越しに響くサイレンと重なって、止まった。
めまいがした。なんで俺は、たった5メートルの距離にいる八木原と電話しなくちゃいけないんだ?
――こ、交差点で、人が。
「八木原! 今すぐ鍵を開けろ!」
怒鳴ったのと同時に、がちゃりと音がした。扉を開けたのは、運転手の
うつろな視線で、扉を押さえたまま動かない。隣に、白バイの警察官が立っていた。驚いた顔で、「あんた」と、手を差し伸べた。
バンを降りようとして、思わず息をのんだ。救急車の車体と、明滅する赤いライトと、ストレッチャーで運ばれる女性の、血に染まったコートが見えた。
40時間前(事故当日。3月31日)
「水谷、お前、中で見張り番な」
佐伯に突き放されるように言われて、恭平は帽子をゆっくり外した。
ついに嫌われたか……
反論してやろうかとも思ったが、新人の八木原がおろおろするので、諦めた。
「運転は俺に任せときな」
ほくそ笑んで、佐伯はバンの扉を閉めた。
外側から鍵をかける音が、無情に響く。やがてトラックが発進し、積まれたダンボールや家具が、みしみしと音を立てながら揺れ始めた。
かといって、そう簡単に崩れることはないので、恭平は扉の前で腰を下ろした。
「暇……」
床につけた尻と両手の平から、3月の冷気が伝わってきた。
いじめに近い佐伯の態度は不愉快ではあったが、不可解ではなかった。「佐伯の運転に危ないところがある」と上司に相談したのを、おそらく知っていたのだろう。
佐伯は中途入社で、前は運送会社に勤めていた。
その割に、危なっかしい運転が多く、特に交差点ではひやひやした。佐伯は交差点を右折するとき、中心に寄らずに曲がろうとするのだ。斜めショートカットの右折だと、自転車や歩行者が飛び出したときに危険だと、本人にも伝えたのだが、怒らせるだけだった。
恭平は、家具を包むための布カバーを引き寄せた。身体に巻きつけ、身を縮めた。
――早く仕事を終わらせて、家でゆっくり眠りたい。
瞼がゆっくりと重たくなっていった。
41時間前(事故当日 3月31日)
「ふざけんなよ。最初からへこんでたじゃねーか」
佐伯が、助手席のグローブボックスを蹴りつけた。「梱包の段階でへこんでただろうが!」
「搬入時の書類には、そういった記録はないですね……言い争ってもしかたないですよ」
搬出時に、佐伯が荷解きした冷蔵庫の背面にへこみができていると、依頼人に指摘されたのだ。
恭平は携帯を出した。
「おい。俺がやったって、営業に報告するのか」
電話がつながったのと同時に、睨まれた。「代われ! 俺が説明する」
「いや、自分が……」
携帯をもぎとり、ああ? なんだって? と、通話口にがなった。
恭平は荷台に行き、大きく息をついた。
繁忙期で、みんなどこか苛立ってる……。
これから搬出するダンボールが、荷台の奥にそびえていた。
恭平は手袋をつけ直した。
時間は押したが、二件目もなんとか終わることができた。
44時間前(事故当日。3月31日)
「水谷さん……なんか佐伯さん、今日機嫌悪いんですかね……?」
助手席に座っていた八木原が、小声で話しかけてきた。
一件目が終わって、昼休憩のときだった。この時期は次の現場まで行く途中にコンビニで食事をとったりトイレを済ます。
ちょうど佐伯がトイレに立ったときだった。
「いつもだったら、あんなことしないんすよ。でも……」
二人で家具を運んでいるとき、わざとかと思うくらい力を抜いてくるそうだ。「他にも、蛍光灯を外すとき、脚立がないから四つん這いになれって……」
「まじか……。腰とか痛くないか?」
「ちょっと背中、ぴりっとくるんすけど」
「二件目は俺が佐伯さんと組むわ。八木原はSサイズのダンボール運んどきな」
サイドミラーに、コンビニから出てくる佐伯が見えた。
八木原を中央の座席に寄せて、恭平は佐伯が座る場所を開けた。
47時間前。(事故当日。3月31日)
「あー、マジだりい」
助手席で佐伯が頭をかいた。
中央の座席で狭そうに足を閉じている八木原も、眠たそうな顔をしている。
「繁忙期はもう、諦めるしかないですね。今日も三件、がんばりましょう」
「いーやー、もう無理。浅野さんは、いいタイミングで辞めたよなー。つーか、繁忙期直前に辞める度胸にマジで引くわ」
「あの……浅野さんって研修のときにいた、お姉さんですか?」
「おばちゃんだよ。おせっかい大好きおばちゃん」
返事に困っている八木原に構わず、佐伯はあーあ、と背伸びした。「浅野さんが辞めちまうから、現場に加えて事務作業まで増えちまった。ほんと迷惑だっての」
「……家庭の事情だったんですし、しかたないですよ」
――浅野さんが辞めてから、作業員同士でギスギスする場面が増えた。
浅野さんの仕事は、思っていたより多岐に
さりげなく淹れてくれたコーヒーも、スキルアップにつながる研修の手配も、浅野さんが自主的にしてくれていたのだ。
「――佐伯さん、次の現場まで寝てていいですよ。一時間くらいかかりますから」
「こんな狭くちゃ、寝れねーよ!」
中央の簡易座席に座った八木原が身体を縮めた。
恭平は黙ってアクセルを踏んだ。
フロントガラスから見える空がどんよりと曇っていた。今にも雪が降りそうだった。
22日と7時間前(3月10日)
「誰だよ、ふざけたこと報告したのは!」
金属音が営業所に響いた。隣のシマで、佐伯がスチール机を蹴っていた。
「おいおい、どしたのよ」
ベテラン作業員が、あやすように声をかける。佐伯は振り払うように部屋を出ていった。
「どうしたんですか……佐伯さん」
総務の女性社員に、そっと尋ねてみた。
「さっきの朝礼で、森さんからお𠮟りを受けたみたい。運転操作で危険なところがあるから気を付けるように、って。前にも言われたのにねー、直らないのね」
「あー。そうなんすね……」
佐伯の運転操作の件を、森さんに相談したのが自分だとは、ちょっと言いにくかった。
「佐伯くん、前から怒りっぽい性格だったけど、最近ちょっと目立つよねぇ」
32日と15時間前(2月28日)
浅野さんが、会社を辞めた。去年の11月に、森さんと三人で飲みに行ったときに聞いた通り、2月末での退職だった。
「浅野さん。今までお世話になりました!」
終業直前、女性作業員が浅野さんの机に集まって、彼女に花束を渡した。
ひえー、なんじゃこのサプライズ! 浅野さんは、椅子からひっくり返るくらい、のけぞった。あー、もう、どうしよう! と、涙目で笑う。
「元気でなぁ」「お子さんが大きくなったら戻っておいでよ」
部長たちに囲まれて、浅野さんは、はにかんだ。
そして壁際に立っていた恭平にくるりと顔を向けた。
「じゃあね。みんな元気でね。あたしが言うのもなんだけど、がんばって働くんだよ!」
浅野さんが掲げた花束から、小さな白い花びらが、落ちていった。
――正しい道は、いったい、どこから途切れてしまっていたんだろう。
恭平は布団を握りしめた。
耳鳴りがする。高くて細い音が、とぎれとぎれ続く……。
それがインターホンだと気づいたのと同時に、声が降って来た。
「生きてるか!」
井上に思いきり布団をはがされた。
「なんで……」
井上の後ろから、樹里がこわばった顔を出した。
壁かけ時計の長針が、かちりと動いた。
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