17 決めたからには

「デザイン科のある美大か」

 美術準備室で、建明はコーヒーをすすった。「お父さんはなにか言ってたか?」

 窓枠に腰かけて、樹里はこくりと頷いた。


「お父さん。うち、美大でデザインを学びたい」

 父は夕飯のハンバーグを切り分ける手を止めた。

「――どこの大学かは決めた?」

「……いや、まだどことは」

 父は眉をひそめた。

「なんだ、お母さんのところに行ってから、ずいぶん経ってるのに」

「なんで知ってるの?」

 父はそしらぬ顔で、ペッパーミルを回した。

「お母さんとは、連絡とってないんじゃないの?」

「必要なら取るのが、大人だろう」

 父は小さく肩をすくめた。「お母さん、樹里が美大に行くなら、おばあちゃんの遺産から学費を出す、と言ったよ。誤解も甚だしい。僕が金銭面で、樹里の将来を狭めようとでも思っていたのかね。お母さんのああいうところは、やっぱり距離を置かないと、僕も冷静に話ができないね」

「……美大、反対じゃないの?」

「樹里こそ、美大とお母さんをつなげすぎじゃないか?」

 眼鏡の奥で、父の目が鋭くなった。「お母さんが美大に行けなかったから代わりに行ってあげたいとか、そんなこと思ってるわけじゃないだろうね。デザインが勉強したくなった。それが樹里の希望で、本当に合ってる?」

「もちろん」

「じゃあそれでいい。ちなみに、デザインを選んだ理由は?」

「……高校に入ってから、お菓子のパッケージとか、ポスターのデザインに興味が湧いてきたの。油絵はずっと描いてたけど、それを大学でもしたいか、って考えたら、それよりもっとデザインを勉強したいな、って」

