3 ひび割れる日常

      

 一週間ぶりに営業所に入ると、机の配置が換わっていることに、恭平は気づいた。

「――佐伯は退職したよ」

 倉庫の裏の喫煙所で、森さんはタバコを咥えた。

「懲戒解雇ですか……」

「ちゃうちゃう。自己都合だよ。会社側は解雇する気なんてなかったのに。あいつが負担する損害賠償もあったから、なおさら辞めない方がいいと思ったんだけどな……」

 恭平は砂利に目を落とした。

「……八木原は? さっき見かけませんでしたが」

「うん。あいつは有給消化中」

 森さんはライターをいじった。「親御さんから連絡があったんだけど、職場に行ける様子じゃないらしい。しばらく実家で休ませるって」

 タバコの煙が、二人の間を流れていった。

「――さて!」

 森さんが、腰を伸ばした。「ま、暗い話は終わりだ。水谷も無理すんなよ。今日は書類書きか?」

「はい。午後からは搬入に出ます」

「なんだ、もう現場か?」

「繁忙期はまだ終わってませんから」

 森さんは口をへの字にした。恭平の帽子のつばを掴んで、顔が隠れるまで引き下ろした。「こめかみのケガもまだ消えてないんだから。無茶すんなよ」

「ありがとうございます」


 傷害保険の申請書を書いているあいだ、机には誰も近寄ってこなかった。関わり合いたくなさそうな事務員たちの空気に、居心地が悪かった。

 ――空気。そう、空気。

 一週間前とはまったく違う営業所の雰囲気に、正直、動揺した。タイムカードを押してすぐに森さんが声をかけてくれなかったら……

《――お昼になりました。皆さん、休憩を取りましょう》

 いきなりのアナウンスに、思わず腰が浮いた。内勤の人たちがぱらぱらと席を立ち始める。

「びっくりした?」

 古参の女性社員が、おかめのように笑った。「お昼のチャイムなんて新鮮でしょ。お昼休憩、ちゃんと取るんですよ」

「はい……」

 エアコンを見上げて、恭平は大きく息をついた。


「シートベルト閉めたなー」

 午後。4tトラックの運転席で、畑が声をかけた。助手席で頷くと、

「すんません。これ、どこに差したらいいんすか?」

 中央の補助椅子に座ったバイトが、バックルを探した。

「ここだよ」

「あー、すんません。いっつも場所わかんなくなっちゃって。えーっと、今日初めて一緒っすよね。原田って言います。お互いがんばりましょー」

 彼はにこにこと握手を求めてきた。

「原田くんよー。水谷は社員だからね」

「えっ! うわ。すんません。入ってすぐでなんも分かってなくて」

「いいよ。気にしないで……」むしろ、なにも知らないでいてくれてありがたい。

「次のお宅はマンションの4階だけど、階段しかないからな。家具の安全な運び方、水谷に教わっときな」

「お願いしまっす。てか、お若いのに社員とかすごいっすね」

「そう……?」

 二十四歳なら就職してもおかしくない歳だけど。「大学生だっけ。がっしりした体格してるね」

「そっす。柔道やってるんすよ!」

「へえ……」

 その瞬間、身体が左に傾いた。

 交差点をトラックがゆっくりカーブしていく。

 隣で、畑が恭平を一瞥した。

「……どうかしたっすか?」

「……いや」 

 心臓の音が、叩きつけるように鼓膜に響いた。息が勝手に早くなる。恭平は深呼吸を繰り返した。

「トイレっすか?」

「……大丈夫」

 治まりつつある動悸を意識しながら、恭平は唾を飲んだ。「なんとも、ないから……」




「水谷。今日は2tトラックな」

「はい」

 翌日。恭平は運転席のハンドルを握りしめた。手袋がじわりと湿ってきた。

 助手席の同僚は、のんびり缶コーヒーを飲んでいる。

 エンジンをかけた瞬間、違和感を覚えた。

 フロントガラスから見える景色は、だだっ広い駐車場だ。それなのに、運転席から見えているというだけで、膝が震え出した。

――苦しい。息がしづらい。

 口を開けて酸素を吸おうとするのだが、ますます苦しくなっていく。アスファルトの駐車ラインが、ぐにゃりと歪んだ。

「おい、誰か来てくれ!」

 同僚が運転席のドアを押し開けた。事務員や部長たちが走ってくる。