「なるほど」

 父はお茶をすすった。じっと湯呑に目を落とした。「子供のやりたいことを応援する。それは、親の義務だと思ってる」

 義務。

「お母さんは義務なんて言葉は使わないだろうけど、僕らが目指す子育ては同じだよ。離婚しても、樹里のことだけは一緒に考えていこうって、約束したから」

「……そのわりに、うちの進路に無関心な時期があったような気もするけど」

 父は後頭部の髪をなでた。

「……離婚というのは、相当疲れることだから……」

「……仕事も忙しそうだったよね」

 父は黙ってハンバーグをつまんだ。

――離婚してすぐの頃、父は仕事で毎晩遅くまで帰ってこなかった。休日もほとんど出勤して。

 父は父で、逃げることに必死だったのだろうか。

 母が居なくなったこの家の重圧に。

 樹里は、空っぽのリビングを眺めた。母のアトリエだった場所。まだ本当にさよならが言えていない場所。

「――でも、僕はお母さんみたいに美大信奉者じゃないから」

 芯の通った声に、我に返った。「美大に行くなら、就職先が多い所にしてほしい。お父さんが心配なのは、樹里の大学卒業後だから」

 父は手の甲に顎をあてて、微苦笑した。

「大学卒業はゴールじゃない。樹里の将来は、まだ始まってもいないんだよ」


 美術準備室から見える校門の松の木には、しんしんと雪が降り積もっていた。

「――そういうわけで、就職先が多い美大にしなさいって」

「父親ならそう思うだろうなぁ」

「ここぞとばかり言いたいこといってきたし」

 建明はくっくっと笑って、椅子をくるりと回した。

「よし、そういうことなら、志望校は工業大学でもいいかもなぁ」

「え⁉」

「デザイン科って結構いろんなところで学べるんだぜ」

「むりむり! いまから理系とか」

「そりゃまあ、お前なら実技科目重視のところがいいに決まってるけど」

「美大! 美大!」

「んじゃ、来月から画塾行け」

 振り回していた両手がずんと重くなった。

「あったり前だろ。美大受験を美術部で全部対策するとか、アホ言うなよ」

「……紙緒先輩は、まだ画塾にいるかな?」

「紙緒? なんだ、まだあいつのこと気にしてたのか?」

「いや、このまえ偶然会っちゃって……」

「どこで」

「県外の古本屋で……あれ、じゃあ紙緒先輩、もう地元にいないのかな」

「知らん。でもあいつ、もう二十歳過ぎてるだよ? ……いたとしたら、二浪か」

 松の枝が雪でたわみ、ばさりと音を立てて、また戻った。

 舞い上がった埃を探すように、樹里は宙を睨んだ。美大を目指すものは二浪は当然、四浪も珍しくない。

 指の腹で、建明が瞼をこすった。

「……分かったよ、画塾の先生に聞いとくわ」

「ありがとう!」

「――まだ通ってたら、どうするんだ?」

 携帯を操作しながら、建明がつぶやいた。

 樹里は建明が飲みほしたコーヒーの紙コップに目をやった。

「……いたとしても、画塾に通うよ」

 紙コップを畳んでゴミ箱に入れた。「これだけは、ぜったい譲らないから」

 口角を上げ、建明は背もたれをきしませた。



 土曜日。肩にかけたスケッチバッグの中で、画材が音を立てる。

 樹里は来浜駅に降りて、駅前の商店街を進んだ。画塾は、商店街を抜けた先の町家の一角にあった。訪れるのは2年ぶりだ。

 玄関の錆びたアルミサッシを引くと、薄暗い土間に出る。土間の奥から、光がこぼれている。光は麻の葉模様のガラス戸からこぼれていた。

 靴をきちんとそろえて、樹里は取っ手に指をかけた。

 色彩の波が、土間に流れ込んできた。

 キャンバスだらけの部屋の端に、丸まった背中が見えた。

「師匠」

「おう……吉野か!」

 ちまたでは仙人と呼ばれている油絵の大先生が、薄くなった頭を叩いた。

「また、お世話になります」

「ずっと気にしていたよぅ」

 師匠は、胸まで伸びた白髭をしごいた。「建明の坊から聞いたよ。まあ、一年がんばろうや」

「はい」

 樹里はコートを脱ぎながら、あたりを一瞥した。

前より狭くなっている気がする。

 ひしめき合うキャンバスのせいだろうか。師匠のタッチじゃない物もたくさんある。ここに来る生徒の作品がたまっているのだろう。

「悪いなぁ。吉野が通う頃には、もうちょっと片付けとくから」

「大丈夫です。それより師匠。今年は現役生しか受験生がいないって聞いたんですけど……」

「そうだよ。珍しいよなぁ、浪人生がいないなんて」

 師匠はふぉっふぉっと笑った。樹里はぎこちなく口の端を持ち上げた。

 紙緒が関西の美大に合格したのは、本当のようだ。

 ふと、つま先が足元のスケッチブックに当たった。その表紙に、目が吸い寄せられた。

『E. Kamio』

 紙緒先輩のだ。

 手に取って、樹里は埃がかった表紙をなでた。

 樹里が小学6年生で画塾に入ったとき、紙緒は中学2年生だった。紙緒は画塾で一番気が合う人だった。だが、彼は中学3年生の夏から高校受験で忙しくなり、画塾には来なくなった。

 翌年の春、美術部が名高い私立高校に入学したと、師匠から聞いた。画塾にはもう来ないんだと思っていたら、9月からまた紙緒は顔を出すようになった。彼は中学の頃より髪が明るくなって、耳に小さなピアスをつけていた。

 もともと話上手だったが、さらに饒舌になり、少し本心が見えなくなった。

 樹里が中学を卒業するまで、二人はときどき遊びにでかけた。電車で美術館へ行き、ファミレスで何時間も話しこんだ。映画館でポップコーンを一緒に食べて、エンドロールは必ず最後まで観た。

 なんだか、すごく懐かしい……。

 スケッチブックのほどけかけていた紐を、樹里はそっと結び直した。

「今日は描いてくかぁ」

 給湯所から、師匠が顔を出した。

「いえ、今日は道具を置きに来ただけなので。予定通り来月から――」

 背後の、ガラス戸が鳴った。

「ごぶさたしてまーす」

「おーぅ、紙緒!」

 肩が硬直して、パキリと鳴った。

 満面の笑みで、師匠が隣を横切った。

 元気だったかぁ。はい、おかげさまで。寒かったろう。そうですね、京都も負けないですけど。

 談笑する二人の声がアトリエに響く。

 樹里はコートを握りしめた。おちつけおちつけ。

 もう逃げないって、決めたんだ。

 思い切って振り返ると、ひきつった顔で、紙緒が目を見張った。

「おやぁ?」

 師匠が髭をしごきながら首を傾げた。



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