 引きずりだされるように駐車場に降ろされた。

「水谷くん。ゆっくり息を吐いて」

 背中を支える誰かに言われた。「吐くんだよ。吸うより、吐いて」

 ゆっくり吐いて。と、穏やかな声で繰り返された。

 吸って、吐いて、吐く……。

「どう?」

「……楽になりました」

「よしよし」

 視界の端にグレーのスーツと、ストライプのネクタイが見えた。「仮眠室まで歩けるかな?」

 総務部長が、恭平の背中を、ゆっくり押した。

 結局、午前の現場は同僚が一人で向かうことになった。

 仮眠室のベッドで、恭平は奥歯を噛みしめた。時計の音がやたらとうるさかった。

「――あれって、過呼吸か?」

 隣から、ぼそぼそと声がした。

 パイプがきしまないように、恭平はそっと起き上がった。

 わずかに開いていたドアを押すと、給湯室に営業社員が立ち話していた。

「あれだろ。ストレスで起こるやつだよな」

「運転できなくなったのかねぇ」

「あれはまずいよね」

「――あの!」

 一斉に視線が集まった。「……ご迷惑をおかけしてすみませんでした。もう大丈夫ですから。午後は出ます」

 彼らは顔を見合わせた。

「まだ無理しない方がいいんじゃないの」

「そうだな。とりあえず今日はもう上がったら?」

「さっきは、ちょっと異常だったしな」

「いや……ほんと大丈夫ですよ」

「しばらく運転はしない方がいいかもね。リーダーと相談しないか?」

「そうだな。またなんかあったら、それこそ大変だろ?」

 右手が、ズボンを握りしめていた。なんかって、なんだよ。

「……さっきからなんすか。そんな、一回体調崩したくらいで……なんでそんなに仕事の幅せばめるんですか!」

 給湯室に入ろうとしていた事務員が、さっと引っ込んだ。営業の一人がほくそ笑んだ。

「いや。だってなぁ。メンタルの不調ってよくわからんし。そんな危うそうなやつに運転なんてさせらねぇよ」

「メンタルだって、どうして断定するんすか」

「そうですよね。よくわからないことを断定してはいけないですね」

 全員が息をのんだ。総務部長が、おもむろに入ってきた。

「水谷くん。具合、よくなったの?」

「……はい」

 部長は、うんうんと頷いた。

「じゃあ、今から病院行っておいで」

「は?」

「内科で診てもらっておいでよ。なにか病気が隠れてるかもしれないでしょ」

 言い返す前に、部長が胸を指さした。「胸のあたりの圧迫感は、肺塞栓はいそくせんや心筋梗塞。頭痛を伴うなら、くも膜下出血の可能性も否定できないよ。水谷くんは、持病に糖尿病とか、腎不全はある?」

「……持病は特になにも」

「部長―、やけに詳しいじゃない」

 年配の営業が茶々を入れた。

「この年になったら、嫌でも健康に気を遣わないとね」

 ほほほ、と笑い、総務部長は、恭平の二の腕をたたいた。「なにが原因か判らないんだから、ちゃんと見てもらっておいでなさい」



「――身体は、特に悪い所見は見当たらないですね」

 総合病院の内科医は、パソコンにカルテを打ち込んだ。「この前、事故現場に遭遇したんですって?」

「事故ったトラックの、荷台に入ってました……」

「ふうん……」

 医者は、鼻でため息をついた。「ご希望でしたら、心療内科、予約しましょうか?」

 唾が、喉をごくりと落ちていった。

「……俺、精神病ってことですか?」

「過呼吸一回じゃ、病名は出ないと思いますけど……まあ、薬で楽になることもありますし」

「午前の過呼吸は……メンタルが原因ってことですか」

「まあ……そうじゃないかと思いますが、僕はそちらが専門ではないので」

 カーテンの影に控えていた看護士が、身を乗り出した。

 内科医は、真顔でこちらを見つめている。

――おかしいな。診察室の丸いスツール。ちゃんと座っているのに、自分の重みが感じられない。靴は床に触れているのに、宙に浮かんでいるみたいだ。

 自分の両腕をつかむ指の震えだけが、唯一リアルに感じられた。



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